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老年学や公衆衛生学の視点から
高齢世代の就業を考える
多様化する高齢世代の就業——健康と就労の両立に向けて
かつては引退の節目とされた60歳という年齢が、今や就労継続の出発点となりつつある。日本では制度上65歳以上を高齢者と定義しているが、医療技術の進歩や健康意識の高まりにより健康寿命は延び、年齢を重ねても意欲的に働き続ける人が増えている。さらに、定年延長や再雇用といった制度的な後押しもある。
高齢者が働く理由は多様だ。自身のスキルや経験を活かしたいといった前向きな動機に加え、年金や貯蓄だけでは生活が難しく、経済的理由から働かざるを得ないという声も少なくない。また、少子高齢化が進むなかで、高齢者の就業は労働力不足の補完策としても期待されている。社会保障制度の持続性を確保する観点から、政府は「受給者から納税者へ」という構図を描き、就業促進を進めている側面もある。
また、近年は就業がもたらす健康面への効果にも注目が集まっている。先行研究では、就業が抑うつ傾向の軽減や生活満足度の向上、日常生活動作の維持、認知機能の保持、フレイル(虚弱)予防、生存率の向上など、多くの健康指標に良い影響をもたらすことが示されている※1)2)。しかしながら、高齢世代になっても働き続けることにはリスクもある。健康福祉学群の渡辺修一郎教授は、次のように語る。
「定年延長により高齢者の就業機会は広がりましたが、庭木の剪定や清掃業務など、体力的な負担が大きい仕事に従事する方も多く、転倒などの労働災害につながるケースも増えています。とくに、健康に不安を抱えながらも経済的理由で働かざるを得ない方に対しては、より丁寧な健康支援が必要です」
渡辺教授は、医師免許を持つ衛生学・公衆衛生学の専門家として、長年にわたり「労働と健康」の関係を医学的な視点から研究してきた。衛生学とは、健康維持・増進や疾病予防を目的に、環境・社会・個人を取り巻くさまざまな要因を総合的に探究する学問で、公衆衛生学とは、地域社会全体の組織的な取り組みにより、病気を予防し、人々の健康を維持・増進させるための学問である。一方で渡辺教授は、高齢者に焦点を当てた「老年学」にも注力している。老年学とは、加齢に伴う身体的・心理的・社会的変化を幅広く研究し、高齢社会における課題に向き合う学際的な分野である。医学や心理学、社会学、福祉学などを横断的に統合しながら、高齢者の健康や福祉、社会参加、生活環境などに関するテーマを扱う。渡辺教授はそのなかで、医学的な視点を軸に研究を進めている。
※1)東京都健康長寿医療センター研究所社会参加と地域保健研究チーム: 高齢者就労支援プロジェクト(ESSENCE)ホームページ,参考資料,先行研究に関する資料.(外部サイト)https://sites.google.com/site/elderlyemployment/review?authuser=0
※2)渡辺修一郎: 高齢者の社会参加と健康. Aging&Health 30(3) 2021; 10-13.
高齢世代の就業は、人口減少が進む地域や人手不足の業種では喫緊の課題
渡辺教授が調査・健康管理に携わる群馬県嬬恋村をはじめとする農村部では、高齢者が地域の主要な働き手となっている。また、バス業界をはじめとして人手不足が深刻な問題となっている業種も高齢就業者の割合が高い。
「高齢になると反応速度の低下などの運動機能の低下や生活習慣病、さらには“老年症候群”と呼ばれる複合的な健康問題が現れてきます。それでも、地域の交通や物流を維持するために、高齢者が車を運転せざるを得ないのが実情です。だからこそ、企業が実施する健康診断の項目を見直し、業務に即した健康評価体制を整備する必要があります。高齢者の就業を支えるには、本人の健康的ポテンシャルを最大限に引き出すだけでなく、企業側の受け入れ体制も不可欠なのです」
地方では移動の壁が就業継続に大きく影を落としている。日常的に車が必要とされる地域では、運転免許の自主返納がそのまま就業機会の喪失につながりかねない。医療機関へのアクセス支援は進んでいる一方で、「働くための移動手段」に対する制度的支援は、いまだ十分とはいえない。高齢者の就業をめぐる課題は、本人の健康状態にとどまらないのだ。就労環境や社会インフラを含む、包括的な支援体制の整備こそが、真の意味での「健康と就労の両立」を実現する鍵となる。
