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オペラが誕生したイタリアを中心に
欧州各国の劇場でオペラ歌手として25年活躍
ヨーロッパ各地の劇場を飛びまわり、『蝶々夫人』を熱演
「『蝶々夫人』を歌える歌唱力を持った若くてかわいい子を探しているらしい。レイコ、オーディションに行ってみたら?」
1983年、イタリア・ミラノの国立ヴェルディ音楽院に在籍しながら、コンクールやオーディションに挑戦する日々を送っていた当時26歳の小林玲子教授は、同じ音楽院に通うテノールの学生からそう声をかけられた。『蝶々夫人』とは、ジャコモ・プッチーニ作曲のオペラで、長崎を舞台に芸者・蝶々さんと米海軍士官の結婚、その悲劇的な結末を描く。欧州の劇場では、この役にふさわしい日本人歌手を常に求めていたが、プッチーニ作品は声帯への負担が大きく、日本人が歌いこなすのは容易ではなかった。しかし、小林教授はオーディションに合格。プッチーニの作品を歌いこなせる実力と表現力を評価され、オペラ歌手としてのキャリアをスタートさせた。
オペラってなに? 『蝶々夫人』とは?
オペラの起源は16世紀末、イタリア・フィレンツェにさかのぼる。ギリシア悲劇の復活を試みた人々が生み出した音楽劇が、現在まで続くオペラの原型とされている。オペラでは、登場人物の台詞がすべて「歌」によって表現され、物語が進行する。音楽だけでなく、舞台美術や衣裳、照明など、多くの芸術要素が結集した壮大な舞台芸術である。
『蝶々夫人』は、明治時代の長崎を舞台にしたジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ。1898年にアメリカの小説家ジョン・ルーサー・ロングが短編小説を発表し、1900年に劇作家デーヴィッド・ベラスコが戯曲化。これをもとに、プッチーニが1904年にオペラとして完成させた。物語は、15歳の芸者・蝶々さんが、女衒ゴローの仲介でアメリカ海軍士官ピンカートンと結婚するところから始まる。しかし、彼は「次に駒鳥が巣を作る頃に戻る」と言い残し帰国。蝶々さんは息子とともに3年間待ち続けるが、ピンカートンはアメリカ人の妻ケートを伴って帰還。絶望した蝶々さんは、父の形見の短刀で命を絶つ——。純粋な愛が悲劇へと変わる『蝶々夫人』は、プッチーニの情感あふれる旋律とともに、今も世界中の観客を魅了し続けている。
当初、音楽院修了後は日本に帰国する予定だったが、オーディション合格を機に、『蝶々夫人』の公演でイタリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、スイス、フランスなどヨーロッパ各地の劇場を巡ることになり、結果的に25年以上も現地で活躍した。なかでも印象深いのは、スイス・バーゼル劇場での舞台だった。上演後のカーテンコールで主役として1人で登場すると、観客が総立ちとなり、鳴り止まぬ拍手と歓声が劇場に響き渡った。その瞬間、舞台の成功を確信し、最高の喜びを感じたという。そして、それを超える大きな感動が訪れたのは、イタリアで長女を出産したときのことだった。

1980年代から2000年代初頭の激動のイタリアで生活
小林教授が過ごしたイタリアの25年間は、大きく揺れ動く時代だった。1980年代から2000年代初頭にかけて、メディア王と称されたシルヴィオ・ベルルスコーニの政界進出や、マフィア撲滅に尽力した裁判官ジョヴァンニ・ファルコーネとパオロ・ボルセリーノが暗殺されるといった衝撃的な事件などが相次いだ。また、ユーゴスラビア紛争、EU統合・拡大、ユーロ導入といった歴史的転換が訪れ、ヨーロッパ全体が変革の渦中にあった。
「イタリアのテレビ局の一部はベルルスコーニ支持で、朝から晩まで彼に好意的なニュースが流れていました。また、北部と南部の経済格差や気質の違いにも驚きましたね。工業の発展した北部に対し、南部は経済的に厳しく、南に本拠地を置くサッカークラブの試合を観に行ったときには、スポーツ観戦というより騒乱寸前の異様な熱気に圧倒されたことを覚えています」
1990年代後半から2000年代初頭には移民の波が押し寄せた。ユーゴスラビア紛争やルーマニア革命を背景に、多くの難民がイタリアへ流入。さらにアフリカからも多数の移民が押し寄せ、シチリア島のランペドゥーサは受け入れの最前線となった。キリスト教カトリックの総本山であるバチカンの存在もあり、イタリアは世界中の人々が新たな生活を求めて目指す国となっていた。
