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保育現場が抱える課題と向き合いながら、保育者という職業の魅力を伝える
他では得られない魅力に満ち溢れた保育の仕事
近年、保育現場の厳しい労働環境や不適切な指導が社会問題として注視されるなか、健康福祉学群で保育者養成に携わる大下純准教授は、保育という仕事の魅力を学生たちに伝えている。保育士として現場で培った経験と、大学教員として俯瞰する視点を併せ持つ大下准教授が見つめる保育の世界は、困難さと同時に他の職業では得られない深い喜びに満ちているという。
「健康福祉学群保育学専攻の中では保育士や幼稚園教諭といった保育者の養成を担当しています。中心となるのは、保育士資格の取得をめざす学生に向けた授業です。保育士資格を取得するためには、保育所や児童福祉施設での実習を経験しなくてはなりません。実習に行く前の準備の学び、そして実習を経た後の学びについて、保育実習の科目で教えています」
実習中には学生からのSOSも寄せられる
自らも保育士としての経験を持つ大下准教授が授業において心がけているのは、仕事の楽しさだけでなく、やりがいと責任の両面を伝えることだという。しかし、緊張や戸惑いを抱く学生は多い。大学外での実習がスタートすると、時間を問わず大下准教授のもとに学生からSOSの連絡が寄せられることもある。その際には敢えて厳しいことを言わず、前向きに実習を終えられるような助言をするようにしている。
「実習先で指導を受けた際、『怒られてしまった』と否定的に受け止めてしまう学生も少なくありません。そんな時、指導の意図や今後の対策に気づけるよう、通訳のように教えることも私の重要な役割だと思います。学生本人にとっては大変に思える実習であっても、やはり現場でしか学ぶことのできないことがたくさんあります。保育現場で必要となる知識を教えるとともに、実習で悲観的な思いをもった学生がいれば話を聞いて、誤解があれば解き、支援していくことが重要だと考えています」
子どもの“主体性”とは何か? センシティブになる保育の現場
小学校就学前の子どもたちを預かる保育者の仕事には、当然ながら大きな責任感が求められる。しかし、保護者やメディアが「不適切な保育」に厳しく目を光らせる現代社会では、時にその責任感が保育者たちを苦しめることにもなる。もちろん直接的な虐待行為は言語道断だが、保育と「不適切な保育」の狭間にある曖昧さに現場はセンシティブにならざるをえない。
「ひとつの行動や判断がマイナスの状況を生み、社会から否定的な印象を抱かれてしまう。こうした難しい状況のなか、先生たちは絶対的な“正解”が存在しない保育の現場で仕事を続けなくてはなりません。例えば近年、子どもの主体性を尊重する保育が重要視されるようになりました。もちろん子どものやりたいことを支えること自体はいいことなのですが、ここで求められる“主体性”が極めて曖昧なことが問題なのです」
昼食の時間になっても子どもが遊びをやめなかった場合、文字通りに「主体性を尊重する」のであれば、遊びを続けさせることが正解なのかもしれない。しかし、子どもの生活リズムは勝手に整うわけではない。一日における望ましい時間帯に昼食を与えなかったことが大きな問題として指摘される可能性もあるだろう。必要な栄養を得ることができないだけでなく、社会性の形成を阻害する一因にもなりうるからだ。本当に“適切”な保育とは何なのか。現在も多くの保育者が葛藤を抱きながら子どもたちと真剣に向き合っている。
「こうした判断は本当にケースバイケースで、実際に現場で直面しなければ想像すらできないこともあります。教科書に沿った座学では教えられることには限界があるので、実際に働く保育者から見たり聞いたりした状況を機会があるごとに伝えるようにしています」
保育における「適切」と「不適切」を保育者と一緒に考える
保護者が安心して保育施設に子どもたちを預けられると同時に、保育者たちも生き生きと働くことのできる世の中をつくりたい。そうした思いから、大下准教授は乳児院での研修なども担当している。研修の主なテーマは「不適切な養育(保育)をしないために」。日本では、子ども家庭庁が主導して「不適切な保育」を防ぐためのガイドラインを定めている。しかし、自らの仕事に不適切な点がないのか、保育者本人が自覚することは非常に難しい。そこで、グループワークなどを実施し、幅広い目線を共有することが研修の目的なのだという。
