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障害を社会の構造的問題
として捉える「障害学」
「医学モデル」から「社会モデル」へ
「『障害は個性』だと言われることがあります。人間には一人ひとり異なる魅力があり、障害もそのひとつだということです。果たしてそうでしょうか。そうした考え方では障害は個人の問題として捉えられて終わってしまい、障害者が不自由に感じている問題は何も解決されません。障害は社会のほうにこそ存在するのです」
健康福祉学群の谷内孝行准教授が専門とする「障害学」は、障害を社会が生み出した構造的な問題として捉える「社会モデル」の視点からアプローチする学問だ。従来の「医学モデル」では、障害を個人の身体的、知的、または精神的な特性に起因する問題とし、治療や福祉の対象として位置づけてきた。一方、障害学では、個人の特性そのものではなく、それを不利にしている社会の仕組みや環境に注目する。たとえば、視覚や歩行に困難を抱える人にとっての障害は、身体的な特性ではなく、それに適応していない社会のインフラや制度に起因していると考える。この視点は、障害を個人の「インペアメント(損傷)」として扱う医療的アプローチや、「障害者=福祉の対象」という従来の枠組みを超え、多様性を尊重する社会の構築を目指している。谷内准教授が障害学に取り組むようになった背景には、生まれつき視覚障害を持つ自身の経験がある。
「私には生まれつき視覚障害があります※。視力は0.02程度で、いわゆる弱視です。小学生の頃は盲学校に通っていましたが、中学生の途中で公立中学校に転校しました。盲学校での生活に違和感を覚えたのが理由です。当時、テレビでは『中学生日記』や『金八先生』といった学園ドラマが放送されていました。ドラマでは、一クラスに30人ほどの生徒がいる様子が描かれていましたが、私が通っていた盲学校では一クラス4人程度。この現実とドラマの世界の大きなギャップに、強い違和感を抱いたのです」
※便宜上「障害がある」と表現するが、障害学の視点からすると正確ではないと谷内准教授は付言している
中高時代は視覚障害を隠しながら生活していた
中学1年生の途中で公立中学校に転校した谷内准教授は、視覚障害者として見られたくないという思いから、自身の障害を隠しながら学生生活を送っていた。当時の1980年代は、障害に対する社会的な理解がまだ十分ではなく、学校の教員も谷内准教授の視覚障害について深く認識していなかったのではないかと振り返る。
「私の席は常に一番前でしたが、それでも黒板の文字はほとんど見えませんでした。学校が終わると、優秀な友達に頼み込んでノートを借り、家に帰ってそれを書き写していました。おそらく友達からは、『目が悪くてノートを借りにくる奴』くらいにしか思われていなかったかもしれません。体育の授業でサッカーをするときなども、ボールが見えないので『どうか自分のところに飛んでこないでくれ』と願う日々でした」

谷内准教授の地元である和歌山県では、高校生になると多くの生徒が自転車通学をしていた。しかし、視覚障害がある谷内准教授にとって自転車通学は難しく、このまま地元に残るなら盲学校へ戻る選択肢しかない状況だった。しかし盲学校への復帰は避けたいという強い思いから、バスや電車で通学が可能な東京の学校への進学を決意する。そして、自身の経験をもとに大学では社会福祉学部を選んだ。
「大学では障害福祉を専門に学ぶこともできましたが、あえて地域福祉を選びました。地域福祉とは、社会福祉や介護福祉を通じて、地域全体で共生社会を実現する方法を考える学問です。当時の私は、自身が障害者であることに複雑な思いを抱えていて、障害福祉に取り組むことで自分と正面から向き合うことに抵抗があったのだと思います。その後、大学院への進学を考えましたが、地域福祉を研究テーマにして志望理由書を書くのは難しく感じました。どこか気持ちがこもっていなかったのです。自分のなかで障害に対する後ろめたさが消えず、地域福祉という学問に力を注げていなかったのでしょう。そこで、ようやく障害というテーマと真正面から向き合う決意を固め、大学院では障害に関する研究を進めることにしたのです。そして、『障害学』と出合いました」
「障害学」と出合ったことで
これまでの生きづらさが解消された
「障害学」による価値観の転換
谷内准教授が大学院で「障害学」に出合ったのは、自身の人生観を大きく変える出来事だった。障害学は1980年代には英米で誕生していた学問だったが、日本では1990年後半に入っても馴染みの薄い分野だったという。しかし、この学問に触れることで、谷内准教授はこれまでの自身の経験や考え方が根本的に変わることになる。