誰にも「盗まれないもの」を求めて
両親を説得して音楽大学に進学
声楽への道を拓いた、運命の出会い
「幼少期から音楽一家に育ったのでは?」——イタリアで25年以上にわたりオペラ歌手として活躍した経歴を聞けば、そう想像する人も多いかもしれない。しかし、小林教授は「決してそんなことはなかった」と振り返る。
「私は信州のごく普通の家庭で育ちました。音楽一家でもなければ、裕福な家でもありません。しかし、両親や祖父母は歌がうまく、幼い頃から歌が身近にありました。母によると、私は3歳のときに水原弘『黒い花びら』を歌詞まで覚えて歌っていたそうです。子どもの頃から歌がうまいとはよく言われていましたね」
小・中学校では合唱コンクールでソロを任されることも多く、小学生から習い始めたピアノに加え、中学では吹奏楽部、高校では合唱部に所属。自然と音楽の道へと進んでいった。しかし、1970年代当時、女性の4年制大学進学は珍しく、音楽大学となるとさらにハードルが高かった。家族の猛反対を受けながらも、どうしても音楽を学びたいという思いは揺るがず、高校2年生のときに受験準備のためピアノの佐々木方子先生に師事。そこでの出会いが、小林教授の人生を大きく変えることとなった。
「『泥棒に盗られないものを身につけなさい』と先生は言ってくれました。『高価なバッグや宝石は奪われたら終わり。でも、教養は誰にも盗まれない。音楽大学に行って、やりたいことをやりなさい』と。この言葉に背中を押されました。最終的に、両親も“学校の音楽教員になるなら”と、進学を許してくれました」
しかし、音大受験の道のりは決して平坦ではなかった。ピアノの佐々木先生に演奏を聞いて頂いたところ、厳しい言葉が返ってきた。
「『こんなピアノで音大に行けると思っているの!?』と叱られて、絶望的な気持ちになりました。でも、その後、『歌ってみなさい』と言われ、歌ったところ『いい声をしている。声楽で挑戦したほうがいい』と助言を受けたのです。当時の音大受験はピアノが主流で、声楽という選択肢は考えたこともありませんでした」
そこから必死に努力を重ね、高校3年生で「毎日音楽コンクール」長野県大会・声楽部門で第1位を受賞するほどの実力になった。そして、音楽大学・声楽科への進学を果たし、本格的に声楽の道を歩み始めた。
音楽大学に入学するも、声が出ない!?
晴れて音楽大学の声楽科に入学したものの、小林教授は思いがけない壁にぶつかった。大学で指導を受けることになった先生の指導が合わず、思うように声が出なくなってしまったのだ。
「大学1年の夏休みに、音大受験時に師事していた佐々木先生のもとへ挨拶に行ったのです。すると、『声が出ないってどうしたの!?』と驚かれて。私も『わかりません……一生懸命やればやるほど、どんどん声が出なくなってしまうのです』と答えました。すると先生は、『その音大には私が指導した生徒が、今は先生となって勤めているから、その先生に習ってみたら?』と勧めてくれました。それが、後の恩師となる中島基晴先生でした」
しかし、当時の音大は非常に保守的で、最初に割り当てられた先生に4年間師事するのが暗黙のルールとなっていた。もし中島先生が声楽科の教授であれば、正式に担当を変えることもできただろう。しかし、中島先生は教員養成を専門とする教育学科の先生だったため、正式な指導を受けることはできなかった。それでも小林教授は、放課後や週末に中島先生の指導を仰いだ。すると驚くほどの変化が訪れる。
「出ないはずの声が、みるみる出てくるのです。声量も音域もどんどん広がり、『本当にこれが私の声!?』と思うほどでした。まるで無限に声が湧き出てくるようで……中島先生に巡り合えてよかったですね」
「2年だけ」のはずが、気づけば25年
大学4年生のとき、小林教授は中島先生からイタリア留学を勧められた。中島先生もかつてイタリアで3年間学んだ経験があり、その体験を踏まえての助言だった。
「中島先生はテノール歌手でしたが、西洋では女性でも180cm近くあることも珍しくなく、自身の体格ではオペラのラブシーンを演じるのが難しいと感じ、教育の道に進むことを決めたと話していました。『君の声は柔らかく、丸みや深みがある。イタリアオペラに適した声だから、留学してみるといい』と背中を押してくれたのです」
しかし、音楽大学進学の際も反対した両親が、イタリア留学をすんなり認めるはずがない。そこで、小林教授はピアノのアルバイトで資金を貯めたうえで、両親と粘り強く交渉し、「2年間だけ」という約束でついに許可を得た。そして、国立ヴェルディ音楽院の入学試験に挑み、『椿姫』の「不思議だわ」を歌い、見事に合格。イタリアという馴染みのない環境で苦闘しながらも2年間の課程を終え、修了試験までたどり着いた。
