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中国の伝統芸術である「京劇」の主役として活躍
才能を見出され、京劇の世界へ
1970年代後半。中国江蘇省の地元小学校に通っていた当時11歳の袁英明教授は、ある日、知らない大人が教員に案内されながら教室を見回った後、担任の先生から呼び出された。ついて行った先の部屋には数人の大人たちが待っており、まず見た目を確認され、次に「歌ってみて」と求められる。即興で歌を披露すると、リズム感や声の質を評価された。後日、京劇専門学校の入学試験を受けることが決まった。
京劇は、中国の伝統的な演劇で、歌・舞踊・立ち回りなどを組み合わせた総合舞台芸術だ。方言が豊富である中国には300以上もの地方劇があり、京劇はそれらの要素の長所を選択して、洗練・集大成された存在で、国を代表する劇、「国劇」と称されることもある。日本の歌舞伎と能に良く似ており、「約束事(様式化・抽象化)」があり華やかな衣装と独特なメイクも魅力だ。
さて当時、京劇専門学校の先生方が地域の小学校を巡り、将来性のある子どもを探していた。京劇にはアクロバティックな動きや柔軟な身体も求められるため、骨の柔かい幼少期からの訓練が不可欠で、さらに歌や舞踊の素質も必要とされる。したがって、適性のある子どもを見つけるのは容易ではない。
「京劇は、北京を中心に発展した伝統演劇で、特に中国北部では市民文化として定着しています。一方、私の出身地である江蘇省を含む南部地域では、独自の地方劇(昆曲、錫劇、越劇など)が強く根付いているため、京劇の人気はやや限定的でした。正直に言えば、幼い頃の私は京劇のことをよく理解していませんでした」
狭き門を突破し、京劇専門学校に入学
1970年代の中国では、「上山下郷運動」と呼ばれる政策のもと、都市の多くの若者が中学校や高校を卒業すると同時に農村や辺境地へ送られ、農作業に従事するのが一般的だった。そのため、子どもたちは少しでもその道を回避できる手段を探していた。そんななか、京劇専門学校が各地の小学校を訪れて子どもたちの才能を発掘しているという話は、大きな希望となった。「京劇の道に進めば、農村に行かずにすむかもしれない」——そう考える子どもたちも多かったという。しかし、当時11歳だった袁教授の動機は少し違っていた。何より「歌や踊りをたくさんできる」ことに胸を躍らせたのだ。
「歌や踊りが好きで、小学校の発表会や文化祭のような場では、よく舞台を任されていました。また、地域イベントでも歌声を披露する機会もありましたね。しかし、両親は入学試験の受験に猛反対しました。演劇の道は厳しく、昔の中国では演劇人の社会的地位も低かったからです。保守的な価値観が強かった時代で、演劇の世界に子どもを送り出す家庭は少なかったのです」
それでも袁教授は、試験を受けることを決意。京劇専門学校の入学試験は三次まであり、本人の能力だけでなく、保護者も呼ばれて「遺伝的な素質」まで確認される。身長の伸びしろ、手足の長さ、身体のバランス——将来舞台に立ったときの姿まで見据えた選考だった。1万人以上が受験するなか、袁教授はすべての選考を通過し、わずか20人の合格者のひとりとなった。
「合格はしたものの、入学してからは本当に苦労しました。親の言うことを聞いておけばよかったと思うくらい(笑)。入学直後、私たちは学校から離れた辺境地に連れて行かれ、3ヶ月間、家にも帰れず両親にも会えず、朝から晩まで京劇の基礎訓練を受けました。最初に“覚悟”を叩き込むわけですね。とにかく京劇には柔軟な身体が不可欠であり、腰も脚も、ありえないほど柔らかくなければなりません。先生は、限界を超えるまで身体を伸ばしてきます。同級生のなかには、あまりの痛みに耐えきれず、先生の腕に思わず噛みついてしまった子もいました。そんなふうに、京劇の世界は、決して華やかなだけではない過酷な訓練から始まるのです」