労働は健康にどのような影響をもたらすのか
生死の境を越えた経験が導いた、医学への道
渡辺教授が医学の道を志した原点には、少年時代に経験した生死をめぐる医療体験がある。1970年代、中学2年生のときだった。全国で導入が始まった学校心臓検診で心臓の異常が見つかり、約1か月の入院と手術を受けることになった。
「一度心臓を止めてから再び動かすという、まさに“死んで生き返る”ような手術でした。命を救われたという実感とともに、医療の力に深い感銘を受けました。この経験が医師を志す最大のきっかけになったと思います」
当時、電気工作が趣味で、物理学にも強い関心があったことから、将来は理系の別分野に進む選択肢もあったという。しかし最終的には、「命」に携わる仕事に惹かれ、医学部への進学を決意する。医学部入学当初は、自らの体験をもとに心臓外科医を志していたが、大学1年次から参加した「保健医療研究会」での活動が、その後の進路を大きく変えた。
「研究会では、生活と健康の関係に注目した調査活動を行っていて、農村地域に出向いて住民の方々にお話を伺うフィールドワークがありました」
活動を通じて繰り返し耳にしたのが、「農夫症」と呼ばれる病についてだった。肩こりや腰痛、しびれ、息切れ、農薬中毒といった症状が農作業の過程で慢性的に現れるもので、医学的には一つの疾患とは分類されないが、農民の生活に深刻な影響を及ぼしていた。そんななか強く心に残ったのが、ある郵便局員とのやりとりだった。
「その郵便局員は『医者に白ろう病と言われているんだ』と話していました。白ろう病といえば、振動工具の使用によって起こる末梢循環障害で、チェーンソーを使う作業員などに多い職業病という印象がありました。しかしその方は、舗装されていない山道をバイクで配達するうちに、同じような症状が現れていたのです」
この経験をきっかけに、渡辺教授の関心は「医療行為としての治療」から「生活・労働環境が健康にどう影響を与えるのか」という公衆衛生・社会医学的な視点へとシフトしていった。
時代の変化が照らし出した、新たな「労働と健康」の関係
大学を卒業し医師免許を取得後、渡辺教授は、感染症や膠原病を専門とする内科で臨床研修を受け、その後、「労働と健康」の関係をさらに探究したいという思いが強まり、大学院へと進んだ。最初に取り組んだテーマは、VDT(Visual Display Terminals:ディスプレイ端末)作業と健康の関係だった。
1980年代に入り、職場にコンピュータが本格導入され、手書き中心の事務作業はデジタル化へと大きく舵を切った。業務効率が飛躍的に高まる一方で、新たな健康リスクが浮上し始める。VDT作業による健康リスクは、適応できない人だけでなく、適応できる人にも発生していたと渡辺教授は語る。
「コンピュータ操作に不安を感じる人々では、精神的ストレスから頭痛や胃潰瘍などの身体症状が現れることがありました。一方、操作に慣れている人々でも、集中しすぎるあまり長時間作業を続けてしまい、眼精疲労・視力低下・肩こり・腰痛などを引き起こすケースが多く見られたのです。また、作業に没頭することで職場内での人間関係が希薄化する傾向も確認できました」
同じ頃、社会全体の労働環境も大きく変化していた。衛星放送の開始、24時間営業の拡大、そして国際的なビジネスの広がりなど、1980年代後半、夜間労働や交代制勤務が急増する社会的背景のなかで、渡辺教授は「夜勤と健康」の関係にも注目した。
「夜勤者は、本来ならば休息すべき時間帯に活動するため、心拍や血圧といった生理的なリズムが乱れやすくなります。看護師を対象に行った調査では、胃腸障害や睡眠障害が顕著でした」
そこで渡辺教授は、自律神経の働きに注目し、心拍変動を手がかりに夜勤の影響を“可視化”する試みに挑んだ。解析には高速フーリエ変換という手法を用い、心拍リズムの周波数特性を詳細に分析。すると、夜勤によって副交感神経の周期が乱れ、身体への負担が蓄積していく実態が明らかになった。
「さらに問題だったのは、いったん乱れた自律神経のリズムが、昼勤に戻っても容易には回復しないという点でした。これは、交代制勤務が長期的な健康リスクにつながる可能性を示唆する重要な知見でした」
高齢世代への実践と産業医としての活動
