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無調音楽とは何か
コンピュータによる自動作曲と音楽理論研究が専門
自宅でレコードをかけて、電車のなかでイヤホンを装着して、ロックバンドのライブ会場やオーケストラのコンサートホールで──私たちはさまざまな場面で音楽に触れている。これらの多くは、「調性音楽」と呼ばれるものである。明確な中心音(主音)を持ち、その主音を基軸に音階や和声が機能的に組み立てられている。平たく言えば、「ドレミファソラシド」という枠組みのなかで構成された音楽だ。
しかし、この限られた音の組み合わせのなかで、新たな音楽を生み出し続けることは可能なのだろうか。すでにある作品と似通ってしまったり、意図せず同じような響きになってしまったりはしないだろうか。
実際、19世紀後半になると、調性音楽の枠組みに限界を感じた作曲家たちが、新たな表現手法を模索し始めた。 そして20世紀初頭、シェーンベルクやベルク、ウェーベルン、ストラヴィンスキーといった作曲家たちによって、「無調」という未踏の領域が切り開かれた。「無調音楽」とは、調性に基づかない、すなわち「ドレミファソラシド」の枠に当てはまらない音楽である。また、このような音楽を理論的に支える体系は「無調理論」と呼ばれ、音階や和声といった伝統的な概念に依存しない、新しい構成原理を探究するものだ。

「無調音楽は、どういった音の組み合わせによって成り立っているのか、その構成原理はいまだ完全には解明されていません。私の研究は、無調音楽に内在する規則性を見出し、それを作曲実践にも応用することを目的としています」
そう語るのは、芸術文化学群の高岡明教授。コンピュータアルゴリズムの開発や自動作曲の手法を用いて、無調音楽の構造的分析に取り組んでいる。生成された音楽が果たして音楽として機能しているのか検証することで、その背後にある規則性を探ろうとしている。しかし、この試みには複雑な課題も伴う。
新たな音楽理論の構築には、方法論そのものが問われる
自然科学の研究では、観察や実験を通じて仮説を検証し、対象についての知見を得ることができる。しかし、音楽の研究となると話は異なる。音楽は、目に見える対象ではなく、抽象的で主観的な認知に深く関わる領域であり、科学のように客観的な検証が難しい。音楽を理解するには、実際に「聴く」ことが不可欠だ。しかしその際に、音をどのように「音楽」として認識するのかという、音楽認知の問題が立ち現れてくる。
「我々が聴いている音のなかで、どこからが音楽とされるのか。すべての音が音楽だと考える人もいますが、大多数にとってはそうではないでしょう。たとえば、シャンプーを押し出すときの“ブリュブリュブリュ”という音を、音楽と感じる人は多くない。しかし、それがなぜ音楽ではないのかを説明するのは簡単ではありません」
私たちは、音楽を他者と共有するために自然言語を用いる。そして、より精緻に表現するために比喩を用いることも多い。音楽を音楽以外の対象と結びつけて表現するのだ。しかしこの表現は、文化や言語、コミュニティによって異なり、同じように聴いていたとしても、その認知を他者と客観的に共有しようとした瞬間に「差異」が生じる。
「音楽で『高い音』『低い音』といいますが、音そのものが空間的に上や下にあるわけではありません。これは比喩なのです。実際、古代ギリシャでは、私たちが“高い音”と呼ぶものを“低い音”と表現していた例もあります。こうした認知の違いは、現代でも文化や言語圏によって大きく異なります」

つまり、音楽に関して同じように認知していたとしても、それを自然言語で記述する過程でズレが生じる。理論を記述し、他者を説得しようとする際には言語に頼らざるを得ないが、その言語が新たな問題を引き起こす。音楽理論に関する議論や対立は、往々にしてこうした構造的な問題に起因していると高岡教授は指摘する。
「私は無調音楽における新たな理論の構築を目指していますが、こうした新しい理論を打ち立てようとする際には、対象だけでなく方法論そのものが問題となります。これは音楽史のなかでも繰り返されてきたことです。たとえば、モーツァルトやベートーヴェンの音楽に代表される調性音楽の理論も、当初は激しい議論を呼びました。調性理論を体系化したジャン=フィリップ・ラモーは、その理論書の冒頭で『デカルトの方法論を用いる』と宣言しています。18世紀当時、確実な知識を得る手段としてデカルトの方法——すなわち、数学的・論理的な思考が最も信頼されていたからです。ラモーはその方法論を用いることで、自らの理論の正当性を証明しようとしたのです」
