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従来の形式や技術にとらわれない
ダンスや身体表現の可能性を追求
観客や社会に対して
ダンスが与える効果を研究
近年、SNSをはじめとする発信の場が増えたことや中学校においてダンス教育が必修となったことなどを受け、若い世代を中心にダンスや振り付けが人気を博している。洗練されたダンサーたちによるハイクオリティなパフォーマンスのみならず、誰もが楽しく踊り、交流するためのダンスが求められている現代。芸術文化学群の稲田奈緒美教授は、ダンスとコミュニケーションの関係に着目し、身体表現の新たな可能性を追求している。
「ダンスにはクラシックバレエやヒップホップ、伝統的な舞踊など、多様なジャンルが存在します。しかし、身体を使って自己表現し、観る者に刺激を与えるという点はすべてのジャンルにおいて共通しています。単にダンスを演じるだけではなく、幅広い身体表現が観客や社会にどのような効果を及ぼすのか。私はそこに興味を持って研究に取り組んでいます」
研究の根底にあるのは
幼少期からのバレエ経験
稲田教授のルーツとなったのは、幼少期に人見知りを克服するため通い始めたクラシックバレエだった。当時は長続きせずに辞めてしまったが、高校生になった頃に再開したのだという。その後も継続的にバレエに取り組む一方で、大学では文学部に進学し、日本史や社会学についての研究に注力した。さらに社会学を学ぶうちに、経済分野にも強い関心を寄せるように。それがきっかけとなり、大学卒業後は銀行員としてのキャリアをスタートさせた。
「世の中の経済動向を分析するような仕事がしたくて、銀行に就職することを決めました。ただ、当時の銀行は女性がキャリアを築いていくには厳しい環境だったのです。同僚の女性行員たちには結婚して退社することを目標としている人が多く、自分がいる場所ではないかもしれないと思って新しい道を探しました」
専門家として仕事をするため
ライターから研究の道へ
続いて稲田教授が選んだのは、文章を書くライターの仕事だった。得意分野である芸術系や経済系のほか、医療系の書籍などでも執筆。幅広い業界の人々と関わることができた日々は刺激的だったという。しかしある時、別のライターでも担当できるような仕事が積み重なったことに疲労感を覚える。そして、自分にしかできない仕事をしたいと考えるようになった。
「仕事でバレエダンサーの人々と関わる機会もあったのですが、いちライターの私はテーマに沿った記事を書くことでしか貢献できず、そんな日々に歯痒さを感じるようになりました。お互いに議論を積み重ねて、もっと深い話がしたいと考えたのです。そこで、専門的な知識を身に付けたいとカルチャーセンターが主催するダンス講座などにも参加しました。ただ、そこでも教えてくれるのは断片的な情報ばかりでした。そんな時、私の母校の大学院で舞踊に関するゼミが立ち上がるという話を聞きました。最初はカルチャーセンターの延長線のような軽い気持ちで入学を決めたのですが、どんどん研究の面白さにのめり込んでいくことになります」
従来の価値観を揺るがす
身体表現に強く惹かれた
大学院で取り組んだのは
ピナ・バウシュについての研究
大学院に進んだ稲田教授にとって、ピナ・バウシュ(1940-2009)に関する論文の執筆が研究の端緒となった。ピナ・バウシュはコンテンポラリーダンスの振付師であり、「ダンスシアター」という新たな領域を開拓した人物。ダンスに演劇的な表現を取り入れ、舞台芸術の可能性を広げた。
「ピナ・バウシュは、単にジャンルとしてのダンスと演劇をミックスしたのではありません。基本的に技術のみが評価の対象となる従来のダンスに、言語表現をはじめとするまったく新しい価値観を持ち込みました。幼少期からクラシックバレエに触れてきた自分にとっては、長年培ってきた美意識を破壊されるような衝撃でした」
Le Sacre du printemps - Pina Bausch
https://www.youtube.com/watch?v=J4qm1wyzHwI
映画『ピナ・バウシュ 夢の教室』予告編
https://www.youtube.com/watch?v=j9OZhrmOK8k
伝統的な身体表現やダンスに対するリスペクトを持つ一方で、価値観を揺るがされるような出会いを果たした稲田教授。「なぜ異質な身体表現に心を揺さぶられるのだろう?」という自らへの問いかけが、新たな研究テーマを探すモチベーションとなった。
「従来の価値観にカウンターをもたらしてくれる身体表現が他に見つかれば、それについて深く研究したいと考えていました。そんな時、日本にも革新性を帯びた身体表現が存在していたことを知ります。それこそが“暗黒舞踏”でした」
日本オリジナルの舞踊
“暗黒舞踏”とは?
