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人を支援する者を育てる
「臨床家養成」に捧げる歩み
精神分析を礎にした
「力動的アプローチ」との出会い
現代社会は、目に見えにくい心の問題が複雑化・多様化している。その背景には、人間関係の希薄化やSNSによる過剰なつながり、成果を求められるプレッシャーなど、さまざまな要因がある。こうした課題に対応する臨床心理学の役割は、近年ますます重要視されている。大学院・国際学術研究科の井上直子教授は、そのなかでも「力動的アプローチ」を主軸に研究と実践に取り組んでいる。これは、精神分析の理論を基盤としながら、その枠組みを広く汎用化し、現代の多様な心理的課題に柔軟に応用できるアプローチである。
「私が心理療法の基本に触れたのは、大学時代に師事した、都留春夫教授との出会いがきっかけでした。都留先生は日本の学生相談の草分け的存在であり、カール・ロジャースが提唱した『来談者中心療法』の実践者でした。私にとって来談者中心療法の特に『共感的理解』という概念は支援者としての原点となっています。さらに大学院時代では、個人と集団を対象とした力動的アプローチを集中的に学びました。」
力動的アプローチは、無意識の存在と影響力を重視する精神分析の知見を基盤とし、内的世界を「心のメカニズム」として捉え、多くの説明概念を提供する。個人内の力動だけでなく、対人関係における心理的変化、すなわち「対人力動」にも注目し、支援者との関係性のなかでどのような変化が生じるのかを理論的に掘り下げていく。支援者との今ここでの体験が、過去や現在の対人関係の困難さを修復する働きを持っているため、支援者自身の深い自己理解や関係の中で生じる相互的な変化を受け入れる開かれた態度が重要となる。いわば支援者自身を支援・変化の道具として使うという点にこのアプローチ独特の魅力がある。
「現在、心理療法の方法論は多様化の一途をたどっています。来談者中心療法、精神分析的心理療法、認知行動療法といった主要な流派に加え、個人、家族、集団、カップルといった対象の違いや、抱えている問題の性質によるアプローチの使い分けも必要です。近年では、こうした諸理論をクライアントの状況や希望に応じて柔軟に運用する『統合的心理療法』や『多元的心理療法』が主流となりつつあります」
井上教授も日本心理療法統合学会に所属し、統合的アプローチを探究している。力動的アプローチについて先述したが、大切なのは支援を必要とする目の前の人にとって何が最も有効であるかを率直に話し合いながら一緒に見極め、それに応じて手法を組み立てることだと井上教授は語る。
心理学との出会いが導いた進路選択
井上教授が心理学に関心を抱いたのは高校時代。大学進学を考える時期だった。人を対象とした仕事に魅力を感じ始めた頃、知人から「家庭裁判所調査官」という職業について聞き、その道に進むには心理学の学びが必要だと知ったことが契機となる。さらに、偶然手に取った書籍『心のプリズム』(朝日新聞社)が決定的な影響を与えた。そこには数々の心理学実験が、一般向けにわかりやすく紹介されており、人の心を研究するとはこういうことなのだと初めて具体的に理解できたという。
「そんな出会いが心理学に対する関心へとつながり、大学での専門として選ぶに至りました。大学で学び始めてからは、人の心を理解し、人を支援する営みに魅了される一方で、家庭裁判所調査官という職業には向いていないと感じるようにもなりました。しかし、心理学を通じて人を理解し、支える役割だからこそ見せてもらえる人の真の姿に触れる喜びと、自分に成長を求め続ける楽しさから、大学院進学を決意しました」
支援者を支援する、臨床家養成への情熱
現在、井上教授が最も力を注いでいるのが、臨床心理士や公認心理師の養成だ。1988年に臨床心理士が誕生、2017年から公認心理師制度が開始され、支援の質が問われる今、優れた専門家を育てる重要性はますます高まっているという。
「私の学生時代には、資格制度もなく、臨床家を育てる体系的な仕組みはほとんど存在していませんでした。そのような黎明期において、幸運にも最先端のトレーニングを受ける機会に恵まれたのは、今の教育活動の根幹を成していると思っています」
