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ポジティブ心理学とは何か?
外資系企業の管理職から心理学研究の道へ
ポジティブ心理学(Positive Psychology)と呼ばれる研究領域がある。これは、アメリカの心理学者マーティン・セリグマンによって提唱された比較的新しい心理学の分野で、2000年頃から脚光を浴びるようになった。内容としては、人間の強み、幸福、ポジティブな感情に焦点を当てたもので、従来の心理学が「心の病の治療」や「問題の解決」に重点を置いてきたのに対し、ポジティブ心理学は「よりよい人生を送るためにはどうすればよいか?」を探求することを目的としている。
健康福祉学群の松田 チャップマン 与理子教授は、このポジティブ心理学をベースにした「ポジティブ組織心理学」や「働く人のウェルビーイング」を専門としている。
「研究者になる前は、外資系保険会社で管理職を任されていました。大学卒業後、イギリスに留学し、そのまま大手広告会社のロンドン支社で職を得ると、そこから国内外の企業でさまざまな仕事を経験してきました。企業では主にマーケティングを専門にしていた私が心理学に関心を持つようになったのは、35歳のときに親を亡くしたことがきっかけでした」
転機になったのは突然訪れた親の病と最期
松田教授の親が亡くなった1990年代後半は、まだ「告知」があまり普及していない時代で、患者本人や家族には病状が伝えられず、松田教授だけがそれを知っているという状況で最期を迎えた。家族としてどう伝えるべきか、最後まで悩み、結局伝えることができなかった。この経験が、後になって松田教授のキャリアの方向性を大きく変えることになる。
「キャリアアップを目指してマーケティングの仕事に打ち込んでいましたが、40代に入って仕事に対する意義を見出せなくなってしまいました。そこで、思い切って退職し、親を看取った時からずっと引っかかっていた患者・家族と医師との関わりについて学びたいと考えました。自分なりに調べを進め、最終的に健康心理学という分野にたどり着きます。そして、日本においてこの分野のパイオニア的存在である桜美林大学大学院国際学研究科人間科学専攻に進学することにしました」
健康心理学とは、心理学の視点から健康や病気の影響を研究し、健康の維持・増進や病気の予防・治療を支援する学問分野のことを指す。松田教授は、まず修士課程で、「医師と患者のコミュニケーション」をテーマとして、特に患者側の視点に焦点を当てて研究を行った。そして、修士論文を書き上げる過程で、学術的研究の奥深さと面白さに触れ、博士課程に進学する道を選ぶ。
「働く人のウェルビーイング向上」に研究の軸を移す
博士課程に進学後、修士課程で「医師と患者のコミュニケーション」研究に専念して取り組み、自分なりに区切りがついたことや、医療分野のフィールド確保の難しさに直面したことが、新たな研究テーマを考える機会となった。そこで松田教授は、改めて自分の強みとは何かを考えた。振り返れば、国内外の企業で20年以上勤務し、管理職も経験してきた。企業組織で働く人々の心身の健康を向上するうえで健康心理学の知見が役立つのは明らかだ。そこで、「働く人のウェルビーイング向上」というテーマに研究の軸を移し、その後、産業領域の健康心理学だけでなくポジティブ心理学へと研究の幅を広げていく。
「企業に勤めていた頃、私は管理職として多くの部下を抱えていました。振り返ってみると、職場にはメンタルヘルスの問題を抱える同僚や部下もいました。当時の私は、そういった問題に対して適切なサポートを提供できていなかったと感じています。もっと早く心理学を学んでいれば、彼らに対して何かできることがあったのではないか——そう考えるようになりました」
企業の管理職向けの「コーチング」にも注力
24の強みから「働く人」の特性を見極めるVIA-IS

「2021年の大学院改組で新たにポジティブ心理分野の学位プログラムが開設されたことをきっかけに、現在は、ポジティブ組織心理学の研究と実践を主眼に置いています。研究対象は、『働く人がよりよく生きるための要素』。例えば、企業の現場においては、近年ますます従業員の『強み』を生かした働き方に注目が集まっています」
ポジティブ心理学の中核的なテーマである人間の「強み」や「美徳」は、前出のマーティン・セリグマンと同じくアメリカの心理学者クリストファー・ピーターソンによって提唱され、「VIA-IS (Values in Action Inventory of Character Strengths)」と呼ばれる「強み」を測定するための尺度も開発されている(※)。VIA-ISは、6つの美徳と、それに関連する24の強みで構成されている。
「最近の研究では、ポジティブ組織心理学にコーチング手法を取り入れ、VIA-ISも活用しながら、どのように従業員の強みやポジティブな側面を引き出し、ポジティブな組織文化やリーダーシップを醸成できるかを探究しています」
VIA-IS(Values in Action Inventory of Strengths)とは?

