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人生を共にする楽器「ホルン」との出会い
音楽に夢中になった中学時代
春の夕暮れ、新しい制服に身を包み、部活動の体験入部からの帰り道。貸してもらったホルンのマウスピースを吹いてみた。空にはあたたかな夕日が差し込み、その音は空高く鳴り響いた。芸術文化学群の松岡邦忠教授を音楽の世界へと導く扉が開いた瞬間だった。
「幼い頃は、音楽に特別な興味はありませんでした。小学生の頃もリコーダーが苦手で、みんなよりうまく吹けなかった。音楽に対して、正直いい思い出はなかったのです。しかし、中学に入ってすぐ、友人に『吹奏楽部の体験に一緒に来てほしい』と誘われました。最初は断ったのですが、翌日には『もう一人連れてくると言ってしまった』と告げられ、渋々行ったのです」
渡されたホルンのマウスピースを吹いてみても、当然のように音は出なかった。諦めて、もう帰れると思ったそのとき、3年生の先輩が現れて「こう吹いてみて」と助言してくれた。その通りに吹いてみると音が出た。思わず、嬉しさがこみ上げた。
その体験をきっかけに吹奏楽部へ入部した松岡教授は、やがてホルンという楽器の奥深さ、音楽の面白さに夢中になっていく。放課後は部活に打ち込み、家ではFMラジオのクラシック番組を聴いたり、有名なホルンのメロディーを書き写し吹いてみたりした。
「中学2年生の頃、部活の部長さんから突然『指揮をやってみないか』と声をかけられました。3年生や部長が指揮することはあっても、2年生に任せることはなかったのですが、私の熱中ぶりが伝わっていたのかもしれません。指揮棒を握って振ってみると、不思議としっくりきました。むしろ楽しかったですね」
高校入学と同時に音楽の道を歩むと決意
高校は普通科に進学したものの、大学では音楽を専門的に学びたいと思っていた松岡教授は、高校1年生の時点で、東京藝術大学音楽学部に入学すると決意した。言わずと知れた、音楽の最高峰である。
「東京藝術大学に入学すると決めたのは高校に入ってからです。吹奏楽部には所属せず、そこから受験のための音楽を始めました。というのも、藝大合格に直結するような専門的な訓練は、部活動ではカバーしきれない部分があるのです。中学から音楽を始めた自分には、時間的な猶予もなかった。自己流では通用しないので、きちんとレッスンを受ける必要がありました」
そのため松岡教授は、高校1年のときから東京藝術大学の先生のもとへ通い始めた。ホルン、ピアノ、聴音(曲を聴いて楽譜に書き取る訓練)など、それぞれのレッスンに週1回ずつ通いながら、それ以外の時間も自主練習に費やす日々だった。
「この段階まで来ると、もう“趣味”ではありません。楽しさだけでは続かない領域に入っていました。特別な才能がある人を除けば、音楽を職業にするにはこうした道を通る必要があると思います。もし失敗したらどうなるか。そんな不安を抱きながらも、やらないよりはやってみよう。たとえ失敗しても、自分で選んだ道を進もう。そう思える、何かしらの強い意志が、自分のなかにありました」

ホルン奏者としてだけでなく、指揮者としても活躍
学外のオーケストラで鍛錬した大学時代
東京藝術大学には全国から高い技術と熱意をもった学生が集まる。入学してまず感じたのは、「自分より上手な人がこんなにもいるのか」という衝撃だったという。しかし、個人の質は非常に高かったが、大学のオーケストラ授業には物足りなさも感じた。そこで松岡教授は、大学の外に活路を見出す。市民オーケストラやユースオーケストラに参加し、年齢も経験も異なる人々と一緒に演奏する経験を積んだ。そこには、単なるテクニックではない、実践的な力を求められる現場があった。
「学内のオーケストラは、その授業ごとに曲を合わせて演奏するスタイル。練習時間は限られていて、譜面と向き合う時間も短い。さらに取り上げられるのは、あまり有名でない曲も多く、譜読みの練習にはなるけれど、“演奏を深める”という面では何かが足りなかったのです。リーダーとしてオーケストラを引っ張る、音で周囲を導く。そうした力は、学外でこそ鍛えられました。大学では同年代の学生と演奏しますが、市民オーケストラでは高校生のような若い世代から50代などのベテラン世代までが一緒に演奏します。そのなかで全体をまとめていくという経験は、自分の幅を大きく広げてくれました」
市民オーケストラでは、有名な曲を何か月もかけて準備する。そこには、演奏会に向けて音楽をじっくり練り上げる時間がある。クラシックの世界では、同じ楽譜を何人もの人が演奏するからこそ、“どう演奏するか”が問われる。そこに自分の考えやスタイルが現れると松岡教授は語る。その意味で、時間をかけて有名な曲をじっくり練習するというのは、非常に大切な勉強だった。
ベルリンで鳴らした大きな音
東京藝術大学大学院修士課程1年次に、松岡教授はベルリン国立芸術大学に留学した。そこには、「ヨーロッパでしか体験できない音の響き」を肌で感じたいという強い思いがあった。
「当時の日本のオーケストラと欧州のオーケストラには、特に“響き方”に大きな違いがありました。技術的な差もありましたが、それ以上に“音のスケール”が違ったのです。欧州の音楽団体が東京文化会館などに来た際には、頻繁にリハーサルを聴きに行っていましたね。その音を聞いているうちに、自分がやりたい音楽は、まだ日本にはないのかもしれないと感じるようになったのです。当時の日本のオーケストラは、良くも悪くも遠慮がち。周囲に合わせようという意識が強くて、全体のスケールが小さくまとまってしまう。一方、欧州では、もっと自由に、自分の音を堂々と出す文化がある。合わせるときも大きな音のなかで調和を目指す。だから、響きに厚みと深さがありました」
ベルリン国立芸術大学に留学した初日、「リミッターを外せ」と言われたことを覚えているという。日本人はどうしても音が控えめになりがちなので、意識的に“殻を破る”ことが求められた。練習からとにかく大きな音で吹くことを求められ、音のスケールがまるで違う。たとえるなら、車種が違うような感覚だったという。また、学内の活動に加え、松岡教授はユーゲントオーケストラ(高校生と大学生の年代のオーケストラ)にも積極的に参加した。ドイツでは、教育の一環としてこうした機会が多く用意されており、公演に出演すれば報酬も得られるなど、実践的な環境が整っていた。

