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約10年にわたって球団経営に携わる
研究者の道を歩み始めたとき、プロ野球再編問題(2004)が起こった
2004年6月13日、日本経済新聞が近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併交渉をスクープした。同日、両球団は構想の事実を認め、半月後には当時の西武ライオンズ・堤義明オーナーが「第2の合併」構想に言及する。チーム数削減による1リーグ化の動きが一気に表面化した。
プロ野球は、セ・リーグとパ・リーグの各6球団、計12球団で構成されている。しかし当時、興行の中心は読売ジャイアンツ(以下、巨人)戦であり、地上波中継も巨人戦が圧倒的多数を占めていた。セ・リーグの球団は巨人との対戦を通じてテレビ露出や観客動員の恩恵を受けられた一方、パ・リーグは日本シリーズまで巨人と対戦できず、露出機会は乏しい。観客動員の低迷とそれに伴う収入不足に悩む球団が多く、赤字経営が常態化していた。
近鉄バファローズも例外ではなかった。親会社の近畿日本鉄道は経営不振に直面し、観客数の伸び悩みや、本拠地・藤井寺球場のアクセス不便さも重なり、慢性的な赤字に苦しんでいた。こうした背景からオリックスとの合併案が浮上したのだ。同様の事情は他のパ・リーグ球団にも及び、「巨人戦による露出確保」のため、10球団による1リーグ制構想が現実味を帯びていった。
「近畿日本鉄道は公共性の高い企業です。赤字球団を抱えること自体、株主や利用者から疑問視されるのは当然でした。運賃値上げの前に球団整理を、という声も強かった。他のパ・リーグ球団でも、『広告宣伝費』名目での球団運営が正当か、根本的な議論が起きていたのです」
そう語るのは、健康福祉学群の小林至教授だ。2004年当時、小林教授は30代前半、研究者として歩み始めたばかりだったが、事態の核心を知るべく、巨人のオーナーだった渡邉恒雄氏に長文の手紙を送り、直接取材を申し入れた。球界再編の動揺をまとめた著作を構想していたからだ。
「想いが届いたのか、渡邉さんは取材に応じてくれました。実際にお会いすると、卓越した洞察力に裏打ちされた言葉の数々に、思わず引き込まれました。そして、その口からは『プロ野球は徹底した自由競争のなかで強さを追求すべきだ』という明快な主張が語られ、既存の運営方式では限界が来ていることを、非常に早い段階から見抜いていました」
選手会のストライキや楽天の新規参入で12球団・2リーグ制は維持される
球団数の削減は、選手にとっては雇用問題そのものである。チームが減れば契約できる選手枠も減り、多くの選手が職を失うことになる。この危機感から、選手会は日本プロ野球史上初となるストライキを決行した。
当初、1リーグ制を推していたのは主にパ・リーグの球団だったが、巨人がそれを受け入れるかは不透明だった。ところが、阪神・中日・広島など、巨人以外のセ・リーグ球団が選手会に同調する。背景には、巨人戦の試合数が減ることへの経営的懸念もあった。また、報道で渡邉恒雄氏の「たかが選手……」という発言が広まり、世間の印象は経営者側に不利に傾く。ファンの多くが選手を支持し、世論は選手会の後押しとなった。最終的に、オーナー会議で近鉄に代わる楽天の新規参入が承認され、12球団・2リーグ制は維持されることになった。
一方その頃、福岡ダイエーホークス(パ・リーグ)を保有していたダイエー本社は、経営再建のため、産業再生機構による支援が正式に決定していた。
福岡ソフトバンクホークスの取締役に就任
1980年代末のバブル景気は、銀行融資に依存した過剰債務構造の上に成り立ち、不動産や株式価格は期待先行で高騰した。日本銀行は1989年から1990年にかけて公定歩合を引き上げ、金融引き締めに踏み切った。資金調達コストの上昇を背景に株価は1990年に急落し、地価も91年以降本格的に下落。多くの企業が債務返済に行き詰まり、不良債権問題が深刻化した。
バブル崩壊から10年以上を経ても問題は解決せず、政府は2003年に「産業再生機構」を設立。再建可能な企業の支援を目的に、主に私的整理を通じて再生を進めた。その象徴的な案件の一つが、巨額の不良債権を抱えていたダイエーだった。
経営再建を迫られていたダイエーは、ついに球団を手放すことを決断。新たなオーナーとして名乗りを上げたのがソフトバンクグループだった。買収成立後、福岡ソフトバンクホークスのオーナーに就任した孫正義氏は、小林教授が渡邉恒雄氏を取材した書籍を手に取ってくれたという。そこから縁がつながり、孫氏から声をかけてもらい、小林教授はソフトバンクの取締役として迎えられることになった。