労働は健康を損なうだけのものなのか——。渡辺教授は、労働が高齢者の心身に良い影響をもたらす可能性にも早くから着目していた。その意識を深める契機となったのが、大学時代のフィールドワークだった。80歳以上の高齢者を対象に生活実態や健康状態を調査した際、労働を単なる身体的負担としてではなく、「生きがい」や「社会参加」の手段として語る人々の声に出会った。
「『高齢になっても働けることが嬉しい』『毎日やることがあると元気でいられる』。そう語る姿は、今も鮮明に覚えています」
こうした実感を得ていたこともあり、大学院での研究を経て、渡辺教授は東京老人総合研究所(現 東京都健康長寿医療センター研究所)へと活動の場を移した。地域保健部門に所属し、「地域のなかでいかに元気に暮らし続けられるか」をテーマに、高齢者の日常生活の実態把握、健康に影響する生活習慣の分析、望ましくない習慣の改善策など、多角的な研究に取り組んだ。この間、1994年にNIH(米国国立衛生研究所)傘下のNIA(国立老化研究所、Baltimore)にて老化に関する縦断研究に携わりながら、Johns Hopkins大学衛生公衆衛生学部にて疫学を学んだ。これらの経験は、高齢化や老化に関わる課題に国際的な視点から取り組むうえで大いに役立っている。
また1990年代後半には、インフルエンザの集団感染防止も大きな課題となっていた。一般市民のワクチン接種に対する理解は不十分で、高齢者施設や学校での接種率向上には依然として壁があった。
「当時は『ワクチンは感染を完全に防ぐものではない』という基本情報が十分に共有されていませんでした。そのため不信感が根強く、未接種のまま重症化する高齢者や、子どもの死亡例も報告されていました」
この現状を踏まえ、研究所ではワクチン有効性の周知と接種促進を目的に、ワクチンの有効性の調査研究や情報発信を強化。啓発活動と並行して現場の改善にも尽力した。
現在、渡辺教授は大学での教育・研究の傍ら、臨床医・産業医としての実務にも携わっている。コロナ禍では高齢者施設や企業の職域接種の現場で、年間約3,000人に対しワクチン接種を担当したという。
普通に生活していたら
健康でいられる社会を目指して
高齢世代の健康を支えるために——教育・研究・実践の三位一体で
現在、桜美林大学で「高齢者の健康」や「労働と健康の関係」を研究する渡辺教授。衛生学・公衆衛生学や老年学の視座から社会の変化に向き合い続けるなかで、大学に所属する意義は、教育・研究・実践の3つを横断的に行えることにあると語る。
「学問の本質は、学術的な知の探究にとどまらず、それを実社会に応用し、実践を担う人材を育てていくことです。理論に裏づけられた実践を通じて成果を検証し、それを教育に還元する。この三位一体の循環が、今まさに求められているのです」
そんななか、高齢者の健康維持の実践として、渡辺教授が注目するひとつが「家事」だ。特に男性にとって、定年退職後に家事に取り組むことは、認知機能や身体活動の維持に大きく貢献するという。きっかけは、知人の大学教員が主催した「男性のための料理教室」への参加だった。
「料理には、複数の工程を効率よく進める段取り力や、栄養バランスへの配慮といった高度な判断が求められます。頭と身体の両方を使う複合的な活動であり、日常生活のなかで自然に健康を支える行為だと再認識させられました」
しかし、日本社会には依然として「家事は女性の役割」という固定観念が根強く、特に高齢男性にとって家事に取り組むハードルは高い。この背景には、働き世代における性別役割分担の偏りがあり、それがそのまま高齢期に持ち越される構造があるという。したがって、家事に対する性別役割意識を見直し、ジェンダーフリーの価値観を普及させることが、高齢者の健康づくりにもつながるかもしれないと渡辺教授は指摘する。
さらに、渡辺教授は高齢期の「社会参加」や「つながり」の重要性も強調する。とりわけ男性は、退職後に地域とのつながりを築くことができず、孤立しやすい傾向があるという。
「女性は比較的、自然に地域との関係性を築けるのに対して、男性は閉じこもりやすくなる。その壁を乗り越えるためには、人と人をつなぎ、活動をデザインする“地域のコーディネーター”的な人材の育成が不可欠だと思っています。桜美林大学大学院の老年学専攻では、そうした担い手の育成にも力を入れています。実際、卒業生との連携によって『笑いヨガ』や『ポールウォーキング』などの地域プロジェクトも生まれてきました。高齢者の潜在的な力を引き出し、個人の努力を地域全体の活力へとつなげていく。こうしたエンパワーメントの視点が、現代の健康づくりには欠かせません」