数学は「公理」と「演繹」に基づき、そこから定理を導き出す論理体系である。したがって、数学の正しさは論理の一貫性に根ざしている。ラモーがデカルト的方法を採用すると明言したのも、論理に裏打ちされた方法から得た結論こそが説得力を持つと考えたからに他ならない。
「現代においても、論理学を応用した音楽理論の研究は活発です。特にアメリカでは、数理論理学や記号論理学に精通した研究者が多く、新しい音楽理論の構築にはこうした方法論が不可欠であると認識されています。たとえば、バロック音楽が成立した時代にも、音楽理論は修辞学と結びつきながら進展していきました。常に音楽理論は、音楽そのものと同様に、時代の知的文脈とともに構築されてきたのです」
幼少期からクラシック音楽に魅せられて
両親の猛反対に遭い、音大を諦め哲学科に進学
高岡教授が音楽の世界に魅了されたのは、幼少期にまでさかのぼる。音楽好きの両親の影響で、4歳からピアノを始め、自宅では常にクラシックのレコードが流れていた。自然とクラシック音楽への愛着が育まれたという。
「当時から、聴く音楽はクラシック一択でした。中学生の頃、“このままではいけない”と思い、アイドルや歌謡曲など、周囲で流行っていた音楽も試してみましたが、どうにも肌に合わなかった。やはり私にはクラシックしかなかったのです。なかでも好きだったのは、バッハ以前とストラヴィンスキー以降。ロマン派にはあまり惹かれませんでした」
中学時代には、すでに音楽家になることを志し、高校進学と同時に本格的に作曲の勉強を始める。この頃から高岡教授の関心は無調音楽に向かっていた。調性音楽を作曲してもどこか予想の範囲内に収まってしまい、創作の刺激が感じられなかったという。一方、無調音楽はその神秘的で不可解な響きに惹かれ、「これは自分が作曲したいと思える音楽だ」と感じていた。
とはいえ、すべての無調音楽が魅力的だったわけではなく、「良いと思えるものと、そうでないものがある」という実感も芽生えていた。高校時代には、東京藝術大学の作曲家のもとに通い、本格的に音楽大学への進学を志すようになる。しかし、両親の反応は厳しいものだった。
「音楽大学に行きたいと伝えたら、猛反対されました。『趣味としてならいいが、音楽大学への進学はやめなさい』と。ならば、と私は考えました。無調音楽には方法論的な問いがつきまとう。音楽を理論的に追究するには論理学が必要であり、それは哲学の領域でもある。そう判断して、哲学科への進学を決めました」
大学では、科学哲学や分析哲学、論理学、さらには比喩表現などについて取り組んだ。大学院では、数学や建築に通じた作曲家ヤニス・クセナキスを対象に、方法論を含む音楽理論の可能性を探究。そして、その研究をさらに発展させる場として、高岡教授はアメリカへの留学を決意する。
「方法論を踏まえた実践的な音楽理論を研究するには、やはりアメリカしかないと考え、コロンビア大学への留学を決めました。幸い、高校時代の恩師が両親に『彼なら音楽でやっていける』と伝えてくれていて、そのときはもう、反対されることはありませんでした」
音楽理論研究のパラダイス——アイビーリーグとクラシック
日本の大学では、音楽と他分野の学術研究を横断的に学べる環境は限られており、多くの場合、音楽大学と一般大学は明確に分かれている。高岡教授は、その点に物足りなさを感じていたという。一方、アメリカの大学、とりわけアイビーリーグのような大学では、音楽理論を形式言語学や認知科学、さらには情報科学と横断的に捉える研究が進んでおり、音楽を単なる演奏技術の対象にとどめず、思考の対象として深化させる環境が整っていた。
「演奏技術に特化した教育機関としてはカーティス音楽院やジュリアード音楽院などがありますが、音楽理論や分析、認知科学などと結びついた高度な研究が可能なのは、ハーバードやプリンストン、そして私が留学したコロンビア大学のような大学です。まず驚いたのは、音楽理論に関する蔵書の圧倒的な量でした」
1990年代当時、日本の大学図書館では必要な洋書が手に入らず、大学生協で注文しても到着までに2か月以上かかることもあった。しかし、コロンビア大学では、探していた理論書がすべて目の前に揃っていた。しかもそれが特別なことではない。数字で言えば、日本は最大級の大学図書館であっても蔵書数は約300万冊程度。それに対し、アイビーリーグ大学の図書館の蔵書は約1500万冊にのぼっていた。想像を遥かに超える規模で、ここは音楽研究のパラダイスだと感じたという。