「毎日のように忙しく働く保育者の方々には、自分の仕事を振り返る時間が得られないという実情があります。そこで、研修をひとつのきっかけと捉えて欲しいと考えています。自分では適切だと思っている行為でも、他の人の意見を聞くと別の受け取り方があると知ることができる。それによって、今後の改善点を自覚できるようになるのです」
保育所の仕事に行きたくないと思ったことが一度もなかった
子どもたちへの指導の際、少し語調が強くなったり、声が大きくなったりする。このように、自分では何気なく行っている行為について、同僚たちから意見をもらうことができる機会は意外にも少ない。研修を通じたチームでの働きかけが、小さな「不適切な保育」の芽を摘み取ることにつながっていくのだという。子どもたちの命を守るという意味では責任重大な厳しい仕事であることに間違いはないが、それでも保育者は魅力的な職業だと大下准教授は語る。その背景には、保育士としてやりがいを持って過ごした日々があった。
「保育士として働いていた頃、仕事に行きたくないと思ったことが一度もなかったんです。毎日のように家族でもない子どもたちから『大好き』と言ってもらえたり、抱きしめてもらえたりする。また、私が20歳の時に受け持った1歳の子どもが、30年以上経った現在でも大学まで会いに来てくれることもありました。そんな仕事ってほかにはありませんよね。このようにマイナスの部分だけでなく、プラスの部分もきちんと伝えられるような存在になりたいと考えています」
保育士として働くなかで現れた葛藤と新たな道
保育所の子どもたちの距離感に心地よさを覚えた
大下准教授が現在の道に進んだきっかけは、先に保育士として働き始めた姉の影響だった。楽しそうに仕事に出かける姉の姿を見て、自分にとっても身近な仕事であると感じるようになったのだという。短期大学時代には姉の勤務先の保育所でアルバイトするように。1日のなかで何度も心から笑えるような出来事が起こる仕事に魅力を感じ、自らも保育士になりたいという思いを強くした。
「実習では卒園した幼稚園にも行きましたが、幼稚園の子どもたちは時間がくるとすぐに帰ってしまうんですよね。実習の後半になってもほとんど話したことのない子どももいて、それが実習生でありながらすごく寂しかったんです。それが保育所での実習では、初めて会う子どもが膝の上に乗ってきたりと、子どもたちのほうからどんどん距離を縮めてくれたのが心地よくて。そこで、保育所の子どもたちと過ごしたいと感じました」
「自分は不誠実なのではないか」と自問自答するように
希望が叶い、公立保育所でキャリアをスタートさせた大下准教授。子どもたちから「先生」と呼ばれるようになってからも現場で学ぶべきことが無数にあり、仕事の奥深さとやりがいを実感していたという。しかし、保育士として5年目を迎えた時、「自分は今のままでいいのか」という自問自答を繰り返すようになった。
「保護者の方への対応や障がいのある子どもたちとの向き合い方など、保育士は学び続けることが非常に重要です。それにもかかわらず、自分は保育士になることを簡単に決めすぎてしまったのではないかと考えるようになりました。楽しそうだったからという理由で保育士になったことが、慕ってくれている子どもたちや保護者の方に対して不誠実なのではないかと感じたんです。そこで再考し、保育士という立場を一度離れてみようと思いました」
保育者が希望を持って働ける未来を目指し、大学での学び直しを決意
保育というものを改めて学び直したい。そのためには公立の保育所だけでなく、さまざまな環境で保育に関わることが必要だと感じた。公立の保育所を離れたのち、デイサービスの病児保育施設を経て、小児科附属の私立保育所で勤務することに。そこで提示されたのは「主任として雇いたい」という20代の大下准教授にとっては非常にいい条件だった。この私立保育所で主任として働いた経験が、大学で保育者の育成に貢献するひとつのきっかけとなる。
