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バブル景気崩壊後の
日本経済に立ち向かう
バブル景気とは何だったのか
1980年代、日本経済はかつてないほどの高揚感に包まれていた。トヨタ自動車はアメリカ市場を席巻し、SONYのウォークマンは世界的なヒットを飛ばした。三菱地所によるロックフェラー・センター買収も象徴的だった。いわゆる「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が現実味を帯び、世界は日本の経済力に注目していた。
しかし、その輝かしい時代の裏側で、重大な転機が静かに訪れていた。1985年、ニューヨークのプラザホテルに日米英独仏の先進5か国が集い、ドル高是正を目的とした「プラザ合意」が結ばれる。アメリカの貿易赤字是正、日本の輸出競争力の抑制という意図のもと、ドル安・円高が急速に進行。日本は輸出競争力を低下させ、景気は冷え込み、政府は対応を迫られた。これを受けて日本銀行は低金利政策を導入。大量の資金が市場に供給されたが、その多くは株式や不動産に流れ込んだ。資産価格が急騰し、いわゆる「バブル景気」が到来した。
「不動産価格も株価も、実体からかけ離れて膨張していきました。当時の日本では、土地は必ず値上がりするという“土地神話”が信じられており、実際の収益性に基づかない取引が過熱していたのです。現在の冷静なファイナンスの視点で見れば、キャッシュフローと資産価格が釣り合っていないのは明らかでした」
そう語るのは、大学院国際学術研究科の池田聡准教授だ。当時は学生としてバブル期の熱狂を目の当たりにし、「日本のお金の動きの中枢である日本銀行で働きたい」と強く志すようになったという。その思いを胸に、1990年、新卒で日本銀行に入行。最初に配属されたのは営業局市場課だった。
「投資家によるスリリングな企業買収を描いた『ウォール街』(1987)という映画も好きでしたし、為替市場の動きなども学生時代から関心がありました。最初に配属された営業局市場課という部門は、いわゆるマーケットを管轄しているところでした。モニターがたくさん並んでいて、為替レートや株価の情報が映し出されている。日本銀行に入行したのだなと実感しました」
その後、1年間の本店勤務を経て、池田准教授は地方での経験を積むため、広島支店に異動。自動車メーカー・マツダを擁する地域経済と向き合いながらも、東京とは異なる“のんびりした空気”も感じていたという。しかし、1992年に再び東京へ戻ると、かつての高揚感からは一変していた。
「社会全体がまるで光を失ったようでした。1991年のバブル崩壊以降、東京の空気は重く沈んでいました。地方にいた時は、まだその実感が薄かったのですが、東京に戻った瞬間、景気の落ち込みが肌で感じられました」
バブル景気の崩壊とデフレーション
1980年代末、日本経済は「バブル景気」と呼ばれる好況期にあったが、その実態は借入に依存した脆弱な構造だった。不動産や株式といった資産価格は、人々の「値上がりするはずだ」という期待に支えられて異常なまでに高騰していた。
「物価の安定」と「信用秩序の維持」を使命とする日本銀行は、こうした過熱を抑えるため、1990年に金融引き締め政策を導入。公定歩合(政策金利)の引き上げによって資金調達コストを上昇させ、バブル景気の沈静化を図ったのだった。しかし結果として、この政策は市場の急激な冷え込みを招いた。資産価格が一気に下落し、企業の抱えていた借入に対して返済が困難となり、金融機関が保有する多くの債権が不良債権化した。
不良債権とは、返済が滞っている、または返済が見込めない貸付金のことを指す。バブル期に金融機関が積極的に企業などに貸し込んでいた資金の多くが、バブル崩壊後に回収不能となり、銀行経営にも深刻な影響を及ぼした。企業側もまた、膨れ上がった債務の返済に苦しみ、日本経済全体が深刻な長期停滞に陥っていく。
「当時の政策対応は遅れたと言わざるを得ません。金融引き締めが急激だったことで、市場の混乱を招き、結果としてバブル景気崩壊の引き金となりました。また、バブル景気の特徴として、市民の暮らし自体には大きな変化がなかったことが挙げられます。景気が良いとされながらも、賃金の上昇はせいぜい3%程度。実感を伴わない好景気でした。つまり、問題の核心は『資産価格の膨張』にあったのです」