こうした学術環境のなかで、高岡教授は音楽以外にも言語学、認知科学、論理学などの講義を可能な限り受講し、知の横断を積極的に行っていった。なかでも衝撃だったのは、当時すでにコンピュータが音楽の分野で高度に活用されていたことだった。
「1990年代前半には、すでに自動作曲のアルゴリズムによってモーツァルトの模倣が可能になっていました。それは、当時の日本ではほとんど知られていなかったと思います。私は1年目から作曲アルゴリズムの設計に取り組み、自らもコードを書いていました」
高岡教授は、日本の大学時代からプログラミングに取り組んでいた。コンピュータやインターネットの登場を受け、直感的に「これは将来、音楽理論の研究に欠かせないツールになる」と確信していたという。ただ、それを実践的に音楽へ応用できると実感したのは、アメリカに来てからだった。さらに高岡教授は、研究に没頭する一方で、ピアノやオルガンなど実技の指導も継続的に受けていた。どれほど理論に通じていても、演奏経験がなければ音楽の本質には迫れないと高岡教授は語る。
「細部の感覚は、やはり演奏を通じてしか掴めない。そのため、私は理論研究を行う者であっても、実技を欠かすべきではないと考えています。私のピアノ教師であったニールス・オスビー教授は、バッハの息子の直系の弟子であるエドウィン・フィッシャーに師事していた人物でした。つまり私は、歴史的な系譜として“バッハ直系”の流れを継ぐ立場にあることにもなります。学生にも『だから、僕の授業を受けている皆さんは、バッハ直系の弟子ということになるんだよ』と冗談めかして話していますが、実際にそうなんです(笑)」
音楽の追究は人生の目的
バロック音楽と装飾の復元——自動作曲による探究
高岡明教授が近年注力しているのは、バロック音楽における「装飾」の自動生成に関する研究だ。バロック音楽とは、17世紀初頭から18世紀半ばにかけてのヨーロッパ音楽を指し、ヨハン・セバスチャン・バッハをはじめとする作曲家たちが活躍した時代だ。このテーマに取り組むようになった背景には、高岡教授自身のバッハへの傾倒に加え、桜美林大学の同僚にバロック・ヴァイオリン奏者がいたことが大きいという。
「バロック音楽の特徴のひとつが“通奏低音”です。これは、低音旋律(ベースライン)と数字で示された記号をもとに、演奏者が即興的に和音を付け加えていくスタイルです。同時に、当時の演奏家は、旋律にも即興的に種々様々な装飾を付けて演奏し、即興的な装飾法は、当時の演奏において重要な役割を担っていました。しかし、その即興性ゆえに、装飾の具体的な記録はほとんど残されていません」
つまり、バロック音楽とは、作曲家があえて“未完成のまま”楽譜を残し、演奏者が自由に想像力を働かせることで音楽を完成させる様式だったといえる。高岡教授は、そうした“空白”にコンピュータを用いてアプローチし、即興性の再現を目指している。
「バロック音楽における装飾は、今となってはブラックボックス化しており、その復元には単なる演奏技術だけでなく、作曲理論や当時の演奏慣習への理解が不可欠です。コンピュータによるアルゴリズムを構築するには、装飾をどのように定義づけるかを慎重に考えなければならず、その過程で時代背景や音楽文化全体に対する深い知識が求められます」
たとえば、ハイドンの交響曲には冒頭に強弱記号が記されていないものがある。これは、当時「交響曲はフォルテで始まる」という暗黙の了解が存在していたため、わざわざ明記する必要がなかったからだという。しかし、その慣習が失われた現代では、記譜されていなければ、演奏者は意図を理解できない。このように、演奏慣習を含めた歴史的知識は、アルゴリズムにおける前提条件の設定に直結してくる。
「私の知人である音楽史研究者は、19世紀の新聞記事を調べ、当時の演奏が実際にフォルテで始まっていたことを示す記述を資料として提示していました。つまり、装飾や演奏解釈を再現するには、文献学的・歴史学的な裏付けも重要なのです」
近年、生成AIによる自動作曲が話題になっているが、高岡教授は「クラシック音楽の分野で実用レベルに達するには、音楽理論を理解した専門家が関与しなければ難しい」と語る。現在の生成モデルの多くはポピュラー音楽向けであり、様式や構造が複雑なクラシックには対応しきれていない。