「小児科附属の保育所という特殊な環境のなかで悩みや葛藤を抱える保育者を指導する立場になった時、これまでの自分の数年の経験や理想だけでは太刀打ちできないことを強く実感しました。実際に辞めてしまう保育者もいる状況で、自分がもっと早く気づくことができれば防ぐことができたのではないかと考えることもありました。保育者たちが希望を持って働くにはどうすればいいのか。それが私にとっての大きな課題になったんです」
保育者の仕事を捉え直そうと、大学の教育学科で学ぶことを決意した大下准教授。同時に、小学校のことを理解しておくことが保育で役に立つと考え、在学中に小学校教諭免許を取得。小学校での教育実習にも取り組んだことで、教育や保育の奥深さと難しさに加え、その魅力を再確認したという。その後、さらに学びを深めるために大学院へ進学。それと並行して地域子育て支援センターでも働き始めた。
「地域子育て支援センターが保育所と異なるのは、子どもと保護者が一緒に来て、一緒に帰っていくという点です。単純に遊びにくる親子もいれば、悩みを相談したいと思っている保護者の方もいるんです。私たち職員は子どもとだけ遊ぶのではなく、保護者と子どもを共に見守ります。その中で保護者の方と会話し、求めている情報があれば提供するような仕事をしていました。子どもたちや保育者はもちろんのこと、保護者の方と交流しながら、支援の必要性を目の当たりにする機会が得られたことは、保育者養成に関わるうえで貴重な経験だったと感じています」
大変さよりもやりがいが上回る職業であることを伝えていきたい
保育・教育関係者の研究会にも積極的に参加
保育に関わる幅広い経験を糧に、健康福祉学群で次世代の保育者養成に尽力する現在。教師や保育士、学童保育指導員などで構成される研究団体「子どもの遊びと手の労働研究会(通称:手労研〔てろうけん〕)」にも積極的に参加している。保育所をはじめとする施設には共通する休みがなく、大勢で研修を受けられるチャンスが少ない。そこで、複数の支部やサークルに分かれて定期的に保育・教育関係者の知見を共有することが「手労研」では積み重ねられている。
「手労研では、子どもたちに関わるさまざまな職業の方々が交流をしたり、保育・教育における課題点について意見交換などを行なっています。私が初めて参加した時も、それぞれの立場から昼夜を問わず、熱い討論が行なわれていました。年に一度、全国大会という最大規模の学びの場があるのですが、最近では私の教え子たちも参加してくれることがあります。卒業後も現場でさまざまな経験を積み、実感を伴いながら子どもの様子を語る姿を見て、教え子たちの将来がさらに楽しみになりましたね」
保育現場でしか知ることのできない魅力がある
保育者として立派に活躍する教え子たちが数多くいる一方で、ひとつの判断ミスが「不適切な保育」につながってしまう状況への不安は依然として高まっている。覚悟がなければ続けられない仕事であるため、高校の教員も生徒を気軽に応援できないという葛藤があるという。それでも、大下准教授は「大変さよりもやりがいが上回る仕事」であると強く信じている。保育者養成の立場からその魅力を発信することが目標だ。
「もちろん不安な気持ちもあると思いますが、実際に子どもたちや保育者の方々と触れ合って初めてわかる魅力があります。さまざまな視点を提示することで不適切な保育を未然に防ぎ、魅力あふれる側面もしっかりと伝えていくことが、今後の私の役割だと考えています」
保育現場の理想と現実のギャップにどう向き合うか──。教科書だけでは学べないリアルな課題に向き合いながら、それでもなお保育の魅力を次世代に伝える大下准教授の取り組みは続いていく。
教員紹介
Profile
大下 純准教授
Jun Ohsita
アメリカ合衆国カリフォルニア州生まれ。1991年に学校法人クラーク学園 和泉短期大学 児童福祉科を卒業。川崎市公務員として公立保育所に勤務。その後、乳幼児健康支援デイサービスセンターで非常勤保育士、小児科附属の私立保育所で主任保育士として勤務。2006年に大東文化大学 文学部 教育学科を卒業、2008年には千葉大学大学院 教育学研究科 カリキュラム開発専攻 修士課程を修了。学校法人クラーク学園 和泉短期大学 児童福祉学科での勤務を経て現職に至る。
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