井上教授が博士課程在籍時代に受けたトレーニングは、精神分析的心理療法と集団心理療法を含む「体系的訓練」であった。大学院外に設けられたこの機関は、アメリカの専門研修プログラムの水準を目指して設立された研究所で、徹底した少人数制により理論と実践を統合した教育を行っており、実践指導を通じてスキルを磨き、さらには指導者となるための訓練も組み込まれていた。
全5年間に及ぶこのプログラムは、臨床家としてだけでなく、スーパーバイザーとしても活動できる実力を育む内容だったという。博士課程と並行してトレーニングを受けるという濃密な時間のなかで、理論・実践・教育の三本柱が一体化する学びを経験したことが、現在の指導方針にも深く影響していると井上教授は語る。
この貴重な学びをもとに、井上教授は同期とともに新たな研究所を設立。ここでも、外部から紹介されたケースに対応しながら、実践的な教育を展開。実際の支援活動を通じて、生きた学びを次世代へと継承していった。
現場からつながった、
生きた教育の場
理論と実践をつなぐ大学院&臨床心理センター
研究所の設立という実践活動のなかで、桜美林大学との縁が生まれた。桜美林大学の教授から紹介を受けたケースを井上教授が担当し、クライアントに明らかな改善が確認できたことが信頼へと繋がり、臨床心理学の講師の公募案内を手にすることとなったのだ。
「入職当初、心理学はまだ副専攻にすぎませんでしたが、資格制度の整備が進むにつれて、大学内における心理学の重要性も次第に高まっていきました。そうした時代の流れを受けて、桜美林大学でも学部・大学院の両方に心理学専攻が設置され、私自身も本格的に教育と研究に取り組むこととなりました」
現在は、大学院に所属しながら、キャンパス内にある「臨床心理センター」のセンター長を務めている。大学院生が実習を行うこの施設では、臨床家としての実力を確実に育む体制が整えられているという。特に、論文指導を担当する専任教員とは異なり、成績評価の役割を持たない、現場経験豊富な有資格者をスーパーバイザー(非常勤講師)として招き、院生が取り組む心理面接や心理検査に対して、院生の個性を大切にしながら細やかに指導する体制は理想的だという。
「大学に所属する教育者は、現場経験が徐々に少なくなってしまうという実情があります。そのため、院生たちは病院や児童相談所などの実習を通じて現場経験を積んでいきます。しかし、大学のなかにも現場のニーズを常に意識し、世界の最新アプローチにも目を向けている教育者の存在が不可欠です。私自身がそうした存在であることを目指すだけでなく、異なるアプローチを実践している複数のスーパーバイザーから学ぶことで、統合的アプローチの感覚も身につけてもらえたらと願っています。臨床心理センターにおいて、そうした環境を提供し続けていくことが私の使命だと考えています」
支援者のネットワークを築く「井上ゼミ的な集い」
桜美林大学大学院が開設されてから現在に至るまで、24期に及ぶ院生たちを送り出してきた井上教授。ゼミナールに所属した者だけでなく、関わりのあった修了生が希望すれば加わることのできる「井上ゼミ的な集い」としてつながっており、メーリングリストなどを通じて情報交換や近況報告が行われているという。
こうした修了生とのつながりは、現場からの学びを得る貴重な機会でもある。たとえば、近年注目されている「AEDP®︎心理療法(AEDP®︎ Psychotherapy)」というニューヨーク発のアプローチについても、修了生からの情報提供がきっかけで知り、現在では自ら体系的なトレーニングを継続していると井上教授は語る。
共に育ち、共に学ぶ関係へ
臨床家の育成において最も重要なのは、単に知識や技術を教えることではなく、共に学び合う姿勢を持つことである。修了生たちが現場で培った知見を大学に還元し、大学で得た理論を現場で活かす。このような双方向の関係性が進化していくことで、心理支援の質はより高まっていく。
「今後は、修了生たちと連携しながら、臨床家を育てる仕組みそのものを研究対象とし、より効果的なトレーニングを提供するという試みにも本格的に取り組んでいきたいと思っています。人を支援する者を育てる。その営みには、知識の伝達を超えた深い人間的つながりがあります。何をするかという「Doing」も大切ですが、どう在るかという「Being」が基盤にあってこそのDoingです。Beingは人との繋がりにおいて作られていきます。心理学という学問を通じて、その輪を今後もさらに広げていきたいと考えています」