厳しい訓練を経て、はじめての舞台に
3ヶ月間の基礎訓練を終えると、いよいよ本格的な学校生活が始まった。京劇専門学校では寮生活を送りながら、日々の練習に打ち込む。食事や授業料、稽古着やお小遣いにいたるまで、生活に必要なものはすべて政府から支給される一方で、規則は非常に厳格だった。一方、お菓子、間食、喉に刺激があるもの、甘いものは禁止され、食事も学校が提供するもの以外は一切口にできない。
「練習は朝5時から始まります。京劇は歌、セリフ、舞だけでなく、身体を使ったアクロバティックな表現も求められるので、相当な体力が必要です。まずは朝のジョギングで身体を起こし、その後に発声、セリフ、歩き方などの基礎練習をみっちり行います。朝食を挟み、昼休みを除けば、1日中、技の反復練習が続きます。たくさんの技の種類がありました。夕食後も自主練があり、消灯は夜21時。とにかく体力と根気が求められる毎日でした」
できなかった技が少しずつできるようになる喜び、憧れの俳優を目指して仲間たちと夢を語り合い励まし合う日々、厳しい訓練のなかにも笑顔や希望があり、努力を重ね3年の月日が経った14歳のとき、ついに初舞台の日が訪れた。
「最初の舞台は冬でした。劇場に暖房はなく、衣装が美しいシルク製だったので、とても寒かったのを覚えています。緊張と寒さで身体が震え、なかなか舞台に出ることができませんでした。背中を先生に力強く押されて、ようやく舞台へ飛び出しました。演目は『白蛇伝』。高い椅子に座ってお茶を飲むシーンがあるのですが、まだ背が低かった私は足が床に届かず、さらに手が震えて器を落としてしまったのです。慌てて拾って演技を続けたら、観客から『かわいい〜!』と声が上がってしまって……。今では笑い話ですが、あのときの緊張と高揚感は、今でも忘れられません」

京劇には、大きく分けて「生(ション)=男性役」「旦(ダン)=女性役」「浄(ジン)=隈取役」「丑(チョウ)=道化役」という4つの基本的な役柄がある。袁教授が当時演じていたのは「旦」、なかでも明るく天真爛漫な若い娘を演じる「花旦(ホアタン)」だった。
役柄は、生徒の声質や身体の特徴などを考慮して先生が決定する。そしていったん決まると、基本的には一生その役柄を演じることになる。たとえば、おばあさん役に決まれば子どもでもずっとおばあさんを、お姫様役なら、たとえ年を重ねてもお姫様を演じ続けるのだ。
京劇大学へ進学し、主演として舞台で活躍
計7年間にわたる京劇専門学校の厳しい訓練を経て、いよいよ卒業の時を迎える。卒業後は、プロの劇団に配属され、舞台に立つ道が開かれる。ただし、京劇の劇団の多くは国営であるため、その配属先は自分で選ぶことはできず、国の判断によって決定される。中国各地の劇団の需要に応じて、「この役柄の俳優が足りないからこの地域へ」と割り振られる仕組みである。京劇の舞台では、オーディションという概念は基本的に存在せず、演目が決まると、そこに適した役柄の俳優が当てはめられていく。劇団も俳優もすべて国の管理下にあり、給与も国家から支給されているのだ。袁教授も例に漏れず、卒業後は劇団に所属したが、劇団に入る前から憧れていた京劇の最高学府、全国唯一の京劇大学である中国戯曲学院に進学することを決意する。
「劇団に正式に配属される前、その京劇大学で研修生として一年間学ぶ機会が与えられました。中国で唯一の京劇専門の大学で、まさに京劇を志す若者の憧れの場でした。著名な先生方が多く在籍していて、1対1の指導が受けられる贅沢な環境でした。学生の数より教員の数のほうが多いほどです。こんな環境で本格的に京劇を学べたら、どれだけ幸せだろうと思い、進学を決意しました。」