「ソフトバンクにとって、球団経営は未知の領域でした。プロ野球ビジネスをどう設計し、チケット販売やコンテンツの価値をどう高めるか。そして、ビジネスの根幹をなす権利関係をどう整理し活用するか。学術的な知見と実務を結びつけられる人材を求めていたのだと思います。パ・リーグは当時、赤字経営が常態化していた。その渦中に飛び込み、改革の先頭に立つ覚悟で臨みました」
リーグとしてのブランドを構築する重要性
地域に根ざしたビジネスモデルへの転換
小林教授がソフトバンクで目指したのは、それまでの巨人一強、地上波放送中心のビジネスモデルではなく、地域に根ざした健全なビジネスモデルを展開することだった。地上波中継が減少し、野球がお茶の間から姿を消しつつあった時代、ビジネスの舞台はスタジアムへと移った。地域の野球ファンに足を運んでもらい、ライブエンターテインメントとして試合を楽しんでもらう。その価値を高めることこそが、球団経営の鍵だと考えた。
「その発想の源にあったのは、Jリーグの存在です。Jリーグは、ある意味でプロ野球のアンチテーゼとして誕生し、地域密着型クラブ運営の重要性を強く印象づけました。一方で、ダイエーはすでにその路線を先駆的に実践していたのです。1989年、南海ホークスが福岡に移転し、福岡ダイエーホークスとして活動を開始。地域密着型経営を積極的に展開していました。その姿勢を引き継ぐことが、私の第一の役割でした」
やがて、パ・リーグのみならずセ・リーグの各球団も、地域密着型経営へ舵を切っていく。巨人一強モデルの終焉がその流れを後押しした面も大きい。それから20年、プロ野球は地域と共に歩むビジネスモデルへと転換し、多くの球団が経営を改善。いまや観客動員数は史上最高を記録し、ほぼすべての球団が黒字化を達成している。その出発点はやはり2004年の球界再編問題にあると小林教授は語る。
福岡ソフトバンクホークスでさまざまな改革を推進
小林教授は、三軍制の導入や成果報酬型年俸制度など、数々の改革を福岡ソフトバンクホークスで推進した。特に三軍制の導入は球界初の試みであり、MLB(メジャーリーグベースボール)では六軍制が一般的であることを踏まえた育成強化策だった。
「日本でも同様の仕組みを望む声はありましたが、それまではコーチなどの人材不足やアマチュア野球界との関係への配慮から実現していなかったのです。しかし、2005年に育成選手制度が導入され、将来を見据えた『育成契約』の選手を獲得できるようになったこと、さらに社会人野球のチーム数が減少したことも追い風となり、三軍制が現実のものとなりました。社会人野球は1980年代の約230チームから、2000年代には約80チームにまで減り、その受け皿として育成枠が期待されたのです」
一方、年俸制度改革では、従来の年功序列的な賃金構造に切り込み、実績よりも現在のパフォーマンスを重視する成果報酬型へ移行。米国のプロスポーツでは成績が低下すれば実績ある選手でも即座に契約を解除するが、日本のプロ野球ではベテランの年俸を下げることに強い抵抗があった。小林教授はその壁を崩すべく改革を進め、現場からの反発も受けながらも着実に実現していった。
さらに小林教授は、パ・リーグ共同事業会社であるパシフィックリーグマーケティングの初代執行役員として、その黎明期の経営を支えた。
「パ・リーグ全体でのネット配信事業を、各球団と調整しながら立ち上げました。リーグという枠組みにスポンサーや放送を呼び込み、価値を高めることが不可欠だったからです。その運営を担うのがパシフィックリーグマーケティングです。球団ごとのビジネスモデルではスケールアップしていかないことは明らかで、リーグ全体のブランドを構築する必要がありました」
現在、パ・リーグとしての運用は順調に展開されているものの、欧米のように放送権料が主要収入源になるには至っていないと小林教授は指摘する。いまだ道半ばだという。
「インターネット配信やストリーミングのプラットフォームが増えてきた今、ここには大きな可能性がありますし、セ・リーグも含めたプロ野球としてどのように運営していくかも考えなければいけません」
さらに小林教授は、侍ジャパンの常設化にも尽力した。WBC創設を契機に、「4年に一度の結成と解散」ではなく、通年でブランドを活用し、ビジネスチャンスとして展開するべきだと訴えた。選手にも球界全体にも継続的な利益をもたらすことを目指し、各球団との協議を重ねながら実現へと導いた。