「1990年代の時点で、モーツァルト風の様式を模倣するプログラムはすでに存在していたと先ほど話しましたが、こうした試みの先駆者が、作曲家デイヴィッド・コープ(1941-)です。やはり、最初に自動作曲に挑んだのも、理論と実践の両面に通じた音楽家だったのです」

ロマンを求めて——無調音楽の構造とその魅力
長年にわたり高岡教授が探究してきた「無調音楽」は、どのような結論に至ったのか。高岡教授によれば、その構成原理はすでに見出されたという。詳細は2022年にギリシャ・アテネで開催された第21回国際音楽学会議(IMS2022)にて発表されている。
また、高校時代から抱き続けていた疑問——なぜ無調音楽のなかにも心惹かれるものと、そうでないものがあるのか。その問いにも、ひとつの答えが得られたという。無調音楽といえど、完全に調性から切り離されているわけではなく、調性音楽との接点を多く持つ作品のほうが、聴覚的にも自然であり、表現の豊かさがあったのだと高岡教授は語る。
「12の音からなるピッチクラスのなかから、7つを選んで音階を作る組み合わせは全部で792通りあります。そのなかで、“ドレミファソラシド”に該当するものだけが、非常に特殊かつ優れた音楽的特性をもっているのです。だからこそ、このスケールを基盤とした音楽は、他の音階構成に比べて、はるかに豊かな表現が可能となる」
その象徴的な例が「転調」だという。たとえば、ひとつのドレミファソラシドから、別の調のドレミファソラシドへと移行する——このプロセスが可能にする表現の多様性は、他のどの7音集合よりもはるかに大きい。5音でも6音でも、あるいは8音・9音でも成しえない音楽的な展開が、7音であり、かつドレミファソラシドである場合に限って最大化されるのだ。
「つまり、私が惹かれる無調音楽には、意識されているか否かにかかわらず、こうした音楽表現を豊かにする抽象的構造が内在し、最近の研究では、そうした構造が抽象代数学を使って研究されています。形式としての一貫性と、音楽的な豊かさは密接に結びついています。この点は、アメリカの音楽学者レナード・マイヤーの批評とも重なります。マイヤーは、現代音楽の多くを『音のバナナパフェ』と呼び、甘味ばかりの感覚刺激に過ぎないと批判しました。確かに、瞬間的な快楽や派手さは大衆性を担保しますが、音楽はそれ以上のものであるべきです。音楽とは、単なる感覚の連続ではありません。音を分類し、構造化し、知的に組み上げていく営みです。そうした構築の果てにこそ、真に豊かな音楽表現が生まれるのです」
高岡教授が音楽の論理的構築に惹かれたのは、中学時代。数学や物理も得意で、科学者を志すことも考えていた。しかし、そこには心が掻き立てられる何かが足りなかったのだという。
「数学を専門とする友人が『数学は形式的に美しい』と言ったことがあります。確かにそうです。しかし私は、『音楽は形式的に美しい上に、感情的にも豊かである』と答えました。たとえば、ヨハネス・ケプラーは惑星の運行を計算しながら、“天空の音楽”を信じていた。私もまた、理論を超えたロマンを求めたのです」
音楽は、人生そのものの目的であると高岡教授は語る。単なる芸術表現ではなく、生きることそのものと深く結びついた存在なのだ。だからこそ、無調の世界においても、構造のなかに潜む表現力、そして心を動かすロマンを追い続けている。
教員紹介
Profile

高岡 明教授
Akira Takaoka
東京都出身。慶應義塾大学文学部哲学科卒業。同大学院文学研究科哲学専攻博士課程単位取得満期退学。フルブライト奨学生およびコロンビア大学プレジデント・フェローとして米国コロンビア大学 Music Department, Graduate School of Arts and Sciences Music 博士課程修了。博士Ph.D.(音楽)。コロンビア大学 大学院音楽科 専任研究員 (Research Associate)、玉川大学 芸術学部 教授などを経て、2018年より桜美林大学に勤務。現在、東京音楽大学 特任教授、東京藝術大学 楽理科 非常勤講師 博士論文指導教員、中央大学 理工学部大学院 非常勤講師を兼任。専門は作曲(コンピュータによる自動作曲)と音楽理論研究(自動作曲、無調理論、音楽認知学、通奏低音、バロック期の装飾法など)。
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