とはいえ、まずは厳しい入学試験が待ち受けていた。実技試験に加えて、学科試験も課される。京劇専門学校でも一般教科の授業はあったが、学年が上がるにつれて実技中心となり、たとえば「算数」は学んだものの、「数学」には触れていなかったという。そこで袁教授は、劇団の公演の合間や休日に寸暇を惜しんで受験勉強に取り組み、努力の末、全国の若手から女性は上位5人しか合格できない中、トップの成績で合格する。
大学では、それまで演じていた「花旦(ホアタン)=天真爛漫な娘役」から、「青衣(チンイー)=貞淑な女性役」へと役柄が変わった。声の変化や身長の伸びが理由だった。演技スタイルも変わり、歌、セリフ、舞の美しさを重視する役柄として、改めて演技と向き合う3年間を過ごすこととなった。
京劇大学を卒業後、袁教授は晴れて一流俳優として劇団(上海京劇院)に正式配属され、多くの舞台で主役を務めるなど、輝かしい活躍を見せる。しかし、長年舞台に立ち続けるなかで、体調に不調を感じるようになった。注射を打って舞台に立つような時期もあり、ついに医師から「しばらく休養したほうがいい」と言われた。

「10ヶ月ほど休養することになり、その間に自分の人生を見つめ直すようになりました。せっかくなら、この時間を使って勉強でもしてみようかと。ちょうどその頃、留学ブームが起きていました。芸術や文学の分野でも海外に目を向ける人が多く、私の先輩たちのなかにも、アメリカや日本に渡って学んでいる人がいました。11歳から京劇の世界で生きてきましたが、この閉ざされた専門の世界を一度離れて、もっと広い世界を見てみたいと思ったのです。体調を整えながら、心もリフレッシュして、視野を広げようと考えました」
三度の訪日公演から迫る「梅蘭芳と日本」
日本で出合った「梅蘭芳による中日文化関係史の空白」を埋める研究
日本に渡った袁教授は、日本語の習得からスタートし、やがて大学院で本格的な学問の道へと進む。大学院時代には、演劇に関する勉強会がたびたび開催されており、袁教授も頻繁に参加していた。ある勉強会で、桜美林大学の沖田大三郎教授と出会ったことをきっかけに、同大学で京劇の授業を担当するようになる。また、袁教授はカルチャーセンターなどでも、京劇に関する講座をたびたび開いていた。
「私が担当した講座の終了後、年配の受講者の方が『梅蘭芳の訪日公演を観たことがあるよ』と、目を輝かせながら話しかけてくれたのです。そのとき、ふと思いました。もしかすると、当時の資料が日本に残っているかもしれない」
梅蘭芳は、父と祖父も京劇俳優という名家に生まれ、20世紀を代表する京劇俳優、世界的な名優として知られる。女性役を演じる四大名旦(名女形)のひとりであり、京劇の革新を進めた「梅派」の創始者でもある。1919年と1924年には、日中間の政治的緊張があるなかで日本公演を成功させ、大きな話題を呼んだ。
調査を始めると、日本国内には梅蘭芳の訪日公演に関する膨大な資料が存在していることがわかった。だが驚くべきことに、それらの資料は、ほとんど中国本土には残されていなかったのである。
こうした状況を背景に、袁教授は日本での梅蘭芳の活動に光を当てる研究を進めた。これは、失われた歴史の「空白」を埋める作業であった。早稲田大学大学院修士課程から中国伝媒大学博士課程までの研究成果を日中共同のシンポジウムで発表した際、北京大学の研究者たちから「これは極めて貴重な研究だ。ぜひ出版させてほしい」と依頼を受け、初めての出版は北京大学から行われた。以後、袁教授の研究は中国国内でも高く評価され、多くの論文や研究で引用されることとなった。
梅蘭芳は、京劇の未来を見据えていた
京劇の名優として知られる梅蘭芳は、単なる役者にとどまらず、京劇という芸術の存続と発展に深い思索を巡らせていた人物だったと袁教授は語る。彼の活動は、芸の道を極めた表現者という枠を超え、京劇そのものの命運に関わる歴史的な存在として評価できるという。