東大卒のプロ野球選手
アメリカ留学を経て研究者へ
野球がコンテンツの王様の時代
小林教授も、かつてはひとりの野球少年だった。小学1年生のとき、地域のスポーツ少年団に入り、野球を始めた。1970年代は、子どもたちの多くが「とりあえず野球」という時代だった。
「当時、野球はまさに“コンテンツの王様”でした。放送されるのはほとんどが巨人戦でしたが、プロ野球中継の平均視聴率は25%が当たり前。家族揃って居間で巨人戦を見るのが、全国の家庭にとって日常だったのです」
人気が高い分、アンチ巨人も少なくなかった。東京生まれの小林教授も、巨人嫌いの父親の影響で阪神ファンとして育ったという。中学時代は野球部がなく一度競技から離れたが、高校で再び野球部に所属。外野手兼控え投手として活動した。しかし最後までレギュラーには届かず、3年の夏も登板機会のないまま高校野球を終える。
「それでも、本気で野球を続けたいという思いは消えませんでした。東京六大学のなかでも、東大なら自分にもレギュラーの可能性があるのではないかと考え、一浪して進学し、野球部に入部しました。実際、東大野球部は六大学の中で常に厳しい戦いを強いられており、実力で勝負したい選手の多くは他大学を目指します。そのためチームはどうしても劣勢を余儀なくされていましたが、だからこそ、挑戦する意義の大きい環境でもありました。」
小林教授が3年次のとき、東京大学野球部は通算199勝に到達し、「あと1勝で200勝」という節目に全国から注目を集めることになる。しかし、その1勝が遠かった。練習場には連日のようにマスコミが訪れ、NHKは『負け続けた男たち・東大野球部』という特集番組まで制作した。
「3年次は、練習も試合も常にNHKのカメラがついて回りました。4年次になると今度はテレビ朝日の『ニュースステーション』が1年間密着するドキュメンタリー企画が始まりました」
200勝の壁は厚く、結果的に東大は70連敗を喫する。小林教授自身も投手として39試合に登板しながら、0勝12敗という成績に終わった。なぜ勝てないのか、悩み続ける日々だったという。
史上3人目となる東大卒プロ野球選手
大学卒業を控えた小林教授は、「なんとかして野球を続けたい」という思いを抱いていた。目標はプロ入り。野球を志す者にとって究極の夢である。そんな折、テレビ朝日の『ニュースステーション』のスタッフに「プロ野球選手として挑戦できる可能性はないだろうか」と相談した。するとその話がロッテ関係者に伝わり、当時の金田正一監督の耳に届いた。監督は「そんなに野球が好きなら入団テストを受けてみろ」と声をかけてくれた。
「それがマスメディアに大きく取り上げられ、NHKの夜7時のニュースでも報じられました。バブル期の勢いが残る1990年代初頭、日本企業は世界の時価総額ランキングの上位を独占していました。東大生であれば一流企業に就職する道はいくらでもあったのに、あえて先行き不透明なプロ野球に飛び込むという選択が、時代の価値観との対比で面白がられたのだと思います」
入団テスト当日、小林教授の挑戦は大きな注目を集め、スポーツ紙各紙の一面を飾った。初日はロッテ首脳陣の前で36球、翌日は室内ブルペンでストレートやカーブ、シンカー、フォークを含む34球を披露。しかし、小林教授の父親は猛反対した。「東大で一勝もできなかった人間が、プロで通用するはずがない。マスコミに踊らされているだけだ」と忠告されたという。
それでも小林教授にとってプロ入りは夢だった。「せっかく巡ってきたチャンスを逃すわけにはいかない。大企業への就職よりも野球選手になることに価値がある」と信じ、挑戦を貫いた。そして1991年、ドラフト8位で千葉ロッテマリーンズから指名を受け、史上3人目の東大卒プロ野球選手となった。
「実際に飛び込んだプロの世界は、想像以上に厳しいものでした。当時の一軍登録枠は25人、その予備軍が約15人。計40人に入らなければチャンスは巡ってこない状況でした。二軍は一軍の調整や有望株の育成が中心で、それ以外の選手には十分な機会が与えられない。毎年新戦力も入ってくるので、そこに食い込めないとすぐに入れ替えの対象になる。実力がすべての世界でした」
この経験は、後に福岡ソフトバンクホークス経営陣として「三軍制」を導入するきっかけにもなった。二軍時代、登板機会が少なかった自身の経験から「一軍に届かない選手にも成長の場を与えたい」と考えたのだ。それがチームの強化にもつながるはずだ、と。