「障害学は、障害を個人の問題とせず、社会の側に障壁があると捉える学問です。たとえば、黒板の文字が見えないのは視覚障害者の責任ではなく、そのような授業の仕組み自体が問題なのです。『私が悪いわけではなかったんだ。むしろ社会に障壁があったのだ』と気づいた瞬間、それまで感じていた生きづらい気持ちがスッと晴れたような気がしました」
現在では、社会の障壁を取り除くための手段の一つに、「合理的配慮」という考え方がある。合理的配慮とは、障害のある人とない人が平等な機会や待遇を得られるよう、障壁となる状況を改善・調整するための具体的な措置を指す。たとえば、大学では聴覚障害のある学生の隣にサポート役が座り、情報を共有する「ノートテイク」などが実践されている。ただし、合理的配慮には限界があるため、提供する側が過度な負担を抱えない範囲で対応することが求められている。
大学院時代の経験が現在の研究へとつながっている
谷内准教授は大学院生の頃、「社会福祉協議会」でのアルバイトをきっかけに、小学校で自らの経験を語る機会があったという。社会福祉協議会とは、福祉関係者や福祉施設事業者との連絡・調整や、社会福祉のさまざまな制度改善に向けた取り組み、また社会福祉に関する図書・雑誌の刊行、福祉に関わる人材の養成・研修といった事業を展開している団体だ。
「小学生を対象に、自身の視覚障害について話したり、アイマスクを装着して校内を歩く体験をしてもらったりと、障害に関する理解を深める活動を行いました。しかし、その後に寄せられた感想文には、『谷内さんは目が見えなくて可哀想』『私は目が見えていて良かった』といった内容が多く見られました。つまり、私が意図した障害学的な視点はなく、障害の問題が当事者の身体にあると捉えられていたのです。一方で、学校の廊下に手すりがないことや段差が多いことなど、社会の側に存在する障壁への指摘はありませんでした。このとき、私は小学生たちにステレオタイプを植え付けてしまったかもしれないと深く反省しました」
この体験は、谷内准教授にとって大きな教訓となり、障害学における「社会モデル」の重要性をより深く理解するきっかけになったという。そして、個人の障害を社会的な課題として捉え直す視点が、現在の研究や活動にも深く根付いている。
大学院時代に市民団体を創設、NPO法人化してソーシャルワーカーとして活動
大学院時代、谷内准教授は東京都北区に住み、社会福祉協議会とのつながりを活かして行政に関わる取り組みにも携わっていた。各市区町村では、障害者施策を総合的かつ計画的に進めるための「障害者計画」の策定が義務付けられているが、障害者自身の声がその内容に十分反映されていないことに谷内准教授は問題を感じていた。
「その課題を解決するために、市民団体を立ち上げました。視覚障害や聴覚障害など、そのほかさまざまな障害を抱える方々が、何に困り、どのような社会の仕組みが障壁になっているのかを直接伝えられる場をつくることが目的でした。活動の一環として毎月勉強会を開催していたところ、次第に行政の職員も参加するようになり、声が届いている実感を得られるようになりました。そして設立から約3年後、『谷内さんの市民団体に福祉事業の一部を委託したい』と行政の方から提案を受け、市民団体をNPO法人化することになったのです」
NPO法人化後、北区の障害者福祉センターの一室を借りて相談支援センターを開設。非常勤職員を含む5名体制で、ソーシャルワーカーとして住民からの相談対応を開始した。相談内容は多岐にわたり、病院や適切な機関への紹介が主だったが、解決が困難な課題にも直面した。たとえば、発達障害の子どもの療育施設への入所が1年待ちだったり、障害者支援施設が遠方でないと見つからなかったりするなどのケースである。これを受け、谷内准教授は療育事業の立ち上げや4人暮らしのグループホームの設置など、新たな事業を次々に展開していった。さらに、活動のなかで社会福祉士や精神保健福祉士、公認心理師、介護福祉士などの資格も取得し、専門知識を磨いていった。
「ソーシャルワーカーとして患者さんの話を聞き、病院につなぐ際に、専門的な知識があると医者と対等に話せるのは大きな利点です。共通言語を持てることでコミュニケーションがスムーズになり、対応の質も向上しました。この現場経験と資格取得が、国家資格の勉強を教える講師として桜美林大学に招聘されるきっかけとなりました。そしてその縁が、現在、桜美林大学での教員としての活動にもつながっています」