「特に印象的だったのは、ユーゲントオーケストラとしてベルリン・フィルハーモニーのコンサートホールで演奏した『幻想交響曲』です。単に“大きな音”というだけではなく、これまでの人生で最も“強く会場に響いた音”を出せた実感がありました。また、国際的な環境に身を置いたことで、音楽に対する価値観の違いにも触れることができました。たとえば、ドイツのオーケストラは音のスケールが大きいですが、フランスの指揮者などはもっと繊細でまとまりを重視します。演奏者も指揮者もさまざまな国から来ていて、それぞれに音楽観がある。そうした多様性も大きな学びでした」
「なんとなくできる」が指揮者において重要なスキル!?
ドイツ留学を経て帰国後、松岡教授は大学の授業アシスタントとして教職に携わる一方、大阪のプロオーケストラに所属し、ホルン奏者としても活動を続けていた。そんななか、思いがけず指揮者としての道が開けていく。
「きっかけは、高校の同級生から突然『知り合いが会いたがっている』と連絡がきたことでした。まずは高校の吹奏楽部OBによる演奏会があるから来てほしいと誘われたので、気になって行ってみたのです。すると演奏会後、今度は職場の金管アンサンブルを指導してほしいと頼まれ、さらに『このあと午後にオーケストラがあるから、指揮もしてくれないか』と言われました。たまたま時間にも余裕があったので、少し付き合ってみようかとその場で指揮をしたら、そのまま継続して指揮を任されるようになっていきました」
なぜか昔から、突然「指揮してほしい」と頼まれる場面が多かったという松岡教授。中学生の頃から、知らない曲でも不思議と指揮ができてしまったと振り返る。指揮者としての資質については、「人間的な向き不向きが大きい」と語る。
「指揮の技術自体は、実はそれほど複雑なものではないのです。拍の振り方も基本的には4パターンくらい。しかし、どんなに楽器が上手くても、指揮ができない人はたくさんいます。これは理屈では説明できない部分で、“なんとなくできる”というのが大事なのです」
その間もホルン奏者としての演奏活動は続いていた。関西はそれまで縁のない地域だったが、大阪シンフォニカーという現在の大阪交響楽団の元となるオーケストラに入団し、主に関西圏を中心に、月6回ほどの公演で演奏していた。
「大阪のオーケストラでは、ヴェーベルンの『パッサカリア』という非常に難易度の高い楽曲を取り上げたことがありました。本番直前まで、最も難しいパートが完成せずに不安がありましたが、結果的に本番でしっかり吹けました。それが強く印象に残っています。難しいところを本番で吹けないようでは、プロのプレイヤーとしては失格。それを乗り越えられるかどうかで、自分の“職業人としての価値”が決まる。だからこそ絶対に決めたかったし、決められたことが自信にもつながりました。演奏家として、常にその覚悟は持ち続けています」

ホルンは表現の中心にある存在
学生にも楽器との出会いを大切にしてほしい
学園歌やチャイムなど、桜美林大学のさまざまな音楽を制作・編曲
桜美林大学との関わりは、学生オーケストラの合宿の指導を依頼されたことから始まった。最初は外部コーチのような立場だったが、次第に卒業式の指揮も任されるようになり、それが毎年続いたことで、非常勤講師に。そして、大学で音楽の授業が増設される流れのなかで、正式に学科の専任教員となった。
「卒業式で演奏する学園歌については、最初に指揮を任されたときに、私のほうで編曲を変えてしまったんです。そのまま何年も続けていたら、ある日、大学職員の方から『この編曲いいですね』と声をかけられたのですが、どうやら私が編曲したことは気づいていないようでした(笑)。結局、それが30年続き、今では正式なバージョンとして定着していますね」