このように、資産価値と実体経済との乖離が顕著だったことも、政策判断を難しくした。金融引き締めにより資産価格を抑制すれば、企業や個人に打撃が及ぶことが懸念され、政府や日本銀行は対応に慎重にならざるを得なかった。バブル景気の崩壊は、企業経営だけでなく、金融機関、さらには国家経済全体に深い爪痕を残した。そしてその後、日本は長く「失われた10年」、さらにはデフレ経済へと向かっていくことになる。
日本銀行から産業再生機構へ
その後、日本経済の転換点に関与していく
不良債権問題と産業再生機構の設立
バブル崩壊後の1990年代、日本経済は深刻な不良債権問題に直面した。広島支店から東京の本店に戻ってきてからは、不良債権問題への対応が、業務の中心になっていったと池田准教授は語る。その後に赴任した大阪支店でも、東京以上に不動産価格の変動が激しく、次々と銀行が破綻していくのを目の当たりにしたという。
「銀行の貸出先企業が業績悪化で借金を返せなくなり、回収の見込みが立たなくなった債権が不良債権です。日本銀行の職員として、私は公的資金の注入に関わる手続きや、破綻処理、スポンサー探し、企業再編など、金融機関と受け皿金融機関や投資ファンドの間に立って調整に奔走しました。銀行は民間企業とは異なり、預金者の保護という使命もある。だからこそ、通常の倒産処理では対応しきれない、極めて複雑で時間のかかる業務でした」
バブル崩壊から10年以上が経過しても、不良債権問題は根本的に解決されないままだった。そうした状況のなか、政府が最後の手段として2003年に設立したのが「産業再生機構」だった。その目的は、再建可能な企業に対し、裁判所を介さず債権者との協議(私的整理)を通じて、迅速かつ公正に支援し、日本経済の再生を図ることにあった。
「政府も、これまでのような漸進的な対応では限界だと感じていたのです。不良債権処理のペースを加速させるには、既存のしがらみから自由な新しい第三者機関が必要だった。それが産業再生機構だったのです」
では、なぜバブル崩壊と同時にこうした対応が取れなかったのか。「当時の政府や多くの専門家は、これは景気循環の一部であり、自然に回復すると信じていたのだろう」と池田准教授は説明する。株価や地価が一時的に下がっても、いずれ底を打ち、景気が戻ると見ていたため、銀行においても追加融資による延命措置が繰り返された。その結果、返済不能な債権が積み上がり、問題はむしろ深刻化していった。
「一方で、銀行側も再建支援に本腰を入れられない事情を抱えていたのでしょう。メインバンクの銀行が、自らの主要取引先に対して抜本的な再建策をとるのは難しいのです。企業との長年の関係や、融資先に元銀行員が出向しているといった“しがらみ”がある。融資を止めれば、企業が破綻し自分たちが抱える損失も膨れ上がってしまうこともある。こうした構造的な問題が、不良債権処理の遅れの背景にあったのだと思います」
ミッションは私的整理による民間ベースでの企業再建
産業再生機構の最大の特徴は、法的整理ではなく、私的整理による民間ベースでの企業再建を目的としていた点にある。法的整理とは、民事再生法や会社更生法、あるいは破産法に基づき、裁判所が関与して行われる手続きのこと。債権者平等の原則に従い、すべての債権者に同等の取り扱いが求められるが、その分、柔軟な調整がしづらく、その後の経営再建が上手くいかないことも多いというデメリットがあった。
たとえば、スーパーマーケットが仕入先への支払いを滞らせると、取引が打ち切られ、商品が棚に並ばなくなり、顧客も離れてしまう。営業が継続できなければ、再建自体が困難になる。そこで、裁判所を介さず、銀行など一部の債権者と債務者の合意のもとで再建を図る「私的整理」が現実的な手段となるのだ。
「産業再生機構による私的整理では、基本的に損失は金融機関のみで負担し、取引先からの債務は保護します。そのうえで、メイン銀行以外の銀行債務を全て機構が買い取り、債権者はメイン銀行と機構の2者にしたうえで再生を行います。メイン銀行以外の銀行からの債権については50%以上のカットを要請することも多く、そのためには、銀行に出向いて粘り強く交渉し、合意を取り付けることが必要でした。これが産業再生機構の役割だったのです」
同時に、再建計画の策定も必要だ。私的整理では裁判所が関与しないため、計画立案の中立性が求められる。再建対象企業やメインバンクが計画を作成しても、利害関係が疑われる可能性がある。だからこそ、第三者である産業再生機構が間に入り、透明性のある計画を策定しなければならなかったのだ。また、大企業になると、関係する金融機関が100行を超えるケースも珍しくないが、それぞれに痛みを伴う決断をしてもらう必要があったという。
「銀行の担当者からすれば、自ら決裁した10億円の融資が回収不能になり、結果的に3億円の損失が発生するとなれば、自身のキャリアにとって大きな痛手です。産業再生機構が入ると、損失の発生がほぼ避けられない状況になります」