「障害理解教育プログラム」を通して
差別や偏見、社会の障壁を解消したい

障害に関するさまざまな研修を全国の企業や自治体で実施
谷内准教授は現在、「障害理解教育プログラム」の推進に力を注いでいる。このプログラムの特徴は、従来のアイマスクを用いた障害疑似体験など、障害による「できない体験」を再現する方法ではなく、障害当事者とともに社会構造や環境が障害者の日常生活にどのような障壁を生じさせているのかを考察し、その改善策を探る点にある。谷内准教授がこの取り組みに注力する背景には、すでに言及した大学院時代の経験があり、特に小中学生への教育に力を入れることで、差別や偏見の解消を目指している。また、近年ではNPO法人「障害平等研修フォーラム」の理事としても活動し、「障害平等研修」を通じて、障害の「社会モデル」を普及させる取り組みを行っている。
「障害平等研修は、障害者自身がファシリテーター(進行役)を務めることが特徴です。この研修では、企業や自治体などを対象に、発見型学習と呼ばれる対話を基盤とした手法を用い、インクルーシブな組織づくりを参加者と共に模索していきます。全国の教育機関や企業をはじめ、内閣府や地方自治体の主催する公的プログラムとしても広がりを見せています。2021年の東京オリンピック・パラリンピック開催前には、約8万人のボランティアに対して研修を実施し、大きな社会的影響を与えました。多くの参加者が驚きともに新たな視点を得ているはずです」
研修を受けた多くの参加者が驚きを覚えるのは、自分たちが無意識のうちに障害をつくり出す側に立っていた可能性を自覚するからだ。例えば、職場で車椅子を使用する人がいるにもかかわらず、デスクやコピー機の配置が適切でなかったり、通路に荷物が置かれていたりすることで移動が妨げられる場合がある。また、大きな会議でモニターを使用した情報共有を行っても、視覚障害者が情報を得られない状況が生じていることもある。これらの状況に対して、多くの人は「仕方がない」と考えがちだが、デスクの配置を変える、情報を音声で提供する仕組みを導入するといった合理的配慮が可能であるかもしれない。合理的配慮は、過重な負担とならない範囲で求められるため、個別具体的な状況を総合的に検討しながら対応していくことが必要だが、このプロセスを通じて、社会全体が障害をともに解消していく意識を持つことが、真のインクルーシブ社会への道筋となる。
法律整備が進んだ今こそが大きな変革のチャンス
日本では、2016年に「障害者差別解消法」が施行され、障害を理由とした差別をなくし、すべての人が共生できる社会を目指す動きが始まった。さらに、2024年4月からは、合理的配慮が民間企業にも義務付けられている。これらの進展は、NPO法人や全国の団体が長年続けてきた取り組みの成果と思いたいが、谷内准教授は異なる視点を示す。
「障害者差別解消法の施行は、日本国内の自主的な変化というよりも、外部からの要請による側面が大きいのです。2014年、日本は国連の『障害者権利条約』を批准しましたが、それまで国内法は十分に整備されていませんでした。そこで、条約批准に伴う法律の整備として施行されたのが『障害者差別解消法』だったのです。つまり、国内のニーズからではなく、国連をはじめとする外部からの要請が変化を促した面が大きいのです。2024年の合理的配慮義務化も、法律としての整備は進んでいますが、現場での実践はまだ不十分です。このような状況のなかで、私たちはさまざまな機関に出向き、障害者への差別や偏見をなくすための取り組みを促進する必要があると感じています」
谷内准教授は、法律整備が進んだ今こそが大きな変革のチャンスだと強調する。障害は個人の問題ではなく、社会のなかに存在するものだと認識してもらうことが重要だ。この認識を深め、一歩ずつ着実に進めることで、インクルーシブ社会への道を切り拓くことができる。障害を取り巻く社会の仕組みや意識が変わるためには、法的な整備だけでなく、現場での具体的な取り組みと社会全体の理解が欠かせない。その実現に向けて、谷内准教授の活動は続いていく。
教員紹介
Profile

谷内 孝行准教授
Takayuki Taniuchi
1972年、和歌山県生まれ。東洋大学大学院 社会学研究科 社会福祉学修士。北区障害者地域自立生活支援室 室長、桜美林大学 経営政策学部ビジネスマネージメント学科 非常勤講師、桜美林大学 健康福祉学群 講師を経て、現職。
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