“暗黒舞踏”とは、1950年代の末に土方巽によって生み出された日本オリジナルの舞踊ジャンル。土方はジャズダンスやクラシックバレエなど西洋の舞踊を原点とする舞踊家・振付師だが、アバンギャルドな芸術・文化が台頭する1960年代に先駆け、暴力性やタブー(禁忌)、エロティシズムなどを取り込んだ前衛的な“暗黒舞踏”を提言したことで知られる。
「身体そのものを使って従来のダンスにおける慣習や美的規範に叛逆したという点で、“暗黒舞踏”は業界から賛否両論で受け止められました。しかし、私が興味を抱いたのはその過激さよりも、土方の表現が単なる破壊にとどまらなかったことでした。西洋的な身体表現や舞踊の形式を“荒ぶる神”のように薙ぎ倒していった土方が、1970年代に入ると身体に複数の自我を宿したような表現を追求するようになったのです」
過激なスタイルの先に
新しい身体のあり方を見出した
土方が1970年代に手がけた舞台作品『疱瘡譚』では、身体の各部分を関連性のないまま、極めて遅い速度で同時に動かすソロパートが設けられている。これにより、観客は視点を定めることができず、パフォーマーである土方の全体を認識することが難しくなる。また、衣装や美術についても男女や生死が多層的に表現されており、ひとつの主体に統合されない“おぼろげで儚げなからだ”が舞台上で提示される。
「例えるならば、ひとつの身体に、あらゆる人間、時代、性別、ジャンルが存在するモザイクのような表現です。自分の身体が自分ひとりだけのものであると考える多くの人々に対し、新しい身体のあり方を提示した。アバンギャルドで過激な側面が注目されやすい“暗黒舞踏”において、私はこの点にもっとも感銘を受けて論文を書きました」
真正面から従来の価値観に抵抗するのではなく、別角度から新たな視点で肯定するような身体表現を知りたい。“暗黒舞踏”の研究を通じて芽生えた思いが、現在注力するコミュニティダンスの研究へと稲田教授を導いていく。
コミュニティダンスを通じて
持続可能な芸術と社会の関係性を考える
誰でも、どこでも踊ることができる
言葉に頼らないダンスが促す市民の交流
コミュニティダンスの源流には、1960〜80年代に起こった「ポスト・モダンダンス」の動きがある。これに先駆け19世紀末〜20世紀初頭、技術や様式が目立っていた伝統的なダンスへのアンチテーゼとして、即興や内面表現などより自由なダンスを目指す「モダンダンス」の動きが発生した。しかし、芸術表現が様式化から逃れることは非常に難しい。例に漏れずモダンダンスの振付家やダンサーらのなかにも、次第にメソッド化の流れが生まれる。
そこで、元来ダンサーではない人々の身体・動作に焦点を当て、「歩く」「椅子を運ぶ」といった日常的な動作を芸術に変容したり、劇場という制度的な空間の外でパフォーマンスを試みる「ポスト・モダンダンス」の流れが誕生。これにより、「ダンスが訓練を受けた限定的な人のためだけではなく、より多くの老若男女にひらかれた芸術にもなりうる」という考えが広がり、一般市民の地域振興やコミュニティ形成などを目的とした場にダンスが活用される動きも増えていった。
「こうした流れを背景に、1970年代のイギリスでコミュニティダンスが発展します。コミュニティダンスとは、年齢・性別・職業・ダンス経験・障がいの有無などにかかわらず“誰でも”、劇場やダンススタジオに限らず“どこでも”、ジャンルにこだわらず“どんなダンスでも”踊ることができる参加型ダンスです。移民の多いイギリスでは、言葉によるコミュニケーションが難しい場面も多くあります。そこで、言葉に頼らないコミュニティダンスが社会で広く受け入れられたのだと考えられています」
このように、ダンスを通じて地域の歴史や社会的背景に迫ることが研究のひとつのやりがいだと稲田教授は語る。彼女自身がコミュニティダンスと出会ったのも、“暗黒舞踏”に関する調査でイギリスに滞在した際のことだった。幼稚園児から高齢者までを含む老若男女が、学校や障がい者施設、さらには刑務所の中でダンスに参加する様子を見て、誰もが自由に身体を動かす舞台芸術の本質を感じ取ったのだという。