産業再生機構は、法律(産業再生機構法)に基づき運営されており、提示した再建計画に対して、金融機関は3カ月以内に回答する義務を負っていた。もし合意に至らなければ、産業再生機構は支援を打ち切り、企業は法的整理に移行することになる。
「たとえば、私的整理であれば5億円の損失で済むのに対し、法的整理に移行すれば10億円の損失が発生するケースもある。銀行にとっては選択の余地がない構造です。だからこそ、産業再生機構は“地獄の閻魔大王 不良債権処理の最終兵器”とも呼ばれていました。実際、41件すべての案件で合意を成立させています。私はカネボウをはじめとする5件の事業再生案件を担当しました。制度的に非常に有利な立場にあり、合意形成が実現しやすい仕組みでした。法的な後ろ盾を持ちながら、あくまで民間的に動く。この点も非常に興味深い仕事でした」
支援企業に関する発表資料
https://www8.cao.go.jp/sangyo/ircj/ja/shienkigyo.html
産業再生機構のメンバーとともに起業
「JAL再生タスクフォース」に加わる
産業再生機構には、銀行員、弁護士、コンサルタントなど、各分野のプロフェッショナルが集結していた。その背景には、産業再生機構が5年間の時限組織という仕組みがあったからだと池田准教授は語る。
「産業再生機構は癒着や天下りの温床にならないように、5年間で解散という期限がありました。期限があることで、不良債権問題もスピード感をもって対処できる。そのため、優秀な人材も“今しかない”と集まってきた。私も日本銀行から出向を命じられたときは、最初は戸惑いもありましたが、こうした各省庁のエースとの仕事に大いに刺激を受けて夢中で仕事しました」
産業再生機構での濃密な経験は、池田准教授の人生を大きく変えることになる。産業再生機構のミッション終了後、日本銀行に復職したが、「この再生支援の仕事は、まだ社会に求められている」と感じ、思い切って退職。2007年、産業再生機構の元メンバーら約15人と共に、株式会社経営共創基盤(IGPI)を設立した。
そしてその2年後、2009年。リーマンショックの余波を受け、経営危機に陥った日本航空(JAL)が会社更生法の適用を申請し、事実上の倒産。当時の国土交通省の前原誠司大臣が「JAL再生タスクフォース」の設置を発表し、池田准教授を含む経営共創基盤のメンバーがその中核に抜擢された。
「JAL再生タスクフォースの活動期間は約1カ月半。JALグループは巨大で関係会社も多数に上るなか、再建計画をこの短期間でまとめる必要がありました。毎日JALの会議室にこもり、ホテルに泊まり込みながら作業を続けました。土日も休まず、睡眠時間は約4時間。非常に厳しい日々で、すでに40代でしたが“あの頃は青春だった”とも思います。JAL再建を題材にしたフィクションとして、池井戸潤の小説『銀翼のイカロス』やテレビドラマ『半沢直樹』があります。そこに登場する冷徹なコンサルタント部隊が、まさに私たちのことですね(笑)」
一方、政府も再建支援の恒常的な枠組みの必要性を認識し、2009年に企業再生支援機構を設立。中堅・中小企業を主な対象とするはずだったが、支援第1号がJALとなった。この支援機構とJAL内部の再建チームが、JAL再生タスクフォースが策定した再建計画をベースとして実行に移していくことになった。
「再建の鍵は、上場廃止、赤字路線の見直し、機材の整理、グループ企業の整理、そして企業年金の削減だったと考えられます。特に年金問題は、社員一人ひとりから合意を取り付ける必要があり、極めて困難な作業だったと思います。倒産ではあるけれど、取引先債務を守りながらの法的整理ができたのは、支援機構と裁判所の連携によるもの。これがJAL再建を可能にしたのです」
原発事故に対応する支援制度の設計と運用
JAL再建から2年後の2011年3月、東日本大震災とともに発生した福島第一原子力発電所の事故は、日本社会に大きな衝撃を与えた。放射性物質の影響で多くの住民が避難を余儀なくされ、生活・健康・財産に関わる甚大な被害が生じた。加えて、原発の廃炉や除染といった長期的な対応も不可避な課題となった。池田准教授はこのとき、経営共創基盤から、原子力損害賠償・廃炉等支援機構に一年間転籍した。
「原子力損害賠償・廃炉等支援機構の設立には、かつて産業再生機構で共に働いた役所の先輩が動いていて、『人手が足りない。力を貸してほしい』と声をかけられました。もちろん、即答で引き受けました」
