地域との共生を通して
「どう生きていくか」を
考え、語れる人に

健康福祉学群

石渡尊子 教授


より健康で、豊かに生きていくために、必要なものとは——。その問いについて探究する健康福祉学群では、さまざまな体験を通した学びが展開されています。学群長の石渡尊子教授が重んじる、地域と連携した教育について、そしてその起点となった自身の米国留学時代の経験、家政学史研究について聞きました(聞き手:桜美林大学 畑山浩昭学長)。

父の影響を受けて海外へ
積極的に異文化と交流

畑山:石渡先生は今春、健康福祉学群の学群長に就任されました。「健康」「福祉」といえば、「すべての人に健康と福祉を」というスローガンが、国連のSDGsの目標の一つとして掲げられていますね。

石渡:はい。健康福祉学群のカリキュラムでは、教室で「健康」と「福祉」について学びながら、大学の外へ出て、子どもの遊び場や地域の人々の居場所づくり、高齢者や障害のある人たちとのスポーツなどにも取り組むことができます。こうしたプログラムを1年次から経験することで、すべての人々の「健康的な生活」を実現し、「福祉」を推進するプロフェッショナルを育成していきます。

畑山:学群の中では、「領域」と「専攻」が細かく分かれています。

石渡:「健康・スポーツ」「福祉・心理」「保育」の3つの領域があり、生涯にわたって心身の健康と生活の質の向上を支援するための学びが展開されます。これらの領域の中に、6つの専攻(健康科学、スポーツ科学、社会福祉学、精神保健福祉学、実践心理学、保育学)を配置しています。各専攻の学びを深めるだけでなく、3つの領域を横断し、幅広く学ぶことによって、視野の広い専門性を獲得できるようにしています。

畑山:領域をまたいで学べるのは、大きな強みですね。次に、石渡先生ご自身の歩みについてお聞かせ下さい。米国の大学を卒業されていますが、大学院ではなく学部から海外というのは、ちょっと珍しい。

石渡:海外での仕事が多かった父の影響もあって、カリフォルニアの州立大学に通うことにしたんです。カリフォルニアといえばきれいな海がそばにあるところだと思っていたのに、行ってみたらフレズノというヨセミテ国立公園の近くの内陸で(笑)。フレズノがどういった場所かも調べてもいなくて。でも、「まあそれならそれで」と思いました。

ちょうど当時、米国では民族・人種・性別などによる差別を是正する改善措置「アファーマティブ・アクション」が積極的に行われており、アメリカ社会でマイノリティと呼ばれていた人たち、例えばアフリカ系アメリカ人、日系を含むアジア系アメリカ人、チカーノなどの人々を学際的に学ぶ「エスニック・スタディーズ」が大学では盛んに取り入れられていました。さまざまな背景を持つ人たちの歴史や文化を知るそれらの授業はどれも初めて知ることばかりでとても楽しく、またその中で多様な友人たちにも恵まれました。そして私は、いろんな背景を持つ人々が交流するサークルを立ち上げました。フレズノの街はかつて日系人強制収容所があったところで、多くの日系人が生活していました。そうした方たちと交流する機会もつくりました。

サークルを立ち上げるなど活発に活動した米国での留学時代

畑山:積極的に活動されたのですね。バブルの余韻が残る時期、日本からの学生が歓迎された頃ですか。

石渡:はい。ただ、私が主に学んでいた小学校教員を目指すコースには他に日本人はいませんでした。

畑山:それは貴重な存在だったのですね。英語はお得意だったんですか。

石渡:全っ然! はじめは授業についていけず、「日本から来たばかりで英語がわかりません。テストだと時間が限られるので点数が取れません!単位が取れるようにエクストラ・クレジットを設定して下さい!」と先生に泣きついて、私だけ特別にレポート課題を出してもらっていました。そういう点で、生きる力はありましたね。

体験を通した学びの大切さに
気づいた学生時代

畑山:小学校教員を養成するコースに進んだのは、なぜですか。

石渡:教員を目指していたわけではなく、体験的な学びのプログラムが多いことに惹かれたからです。もちろん座学もありますが、それ以外の活動が山ほど用意されていました。当時のフレズノは特にモン族など東南アジアからの移民が多く、そうした子どもたちと放課後の小学校で数カ月間関わる機会もありました。

その他にも、犯罪に手を染めてしまった子どもたちの保護施設で一緒に遊んだり、ホームレスの人たちへ食事を提供する場所でご飯をつくったり。青年犯罪学の授業では、パトカーの助手席に座って半日行動を共にする機会もありました。そこで感じたのは、学校の教師も含めて社会の側が、貧困の中で将来に希望を持てずにいる多くの移民の子どもたちのことを「どうせ社会の役に立つようにはならない」と、どこかで一括りに見なしていたこと。そんな偏見に強い憤りを感じたものです。

そして子どもたちと関わって活動する中で、アメリカという国、また教育のあり方にも疑問を持つようになりました。その疑問を晴らすためには、まず「日本の教育についてきちんと学ばなければ」という思いも芽生えました。卒業後に帰国してからは、玉川大学の大学院修士課程で教育学を専攻することに。その後、当時の指導教官だった田中義郎先生(現・桜美林大学教授)の勧めで、寺﨑昌男先生(現・東京大学、桜美林大学、立教大学名誉教授)の下で学ぶために桜美林大学の大学院博士課程に進みました。