現場から始まる支援の連鎖が
やがて社会を大きく動かす
社会貢献とは「一人を支えること」から始まるから
臨床心理士や公認心理師を養成し、社会に送り出すことは、個々人にとっても社会全体にとっても意義深い営みである。社会貢献というと大きな対象に働きかける印象を持たれがちだが、井上教授にとっての社会とは「目の前にいる一人」だという。
「研修や講演など、多人数を対象にする心理教育も重要ですが、私はむしろ、日々の教育や臨床の実践において目の前の一人ひとりと誠実に向き合う姿勢が、最も本質的な社会貢献であると信じています」
一人の人がより良い状態になることで、その変化はその人の周囲にも波及し、結果として社会全体にも好影響を与える。井上教授は大学の研究日を活用し、現場実践も継続している。
「社会福祉法人 横浜共生会では、重度身体障害のある方への面接支援や、生活支援員へのサポートを行っています。現場の支援者たちは若くして重責を担っており、チーム体制とはいえ実際には一人で対応する場面も少なくありません。業務の評価が得にくく、孤立感を抱えることもあります。そうした人々を少しでもエンパワーできるよう、また彼ら自身の生活上の困難にも寄り添うことが、私の実践の一部です」
臨床家を育てる過程では、「目の前の相手にどのようにアプローチできるか」を実践的に学ぶ必要がある。その際、すべての院生が同じ資質を持つ必要はない。観察力、感情の豊かさ、論理性、直観力など、それぞれが持つ特長を臨床家としての強みに変えていく教育を行っているという。
「得意なことを伸ばし、苦手なことは少しずつ補う。それによって“その人らしい支援”が実現されると考えています。そのために、修士課程という土台において、院生自身が自分の特長に気づき、臨床家としてのスタイルを築けるようなトレーニングプログラムの構築を試みています」
長期的支援の尊さと「共に歩む」姿勢
横浜共生会との関わりは、偶然のご縁によって始まった。当初は身体障害者支援に関心があったわけではなく、スーパービジョンをしていた方からの紹介によって、心のケアの重要性に気づいた施設長のもとに赴くことになった。スーパービジョンとは、対人援助職が、より専門的な知識やスキルを習得し、質の高いサービスを提供できるよう、経験豊富な指導者(スーパーバイザー)から教育・指導を受けることだ。
「その施設には、“生活の制約”と向き合わざるを得ない過酷な世界がありました。自ら行動することが難しく、他者に頼らざるを得ない現実。感謝と無力感が交錯する現場との出会いは、これまでの臨床観を根本から揺さぶられる体験でした。それは自らの視野を広げると同時に、心理支援の奥深さを再認識する機会にもなりました」
横浜共生会での活動が長期に及ぶなかで、井上先生はある気づきを得たという。入居者はその場に居続ける一方、支援者は入れ替わっていく。そうしたなかで、自分だけが「入居者のかつて歩けていた時代」を知る存在になっていることに気づいたのだ。
「できないことをサポートするという問題解決だけではなく、“見守り続ける”支援もまたとても大切なのです。過去を知る誰かがそばにいるという安心感、変化の過程を一緒に辿る尊さ、それこそが心理支援の真価だと考えています」
人の心を支えることは、目には見えない変化の積み重ねである。井上教授は、実践と教育を通じて「人を支援する者を育てる」という価値を体現している。そのまなざしと探究心は、今後も心理臨床の世界に温かな光を灯していくだろう。
教員紹介
Profile
井上 直子教授
Naoko Inoue
国際基督教大学大学院 博士後期課程 教育学研究科(臨床心理学) 博士課程単位取得満期退学。都立清瀬小児病院 心理士、白梅短期大学学生相談室 カウンセラー、キリンビール㈱ 社員相談室 相談員研修嘱託講師、PAS心理教育研究所(私設心理相談) クリニカル・ディレクター/トレーナーなどを経て、桜美林大学 国際学部 臨床心理学 専任講師に就任。現在、同大学臨床心理センター長、および社会福祉法人横浜共生会 心理療法士。
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