第1回の日本公演(1919年)当時、中国国内では京劇を代表する「旧劇」の改革をめぐる演劇論争が白熱していた。西洋に留学した改革派は、「現在の旧劇は時代遅れであり、西洋演劇の新たな芸術的要素を取り入れなければ生き残れない」、「旧劇を廃止すべき」と主張。一方で保守派は、「変えてしまえば旧劇の本質が失われる」、「旧劇を保存すべき」として、伝統の維持を訴えた。
「梅蘭芳自身はその論争に表立って加わることはありませんでしたが、深い危機感を抱いていたことは間違いありません。海外では京劇がどのように評価されるのか。果たして、京劇はこのまま存続しうるのか。そして、そもそも存続に値する芸術なのか——。そうした問いを胸に、彼は改革の道を選び、海外公演を行いました」
梅蘭芳は多くの演目を創作し、演技、伴奏、化粧、衣裳から演出に至るまで、京劇の表現を革新した。伝統芸術において改革が成功することは稀だが、梅蘭芳はそれを成し遂げた数少ない人物である。また彼は、西洋の舞台芸術にも関心を寄せ、ロシアのスタニスラフスキー、アメリカのチャップリンなど、国を越えた芸術家たちとの交流を積極的に行った。京劇を世界に紹介するために、文化的共通点の多い日本をまず選んだことに、梅蘭芳の慎重さが感じられる。
梅蘭芳はその生涯で3回、日本での公演を行っている。1919年(大正8年)、1924年(大正13年)、そして1956年(昭和31年)だ。とくに大正期の2度の公演は、大倉財閥創始者であり帝国劇場2代目会長でもあった大倉喜八郎の招聘により実現し、日本に“梅蘭芳ブーム”を巻き起こした。第1回公演は、京劇が初めて本格的に中国国外に紹介された歴史的瞬間でもあり、日中の演劇文化交流の扉を開いた極めて意義深い出来事として記憶されている。
袁教授は、日本各地に残されていた梅蘭芳の訪日公演に関する膨大な資料を丹念に調査し、中国では知られていなかった「空白の記録」を発掘。それによって、梅蘭芳が日本で果たした文化的役割と京劇の国際化の歴史が、初めて立体的に浮かび上がったのだ。
日中交流の礎を築いた梅蘭芳の孫弟子として
師匠・梅葆玖とともに中国国家大劇院の柿落とし公演
袁教授にとって、生涯で最も印象に残る舞台がある。それは2008年、中国・北京に完成した中国国家大劇院——いわば日本の国立劇場に相当する格式ある舞台の杮落とし公演だ。演目は、唐代の絶世の美女・楊貴妃を描いた大作『大唐貴妃』。この記念すべき舞台で、袁教授は師匠であり、名優・梅蘭芳の息子でもある梅葆玖とダブルキャストで楊貴妃役を務めた。
「当時、日本の早稲田大学で始めた梅蘭芳の研究を北京の中国伝媒大学大学院でも継続しており、博士論文の執筆を進めていました。さらに上海の演劇大学(上海戯劇学院)でも教壇に立っていて、まさに多忙の極みでしたが、師匠からかけられたのはただ一言、『この舞台は絶対に失敗できない。失敗しないと約束してください』。普段はとても温厚な先生ですが、舞台に関しては厳しく真剣なまなざしを向ける方でした」
その言葉の重みに応えるため、袁教授は博士論文の提出を1年延期し、この舞台にすべてを捧げる覚悟を決めた。稽古期間中は、師匠から厳しくも丁寧な指導を受け、その一挙手一投足を凝視しながら、動きや所作、表現の細部に至るまで吸収しようと全力を尽くした。袁教授は次のように語る。
「梅葆玖老師の動きを懸命に真似しようとしましたが、どうしても届かない。表面上は再現できたように見えても、内に宿る『神』のようなものが決定的に異なっているのです。それほどまでに、師の芸は深く、重く、そして完成されていました。私は梅先生に引き上げられるようにして努力を重ね、その結果、これまで以上の実力を発揮できたと感じています。舞台も無事に成功を収めることができました」