「プロフェッショナルが様式に準じて、また美意識の規範に則って取り組むものであるというのが従来のダンスにおける常識です。しかしコミュニティダンスを通じて、そうではないダンスのあり方があることを知った。表現も性質もまったく異なりますが、“暗黒舞踏”に並ぶ衝撃があったことを覚えています」
2016三陸国際芸術祭 コミュニティダンス
https://www.youtube.com/watch?v=95ohR7ZkORc
企画を立ち上げることが
アーティストの生活手段になる
コミュニティダンスの革新性に惹かれた稲田教授は、さっそくイギリスでリサーチを始めた。関係者に話を聞いているうちに、コミュニティダンスがアーティストたちにとってひとつの生活手段になっているという情報を獲得。自らプロジェクトを立ち上げ、人々が交流する「場」を生み出すことによって収入を得ているアーティストたちがいることを知る。
稲田教授自身、長年にわたってダンスに関わってきた中で、芸術家の生活や文化政策、アートマネジメントに関心を抱いていた。コミュニティダンスには、芸術を社会とともに持続させていくためのヒントが宿っている。そう考えた稲田教授は、日本の大学では貴重なコミュニティダンスを本格的に伝える授業を展開するようになった。
「パフォーマーとしてダンスに関わるだけでなく、自ら企画を生み出して社会に貢献する。そして、それによって収入を得る。さらには多くの人々との出会いが刺激になり、自分のクリエイティブにも還元されていく。もちろん、自分の好きなダンスの技術を追い求めることも大切です。一方で、自分のスキルを社会でどのように役立てることができるのか。コミュニティダンスの実践を通じ、従来の価値観とは異なる身体表現の魅力を学生に伝えたいと考えています」
定量的な評価方法を確立し
プロジェクトの社会的意義を伝えたい
コミュニティダンスを日本に定着させ、経済的に持続可能なサイクルをつくっていく。それが、稲田教授にとって目下のチャレンジだ。しかし、スキルを問わない市民参加方のダンスであるという点で、従来のダンスと評価の基準が異なっている。そこで、現在はプロジェクトの社会的な意義を企業や行政に伝えるために、定量的な評価方法の確立に取り組んでいるのだという。
「決まった動作を覚えるのではなく、その場その場で瞬間的に自分の気持ちや身体を捉えてパフォーマンスにつくりかえていくコミュニティダンスには、クリエイティビティが溢れています。特に少子高齢化の進む日本において、高齢者のウェルビーイングに貢献するうえでもダンスの果たす役割は非常に大きいでしょう。芸術分野やスポーツ分野での活躍を通じて『人に夢を与えたい』という人は多くいますが、『一緒に夢をつくっていく』のがコミュニティダンスです。これからも学生たちと協力してコミュニティダンスを実践し、社会に新しい価値を提供していきたいと思います」
教員紹介
Profile
稲田 奈緒美教授
Naomi Inata
1962年、島根県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、銀行勤務、フリーライターを経て、早稲田大学大学院文学研究科修士課程、博士課程(文学)に進み、舞踊史、舞踊理論の研究を行う。在学中より舞踊評論を始め、現在はバレエ、コンテンポラリーダンス、舞踊、コミュニティダンス、アートマネジメントなどの理論と実践、芸術文化と社会を結ぶ研究、評論、教育に携わる。慶應義塾大学非常勤講師、早稲田大学演劇博物館客員研究員などを経て、2018年より現職に至る。文化庁芸術選奨推薦委員、芸術祭審査委員などを歴任。単著に『土方巽 絶後の身体』(NHK出版)、共著に『舞踊学の現在—芸術・民族・教育からのアプローチ』(文理閣)、『土方巽—言葉と身体をめぐって』(角川学芸出版)など。
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