原発事故による損害賠償や廃炉にかかる費用は膨大で、東京電力単独では到底まかないきれない。そのため、国が資金を一時的に拠出し、東京電力はその資金を用いて損害賠償を行いながら、将来的に国に対して返済していくという枠組みが必要になった。
「私たちの役割は、その支援スキームの設計と運用を担うことです。東京電力による国への返済計画はおよそ何十年にもわたる長期的なものであり、それを確実に機能させるためには、制度とモニタリング体制が欠かせません。1年の期間を終えたのち、私は経営共創基盤に復帰しましたが、現在も支援機構の参与として、損害賠償の進捗や国への返済状況のモニタリング業務を継続しています」
桜美林大学で目指すのは
社会で生き抜く力を育てること
理論と実践を往復する拠点として
経営共創基盤において、新規事業の立ち上げ、海外進出、M&A支援など、多岐にわたる企業支援に携わってきた池田准教授。その経験をより深く社会に還元し、理論と実践を往復しながら体系化していきたいという思いが、次なるステージとして桜美林大学を選ぶ決め手となった。
「これまで2つの大学で客員講師を務めた経験があり、大学という場の可能性に触れてきました。そして、ある学会でのご縁をきっかけに、桜美林大学に着任することになりました。現在も複数の企業で社外取締役やアドバイザーを務めていますが、現場で得た知見を研究へと昇華し、その成果を再び実務へと還元する。現在この循環のなかで、自分の理想としていた“理論と実践を行き来する場”に立てていると実感しています」
「心は自由であるか?」
池田准教授が担当するゼミナールでは、「これからの社会を生き抜くための力」を育てることを目指しているという。単なる知識の蓄積ではなく、社会の仕組みを読み解き、そのなかでいかに自立して生きるかを考え抜く力だ。
「会社が倒れても、自分自身は立ち続けられる力。それは資格や肩書きではなく、目の前の課題に対して仮説を立て、検証し、行動できる力です。今の日本社会では、そうした思考力と行動力こそが求められていると思います」
ゼミナールでは、企業と連携した実践型の課題解決型学習を展開している。たとえば、コンサル時代のクライアントであるミツカンや神戸屋といった企業から「新規事業を開発せよ」というミッションを受け、学生たちは試行錯誤の末に企画を立案。クライアントからのフィードバックは、時に厳しいものにもなるという。
「課題を出してくれる企業には、成果に対してしっかりとダメ出しをしてくださいとお願いしています。そうした実践のなかで生き抜く力を身につけてほしいと思っています。『社会に出てようやく先生の言葉の意味がわかりました』と卒業生から言われることがありますが、それが一番嬉しい瞬間ですね」
池田准教授が仕事や教育のなかで大切にしているのは、経営共創基盤の設立時に掲げた7つの言葉。なかでも「心は自由であるか?」という問いが池田准教授の信念になっているという。
1.心は自由であるか?
2.逃げていないか?
3.当事者、最高責任者の頭と心で考え、行動しているか?
4.現実の成果に固執しているか?
5.本質的な使命は何か?使命に忠実か?
6.家族、友人、社会に対して誇れるか?
7.仲間、顧客、ステークホルダーに対してフェアか?
8.多様性と異質性に対して寛容か?
「組織のなかにいると、さまざまなしがらみや忖度が生まれてしまうものです。組織内に本当は問題があるとわかっていても、声に出せない。それでは心が不自由になります。しかし、自分がこの場所以外でも十分に活躍できるという気概があれば、自分の信じることをはっきり言えるはずです。私は、どんな状況でも『心は自由である』という姿勢を持ち続けたいし、学生にもそうであってほしいと思っています」
社会を生き抜く力とは、自由な心で現実と向き合い、自らの信念に基づいて行動できるかどうか。その力こそが、変化の激しい時代を生き抜く原動力になる。池田准教授の教育とこれまでのキャリアは、まさにその信念に根ざしている。
教員紹介
Profile
池田 聡准教授
So Ikeda
1967年東京都生まれ。1990年に日本銀行に入行し、2003年に産業再生機構に出向。産業再生機構の解散後、産業再生機構の元メンバーとともに、株式会社経営共創基盤(IGPI)の設立に参画。2009年に「JAL再生タスクフォース」の事務方とりまとめ、2011年に原子力損害賠償・廃炉等支援機構にも参画した。2019年より桜美林大学に着任。大学教員と併行して複数の企業の社外取締役やアドバイザーなども務める。
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