当時の試験は「アルテ・シェニカ」という上演実技を伴うものだった。小林教授は『椿姫』の二重唱を演奏し、試験官2人のうち1人は9点(10点満点)をつける高評価だった。しかし、もう1人の試験官はなんと0.5点をつけた。
「9点と0.5点を足して9.5点、平均すると4.75点。合格ラインは6点。音楽院の規則で、特別な理由があれば院長が1点加算できたのですが、それを考慮しても合格点には届かない計算。つまり、最初から“落とす”つもりでつけた点数だったのでしょう」
さらに、実技後の面接では「お前は中国人か? 日本人か?」という質問があり、挙句の果てには「私は、日本人は嫌いだ」と人種差別としか思えない言葉が飛んできた。1980年代当時、こうした差別は今よりも公然と存在していたのだ。この不当な採点により、音楽院の修了は1年延期となってしまった。しかし、結果としてこの「余分な1年」が新たな道を開くことになる。この期間を活かし、小林教授は次々とコンクールに挑戦。イタリア・フィオッキ国際音楽コンクール 声楽部門 第1位、イタリア・エンナ国際音楽コンクール 声楽部門 第1位など、数々の賞を獲得。その結果、『蝶々夫人』の出演につながるエージェントとの出会いを果たすことになる。当初、両親との約束は「2年で帰国する」こと。しかし、イタリアでの可能性を見出した小林教授は、帰国ではなく、イタリアに残る道を選ぶ。
「両親に『イタリアに残る』と伝えた時、両親の心は、怒りと悲しみで張り裂けんばかりだったと思います。でも、私のなかでは決まっていました。イタリアに骨を埋める覚悟で進むと」
数年の滞在を想定していたイタリア留学。しかし、現地での結婚・出産を経て、気づけば25年もの歳月が流れていた。両親も最終的には小林教授の決断を受け入れたという。
自分を洗練させることが
オペラ歌手としての成長につながる

「小林、日本に帰ってこれるか?」——25年のイタリア生活から日本へ
イタリアでの生活が25年を迎えようとしていた頃、中島先生から突然「桜美林大学で声楽の先生を探しているが、君は日本に帰ってこれるか?」と連絡があった。当時、小林教授は50歳を目前にし、オペラ歌手としての活動も引退を視野に入れ始めていた。自身の将来を見つめ直し、慎重に考えた末、日本への帰国を決意した。
イタリアに渡った当初は「こんにちは」「こんばんは」「お腹すいた」といった簡単な言葉しかイタリア語で話せなかった。しかし、四半世紀を過ごしたときには、すっかりイタリア人のようになっていた。それを実感したのは日本に帰国してからだった。
「日本に帰国した最初の1年間は、きっと“変な人”だと思われていたでしょうね。日本に戻った当時、学生たちの会話のなかに出てきた『就活』という言葉を耳にし、思わず『シューカツ? それって何? どんな料理?』と尋ねてしまいました。私が日本にいた頃に存在しなかった言葉が、すっかり日常の一部になっていたのです。みんな、ポカンとしていましたね。そりゃそうですよね。でも、私には本当に意味がわからなかったのです(笑)。また、イタリアでは感情表現が豊かで、嬉しいときも、悲しいときも自然に抱きしめ合う文化がありました。4年生が、卒業を前に『玲子先生、これが最後のレッスンですね』なんて言うと、つい抱きしめてしまう。イタリアの習慣が、もうすっかり身についていました」
「なんでも歌える」ことの落とし穴
桜美林大学で声楽を指導する小林教授。その歌唱の根幹にあるのは、イタリアオペラの伝統的な発声法「ベルカント」だ。
「ベルカントの基礎は、ヴィンチェンツォ・ベッリーニやガエターノ・ドニゼッティの時代に築かれました。彼らの作品は、繊細で美しい旋律が特徴で、特にソプラノの声を際立たせるようにつくられています。しかし、ジュゼッペ・ヴェルディやジャコモ・プッチーニの時代に入ると、その性質が大きく変わっていくのです。特にヴェルディのオペラは、19世紀のイタリア統一運動と密接に結びついており、当時のイタリア人の愛国心を奮い立たせるものでした。イタリアがオーストリアの支配から独立するという歴史的背景もあり、彼の作品には戦争をテーマにしたものが多く、音楽も力強く、情熱的なものになっています。プッチーニのオペラも同様に、ドラマティックな表現が求められ、喉への負担が非常に大きいのです」