こうした大学との縁のなかで、桜美林大学に関わるさまざまな音楽制作にも携わるようになった。そのひとつが、JR横浜線・淵野辺駅で使用されている発車メロディー。アニメ『銀河鉄道999』の主題歌を編曲したものだ。
淵野辺駅の近くには、桜美林大学のプラネット淵野辺キャンパス(PFC)があり、桜美林大学の学生にとっても身近な駅である。また現在、学内で流れているチャイムも、当時の理事長からの依頼で松岡教授が制作したものだ。学生たちが何気なく耳にしている音楽の多くが、実は松岡教授によって編曲された作品なのだ。
楽器の演奏が上手くいかないときは、あらゆる方法を試してほしい
松岡教授が学生指導において重視しているのは、「方法は一つではない」という考え方だ。特に、大学2年生くらいになっても上手く吹けない学生には、それまでの方法に何かしらの原因があると考える。
「ある程度の経験を積んでも、思うように吹けない部分が残っているというのは、今までのアプローチでは乗り越えられないところにきているということ。たとえば、高音が出ないという悩みを持つ学生は少なくありませんが、その多くは『この音は出ないものだ』という思い込みが、自分でも気づかないうちに根づいていることが多いのです」
そんなとき、松岡教授は「その場を突破するための具体的な方法」をいくつも提示する。なかでも、効果的な方法のひとつが「別の楽器を演奏させてみること」だという。
「楽器によって得意な音域や響きは異なります。違う楽器に触れることで、いったん自分の楽器に対する感覚がリセットされる。そして、苦手意識のあった音に対しても、まっさらな気持ちで向き合えるようになるのです。時間が経って元の楽器に戻ったとき、不思議と自然に音が出るようになっていることがある。まるで自分のなかの思い込みがほどけたかのように。ひとつのアイデアがうまくはまれば、演奏だけでなく、人生そのものが変わることだってあると思っています。私自身、中学生の部活動体験の際に、ホルンの音が出なかったら、きっと音楽は諦めていたでしょう。そう思うと、今の自分があるのは、先輩からアドバイスされた、あの“ひとつの方法”に出会えたおかげなのです」
ホルンを通して世界とつながる、表現する
桜美林大学で教員として学生を指導する傍ら、松岡教授は今なお現役のホルン奏者として舞台に立ち続けている。スケジュールに無理がなければ、プロのオーケストラに加わり、演奏しているという。
「観客の前で演奏することは、とても大切です。自分の音を届けるだけでなく、周囲の音に合わせていくことも重要。演奏を通して他者から刺激をもらい、自分が刺激を与えることもできる。そうして音を通じて人とつながっていけるのです。もしホルンが吹けなくなったら、風船がしぼんでしまうような感覚になると思います。ホルンは、私にとって表現の中心にある存在。なくなったら、自分の一部を失ったような気持ちになるでしょう」
一つの楽器と出会うことは大切な友達、先生と巡り合うくらい、またそれ以上に大きな経験をもたらす。もちろん、誰もがそうなるわけではないが、自分の楽器があるというのは、人生を歩む上で大きな支えになるはずだと松岡教授は語る。
「大人になって仕事に偏ってしまうと、どこか物足りなさを感じることもあると思うのです。生活の中に楽器があると、違った時間の流れのなかで、自分を深く見つめ直すことができる。そういう意味でも、楽器はとても大切な存在だと思います。私は、15年ほど前からジャズにも取り組み始めたのですが、時にはライブハウスで初めて会った演奏者たちとセッションを行うこともあります。即興性があって、まるで武道の試合のように、その場で何を表現できるかが問われる。楽器ができれば、そんなふうに多様な楽しみが開けてきます」
音楽を通じて世界とつながり、自分自身を表現する。その扉を開いてくれるのが、一つの楽器との出会いなのだ。また、たとえ楽器でなくても、興味を持ったものには積極的に触れてほしいという松岡教授は話す。その経験は決して無駄にはならない。むしろ、人生のどこかで必ず役に立つ経験になる、と。
教員紹介
Profile

松岡 邦忠教授
Kunitada Matsuoka
神奈川県川崎市出身。東京藝術大学器楽科卒業。東京藝術大学大学院 音楽研究科 修士課程修了 修士(音楽)。昭和音楽大学 合奏 研究員のち非常勤講師、大阪シンフォニカー(現大阪交響楽団)副首席ホルン奏者、三菱電機ソシオテックオーケストラ 指揮者を経て、1994年より桜美林大学オーケストラ インストラクターとして招聘、のち1997年より非常勤講師2000年より桜美林大学文学部総合文化学科助教授に就任、2013年より現職。ホルン奏者として活動する傍ら、オーケストラの指揮者も務める。桜美林大学のチャイムや学園歌の編曲も手がけている。
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