畑山:大学院生だった当時を振り返って、印象に残っていることはありますか。

石渡:当時の桜美林大学大学院国際学研究科で開講されていたほとんどの科目を履修したことが実に楽しかった。例えば、アメリカ政治学を教えていらっしゃった上坂昇先生(現・名誉教授)の授業では、留学時代の自分がいたアメリカにどのような社会的背景があったのかを客観的に知ることができたわけです。その他、哲学、社会学や教育学関連の授業でも、留学時代の実践的なプログラムで現実を目にしてきたからこそ、抽象的な理論や概念がストンと胸に落ちて感動しました。

こうした体験が、現在の健康福祉学群のカリキュラムづくりにも繋がったのだと思っています。学生時代にさまざまな体験をすることで、座学で学んだことをより深く理解することができる。これを健康福祉学群の学生たちにも実感してほしいという思いでカリキュラムをつくりました。

歴史研究との出会い
大学史、自校史、沿革史

畑山:ご自身の経験から生まれた、とても重要な視点ですね。博士課程を終えてからは、他大学・機関での勤務を経て、2006年、桜美林大学に講師として着任されました。

石渡:博士課程の学生のとき、桜美林学園創立者の清水安三・郁子先生の遺品や学園史の資料整理にも従事しましたので、桜美林大学には思い入れがありました。そして多彩な先生たちとの出会いも大きいと思います。指導教授であった寺﨑昌男先生は大学史研究の第一人者ですが、自校史教育、大学アーカイブズの意義や重要性を示され、その結果として多くの日本の大学にそうしたものが普及しました。私は大学基準協会の研究員として協会の55年史編さん事業に関わりましたが、その際にも編さん委員長でもあった寺﨑先生にご指導頂いたことで資料に向き合うことの大切さを理解することができました。

また、学園史の資料整理では、教職課程の教授でいらっしゃった榑松かほる先生(現・名誉教授)、当時国際学部の教授でいらっしゃった文化人類学者の(故・)高橋順一先生にもたいへんお世話になりました。高橋先生には、相模原市立博物館で学芸員をしておられた浜田弘明先生(現・リベラルアーツ学群教授)を紹介いただき、同博物館内にある相模原市史編さん室に資料整理の勉強を兼ねてアルバイトに行った経験がありました。

その後、浜田先生も桜美林大学に着任され、先生のご尽力で学園史資料は学芸員課程で管理されるようになり、桜美林資料展示室も開設されました。私はその資料を活用した学芸員課程の授業も担当しています。現在、「桜美林学園100年史」編さん事業を進めていますが、そこでも学園史資料が欠かせない資料群になっています。

分担執筆と編集を担当した『大学基準協会55年史』

地域での活動の中で
主体的な生き方を考える

畑山:人との出会いが現在に繋がっているのですね。もう一つ、石渡先生の研究に「家政学史」「女性史」というキーワードがあります。こうした分野に関心を持った経緯とは。

石渡:専業主婦の母を見ながら、自らも当たり前にそうなるのだろうと、それ以外の進路を深く考えもせずにいました。ところが実際にはいろんな縁に導かれながら、大学院生になっていた。そこで、「私はなぜ大学院に来たのかしら?」「女性がなぜ学問に取り組むのだろう?」と自問自答したのがきっかけでした。

戦後改革期に初めて女子大学がつくられ、その多くに家政学部ができ、家政学という学問分野ができました。私は、いま健康福祉学群で行おうとしている教育が、まさに家政学教育が目指してきたものだととらえています。つまり、「一人ひとりを中心にして、各自が幸せに、豊かに暮らしていくために、どうしていくかを考え、そして実践する」ということです。

畑山:たしかに、健康福祉学群が目指すものと合致していますね。生涯にわたって、心身の健康と生活の質の向上を支援するための学びですから。

石渡:私は戦後の新制大学に創設された家政学を研究していますが、たとえば琉球大学においては、家政学者たちが地元の人たちにただ知識を伝えるのではなく、一緒に食べ、衣服を作り、作物を育てていました。地域に入って生活の改善を実践的に支えていたことがわかります。こうした「地域と共に生きる」ところが面白いと感じますし、何よりも「これからの日本の大学は、こうあるべきだ」と思います。

大学教育における女性および家政学の展開についてまとめた『戦後大学改革と家政学』(東京大学出版会)

私が留学した大学は州立大学でしたから、地域に根差した「エクステンション活動(普及活動)」が特に盛んであり、教員や学生たちが地域の人たちの生活を豊かにするために活動するプログラムがたくさんありました。桜美林の学生たちにも、ぜひこのような体験をしてもらいたくて。地域に暮らしながら、自分が何を学んで、それをどう人々に提供し、活用して、生きていきたいのか。それを考える力をつけるためにも、大学は地域と結びつかなければいけませんし、それが本来のあり方だと考えます。

畑山:「共生」の感覚を持つことを美点としてきた桜美林大学の、あるべき姿を提示して下さいました。最後に、今後の展望として描いておられることは。

石渡:健康福祉学群では1年次から全員がフィールドに出て学び、大きく育っているのを実感しています。今後は、地域の子どもからお年寄りまで集えるような空間を創出する役割を、健康福祉学群が担っていけたらと考えています。大学と地域の接点となる「場」で学生たちが活動し、一人ひとりが、より健康的で、豊かに生きていくためには何が必要かを考え、「どう生きていきたいか」をしっかり語ることができるようになることを願っています。

地域の人々が集う「みなさんの居場所 ぼくはぼく」
小規模校の子どもたちとの交流

文:加賀直樹 写真:今村拓馬

※この取材は2024年7月に行われたものです。

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