一方で、健康に関する意識を若い世代のうちから育むことも重要だと渡辺教授は語る。高校までは受験勉強が中心で、保健体育の授業を通じて学ぶ健康知識も実生活には結びつきにくい。しかし、健康は生涯にわたって影響を与えるものであり、社会人になってからはじめてその重要性に気づくのでは遅い場合もある。特に、40代以降に生活習慣病や運動不足のリスクが高まるが、その段階から生活習慣を変えるのは難しい。だからこそ、大学教育のなかで健康管理の重要性を学び、「ヘルスリテラシー(健康に関する正しい知識と判断力)」を身に付ける必要があると渡辺教授は考えている。
若い世代を育むヘルスリテラシー——生涯の健康を支える基盤として
将来、高齢になっても健やかに暮らすためには、若いうちからのヘルスリテラシーが欠かせない。健康は年齢を重ねてから意識するもの、という認識では遅すぎる。生活習慣病などのリスクが顕在化する前から、日常のなかで無理なく健康を維持できる“当たり前の状態”をつくること。それこそが、将来の健康づくりにおいて最も重要なことだという。
渡辺教授が担当する教養科目「医学一般」は、学群の枠を超えて誰でも履修できる。授業では、身体の仕組みやライフステージごとの健康課題について基礎から学ぶ。詰め込み型の知識習得ではなく、自分の生活習慣を見つめ直す契機としての学びを重視している。
「学生には、自分の身体について関心を持ち、自然と健康的な選択ができるようになってくれたらと思っています。その意識の芽を、大学時代に育ててほしいのです」
渡辺教授の取り組みは、学内にとどまらない。たとえば、国土交通省「健康・医療・福祉のまちづくり研究会」では、地域社会における高齢者の生活支援体制の構築を目的としたガイドラインづくりに参画。また、2012年からは埼玉県志木市の介護保険事業計画の策定にも継続的に関わり、地域包括ケアの実現に向けた提言や実践を重ねてきた。
こうした地域との連携に加え、産業医としての実務も担う。企業では、労働者の健康診断や事後指導を通して、働く人の健康保持・増進に取り組むほか、桜美林ガーデンヒルズでは高齢入居者の健康管理を支える活動も行っている。
「働き方や職場環境が、健康に与える影響は非常に大きい。私は一貫して“労働と健康”の関係を研究テーマとしてきました。職場での小さな無理が、やがて大きな健康リスクにつながることもある。だからこそ、労働世代の段階から正しい知識と行動習慣を根づかせることが重要なのです。これからも、教育・地域・産業のフィールドを横断しながら、人々の生涯にわたる健康支援に力を注いでいきます」
大学から社会へ、健康という価値をつなげていく。ヘルスリテラシーを社会全体に広げていく取り組みは、個人の暮らしを変え、やがて社会そのものを変えていく力を持っている。桜美林大学から発信される健康教育の取り組みは、確実に社会を変えていく一歩となっている。
教員紹介
Profile
渡辺 修一郎教授
Shuichiro Watanabe
1961年愛媛県生まれ。1986年愛媛大学医学部卒。愛媛大学医学部附属病院第一内科にて臨床研修。愛媛大学大学院医学研究科修了(医学博士)。愛媛大学医学部衛生学教室助手、東京都老人総合研究所地域保健部門(現東京都健康長寿医療センター研究所)主任研究員。2002年に桜美林大学大学院に老年学専攻が設置されたのを機に同助教授として異動。同教授を経て2021年より現職。医師、医学博士、労働衛生コンサルタントの資格を保有。専門は、老年学、予防医学、産業医学。主に中高年者の健康の保持増進に関する研究、教育、実践活動に従事。日本応用老年学会および日本老年社会科学会の理事、国土交通省健康・医療・福祉まちづくり研究会委員、世田谷区および志木市の介護保険事業計画策定委員、大原記念労働科学研究所客員研究員などを歴任。著書に『老年学を学ぶ-高齢社会の学際的研究』、『就労支援で高齢者の社会的孤立を防ぐ』、『すぐわかる!ジェロントロジー』、『日中両国の共通課題-激変の世界で直面する新たな問題群』など。
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