ポジティブ組織心理学に「コーチング」のアプローチを取り入れた介入の実践
ポジティブな組織や人材の開発において、近年特に注目されているのは「コーチング心理学」だ。これは心理学の理論や手法を活用して、人の成長や目標達成、行動変容を支援する学問のことを指す。コーチングの理論は、主にスポーツ分野からスタートし、企業の組織改革やチームのパフォーマンス向上にも用いられてきた。コーチング心理学は、イギリスやオーストラリアで盛んに進められており、日本では、2013年に大学院国際学術研究科の石川利江教授が初めてコーチング心理学を大学院のカリキュラムに導入した。松田教授もコーチングの手法を取り入れた介入の効果を実感している。
「最近、注目しているのが、マネジリアル・コーチングです。これは、管理職が部下の成長を促し、パフォーマンス向上を支援するためのコーチング手法です。対話や質問を通じて、部下の自律性や問題解決力を引き出すことを目的としながら、最終的には上司と部下がお互いに承認し合える社内文化を形成することを目指します。私はこのコーチング文化を社内でつくることに関心があります」
例えば、松田教授が担当する中小企業を対象にしたマネジリアル・コーチングの研修では、3か月にわたり、隔月で計6回のセッションを行う。上司1名と部下2名のユニットをつくり、コーチング行動の指標にどのような変化があるかを調査する。管理職のコーチング行動を評価する指標としては、アメリカのDr Andrea D. Ellingerが提唱する8項目の尺度がよく知られている。松田教授は、この尺度の日本語版を開発し、介入の効果指標として活用している。
新たな研究分野「ミーティング・サイエンス」とは?
会議を評価する尺度を開発し、日本の職場における会議の質を高める

最近、新たな研究テーマにも取り組んでいる。それは、「ミーティング・サイエンス」。和訳すると「会議の科学」だ。企業や大学では日々多くの会議が行われているが、会議の生産性やウェルビーイングへの影響は十分に研究されていないのが実状だ。そこで、松田教授は、ミーティング・サイエンスの研究に着手し、日本の職場における会議が従業員やチームのウェルビーイングやパフォーマンスにもたらす影響を明らかにしようとしている。
「職場の日常に溶け込んでいる『会議』は、働く人のウェルビーイングや組織の業績を左右する重要な要素です。効果的な会議は、情報共有、アイデア創出、意思決定への参画、問題や葛藤の解決、共同体意識の醸成を促す場として機能します。しかし、多くの場合、働く人は会議を時間の無駄で仕事を妨げるストレスの源と捉えています。最近、特にオンライン会議の普及により、会議の質が低下していると感じる人が増えています。オンライン会議では、参加者が別の作業をしながら参加する『マルチタスキング』の問題が顕著です。対面の会議であれば、全員が場の空気を感じ取りながら議論を進めることができますが、オンライン会議ではそれが難しくなります。その結果、会議が単なる情報共有の場となり、重要な機能を失ってしまうことがあります。この問題を解決するため、会議の質を評価する尺度を開発し、企業と協力して研究を進めています」
よりよい職場環境の構築に貢献していきたい
この研究において、松田教授は、20歳から60歳までの勤労者男女計650名を対象に調査を実施。「会議の目的が明確か」「参加者が主体的に関与しているか」「決定事項が明確に伝えられているか」といった指標を用いて、どのような要素が会議の生産性を高めるのかを明らかにしようとしている。まずは、ミーティング・サイエンス研究に用いる日本語の尺度を開発し、データを収集・分析することで、会議の有効性やウェルビーイングへの影響を明らかにしていくつもりだという。その上で、効果的な会議のあり方を明らかにし、その実践法を企業組織に提言していくことを目指している。
「私の研究は、すべて『働く人のウェルビーイング向上』と密接に結びついています。ポジティブ組織心理学、コーチング心理学、ミーティングサイエンスの視点を取り入れながら、企業と連携し、よりよい職場環境の構築に貢献していきたいと考えています。」
※Peterson, C., & Seligman, M. E. P. (2004). Character strengths and virtues: A handbook and classification. Oxford University Press; American Psychological Association.
教員紹介
Profile

松田 チャップマン 与理子教授
Matsuda-Chapman,Yoriko
大阪府出身。同志社女子大学学芸学部英文学科卒業。イギリス留学を経て、DENTSU UK LIMITED、エース損害保険株式会社などに勤務。マーケティング部門の管理職を経験する。1996年 Westminster Business School, University of Westminster 修士課程修了(MBA)。1998年 Visiting Fellow Program, MIT Sloan School of Management 修了。その後、研究テーマを心理学に移行し、2007年 桜美林大学大学院国際学研究科人間科学専攻修士課程修了、2010年 同大学院国際学研究科環太平洋地域文化専攻博士課程単位取得満期退学。2010年 桜美林大学にて博士号取得(学術)。専門は、ポジティブ組織心理学、健康心理学、コーチング心理学ほか。
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