小林教授がイタリアへ渡った1970〜80年代、オペラ歌手は「自分の得意な作曲家に特化する」のが一般的だった。モーツァルトならモーツァルト、ベッリーニならベッリーニと、自分に合ったレパートリーを確立することが推奨されていた。しかし、現代のオペラ歌手は非常に器用になり、幅広いレパートリーをこなす傾向にある。それが実はよくないのだと小林教授は指摘する。なんでも歌えるといっても、適した声質や発声法がある。無理に幅を広げすぎると、喉を酷使しすぎて、早いうちに声を壊してしまうことにもなるという。
「特に、私がイタリアで長年歌唱していた『蝶々夫人』は、かなりリスクがあるオペラ作品です。プッチーニの音楽は感情表現が激しく、オーケストラの厚みもあるので、自然と声を張り上げることになり、喉への負担が非常に大きいのです。『プッチーニを歌うなんて、歌手寿命を縮めるわ』と嫌味を言われたこともありました。でも、結果として25年以上、オペラ歌手として活動することができました。単純に、私の喉が強かったからですね。しかし、それは決して万人に当てはまる話ではありません」
「オペラを歌える声」をつくるのは簡単ではない
25年間イタリアでプロのオペラ歌手として活動した経験から、「本物のオペラ歌手の発声がどんなものか」を知り尽くしていると小林教授は語る。オペラを歌える声を正しく習得するのは容易なことではない。では、「本物」と「そうでないもの」の違いはどこにあるのだろうか。
「日本人は『おはよう』と言うとき、発声が後ろ寄りなんですよ。しかし、イタリア語の『ボンジョルノ』は前に響かせる発声で話します。この違いが、オペラを歌う上で大きく影響するのです。私がイタリア留学した頃、『日本語はなるべく話さないほうがいい』と言われました。当時は、イタリア語を習得するためのアドバイスだと思っていましたが、実はイタリア語を話すこと自体が、日本人のオペラ歌手を育てるために欠かせない発声法だったのです」
本格的なオペラ歌手の発声を習得するには長い時間が必要だ。桜美林大学の学生のなかにも、コンクールで入賞する者はいる。しかし、大学での4年間は、この先崩れることのない発声の基礎を積み上げる重要な時期であると小林教授は話す。
「大学の4年間では、オペラを歌える声を完成させるのは難しいですね。現在、イタリアでオペラ歌手として活躍している私の教え子もいますが、彼女の声がオペラを歌える豊かな声になったのは、イタリアに渡ってからと言ってもいいでしょう。人によって違いますが、オペラを歌える声をつくるのに10年以上かかる人います。オペラ歌手になるためには、長い修行の時間が必要なのです」
声楽とは、「息の芸術」——身体が奏でる音楽
声楽において、楽器は自分の身体そのものだ。だからこそ、声楽は単なる技術ではなく、究極の自己表現であると小林教授は語る。精神と身体を磨き、自分の可能性を引き出すことで、初めて魅力的な歌声が生まれるのだ。
「声楽は、まさに『息の芸術』です。『息』という漢字には『自』と『心』が含まれていますよね。自分と心が洗練されることで、それが息となり、歌へと昇華し、やがて芸術となる。オペラにおける『3点ミ』や『3点ファ』の高音は、普通の人には到底出せません。しかし、オペラ歌手はそれを可能にする。それこそが声楽の芸術たる所以です。そんな声を出せるようになるには、2、3日では無理で、何年もの鍛錬が必要です。だからこそ、そこに価値が生まれるのです」

オペラで、主人公が死ぬ間際においても壮大な歌を響かせる場面に不思議に思う人もいるかもしれない。しかし、それこそがオペラの本質だ。オペラでは、死にゆく瞬間こそ最も力強く歌う。そのエネルギーの放出こそが、声楽が『息の芸術』であることを象徴している。
「オペラとは、単に美しい旋律を歌うものではなく、生き様そのものを舞台で表現するものなのです。自らの身体を楽器とし、人生そのものを響かせる——それが声楽の真髄なのでしょう」
教員紹介
Profile

小林 玲子教授
Reiko Kobayashi
1956年、長野県生まれ。国立ミラノ・ヴェルディ音楽院 修士(芸術学)。イタリア国ヴァレーゼ市立ゴッラ音楽院 声楽科 専任講師を経て、2005年より桜美林大学に招聘。2011年より現職。欧州各国の劇場を飛びまわり、主に『蝶々夫人』を歌唱するオペラ歌手として25年以上活躍。現在は桜美林大学にて、声楽の歌唱法や歌うことの素晴らしさを学生に伝えている。
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