梅葆玖は、梅蘭芳が築いた「梅派」の正統な継承者であり、その芸を現代に引き継ぐ名優である。袁教授が弟子入りを志したのは、大学を卒業して間もない頃。梅派に身を置く者として、本家本元に学びたいというのは自然な思いだった。しかし、梅葆玖の弟子になるということは、単に意欲や技量があるだけでは叶わない。舞台での力量、人間性、誠実さ——それらすべてが長い時間をかけて見極められ、ようやく正式な弟子として認められるのだ。現在、正式な弟子はおよそ30名。子を持たなかった梅葆玖にとって、弟子たちはまさに梅派の芸と精神を未来へ受け継ぐ「第三世代」として位置づけられている。
京劇の未来を拓き、日中を結ぶ——梅蘭芳の志を継いで
現在、桜美林大学で京劇の授業を担当している袁教授は、実技に重点を置いて学生たちを指導している。特に「クリエーション実践(京劇OPAL、旧・舞台芸術研究)」の授業では、身体の基礎訓練から声の出し方まで、個々の学生の特性に合わせて丁寧に教えている。なお、OPALとは桜美林大学パフォーミングアーツレッスンのこと。
「怪我をしないように配慮をしながら、基礎となる動きや姿勢から指導しています。身体が硬い学生には無理に動きを強いるのではなく、発声や歌の練習に力を入れるなど、それぞれの得意分野に応じたグループで取り組んでいます」
京劇OPALは数年に一度の公演だ。40人ほどの学生が出演する舞台であり、準備には長い時間と労力を要する。衣装にもこだわりがある。実際に中国の一流劇団で使用されているものと同質の衣装を現地に注文し、購入している。また、伴奏はプロの楽師を呼び、学生は生演奏に合わせて歌うことも学ぶ、学生の状況に合わせて台本の修正や個別指導他多くの困難もある。それでも本格的な舞台を体験させたいという思いが、教授の原動力になっている。では、袁英明教授にとって、京劇とは何なのだろうか。
「京劇は演劇であると同時に、中国の伝統文化の核心です。そして文化とは、ある民族の精神を表すものでありながら、同時に世界を構成する要素の一つでもあります。つまり、京劇は中国だけのものではなく、世界の文化のひとつとして捉えることができるのです。日本の学生たちにも、京劇を通じて他国の文化に触れ、世界に目を向けてほしい。梅蘭芳がその視野で世界を舞台に活動したように、皆さんにも広い視点で物事を見てほしいのです」
袁教授自身は、日中国交正常化50周年の記念公演に出演するなど、今なおその技と情熱を維持して、現役の京劇俳優として次の世代に芸を伝えている。「状況が整えば、また舞台に立ちたい」と袁教授は語る。
「京劇は伝統芸術ですが、ただ古いものを守るだけでなく、時代とともに多くのものを吸収しながら進化してきました。これからも、多くの人々に受け入れられ、さらに良いかたちへと発展していってほしいと思っています」
教員紹介
Profile

袁 英明教授
Yingming Yuan
1966年、中国江蘇省出身。中国傳媒大学影視芸術学院 戯劇戯曲学 中国戯劇史 博士課程修了 博士(文学)。京劇専門学校および京劇大学(中国戯曲学院)で研鑽を積み、国内外の数多くの京劇公演において主演を務め、受賞多数。中国国家一級俳優。来日後は、早稲田大学大学院において梅蘭芳に関する学術的研究に取り組みを開始し、その成果は中国国内でも高く評価されている。俳優としての舞台活動を継続する一方、訪日を契機に日本の大学にて教育活動にも携わり、2000年より桜美林大学に招聘される。2017年より現職。京劇の実技指導を通して、演劇人として生き抜く知識やスキルを伝えている。
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