小林教授は2年間で一軍登板の機会を得られず、二軍で26試合に登板し、0勝2敗。1993年オフ、ロッテから自由契約を言い渡され、現役を引退した。
アメリカ留学、そしてスポーツビジネス研究の道へ
25歳のとき、小林教授は人生の岐路に立たされていた。プロ野球を引退した後、これからどう生きていけばいいのか。迷いながら多くの人に相談するなかで、アメリカ留学という選択肢に行き着いたという。
「コロンビア大学で経営学修士号(MBA)を取得しました。もっとも当時はスポーツビジネスを学ぼうという明確な動機ではなく、多くの方から『MBAを取得しておけば必ず将来のキャリアに役立つ』と助言をいただき、それを受けてのことでした。修了後は、そのままアメリカに残り、フロリダ州のケーブルテレビ局『ザ・ゴルフ・チャンネル』に就職しました。ゴルフ専門チャンネルとして24時間放送を行い、ちょうど日本語放送を始めようとしていた時期だったのです」
英語と日本語の双方に通じた小林教授は、通訳や翻訳を担う人材として重宝されることになった。最初は一時的な経験のつもりだったが、気づけば7年もアメリカに滞在していた。引退した1993年から2000年ごろまで、アメリカ生活が続いたという。
帰国後、当時の江戸川大学学長だった太田次郎先生から声をかけられ、江戸川大学に着任。教員として経営学を講じる一方で、徐々にスポーツビジネスの研究に取り組むようになる。研究者としての基盤を築きながら、メディアでのコメンテーター活動や執筆も並行して続けていた。その矢先、2004年に「プロ野球再編問題」が勃発した。
日本のスポーツを
持続可能な成長産業へ
規模を拡大させ続ける世界のスポーツ産業
現在、桜美林大学でスポーツビジネス研究を続けている小林教授。世界のスポーツ産業は近年著しい成長を遂げているという。実際、2023年の世界スポーツ産業市場規模は4,849億ドル(約73兆円)に達しており、今後10年間で1.8倍に拡大し、8,626億ドル(約129兆円)規模になると予測されている。しかし、日本のスポーツ興行ビジネスは、依然として世界の潮流から大きく後れを取っていると小林教授は指摘する。
「野茂英雄がMLBにデビューした1995年当時、NPB(日本プロ野球)の1球団平均売上は約75億円(推定)で、MLBの50億円を上回っていました。それから四半世紀後、2024年時点でNPBの球団平均売上は約180億円(推定)へと、成長してはいるものの、MLBは約550億円にも拡大。両者の差は大きく広がっています」
サッカーでも同様だ。2024年度、Jリーグ全クラブの売上高合計は過去最高の1,649億円を記録した。しかし、1992年に創設された英国プレミアリーグは、同じく90年代にはJリーグと肩を並べる規模だったものの、2022-2023年シーズンには約1兆1,500億円に達し、7倍以上の差をつけられている。
「スポーツ興行ビジネスの本質は、権利の換金にあります。観戦方法は、スタジアムだけでなく、テレビ放送、インターネット配信、ラジオ、さらにはPPV(ペイ・パー・ビュー)やストリーミングサービスまで多様化しています。そして、チケット収入、放映権収入、スポンサー収入、グッズ販売などの収益によって、スポーツ産業は形成されています」
欧米の市場は、規制緩和を通じて自由競争を促し、スポーツ産業を成長させてきた。たとえば、アメリカではテレビ視聴が有料で、FOXやESPN、CNN、MTVといった多様な専門チャンネルが発展。ESPNの売上は日本の地上波放送局の8倍以上に達し、MLBの放送権料は約6,000億円規模にまで膨らんでいる。一方、日本はNHKと在京キー局による「地上波無料放送」の体制が続き、競争が生まれにくい。NPBの放送権料は現在も推定500億円程度にとどまっている。
「ただし、日本にも新しい潮流が生まれつつあります。2022年のワールドカップはAbema TV(現: ABEMA)が配信し、格闘技ではLeminoなどが参入しています。ネット配信事業者が本格的にスポーツ中継に取り組むことで、ようやく変化の兆しが見え始めています。今後は、この分野の成長に大いに期待したいですね」
世界のスポーツ産業の中核はスポーツ・ベッティングになりつつある!?
近年、スポーツ産業の成長を牽引しているのが「スポーツ・ベッティング」だ。その名の通り、サッカーや野球、バスケットボール、テニス、アメリカンフットボールなど、あらゆる競技を対象に行われる賭けで、メニューは多岐にわたる。サッカーなら「イエローカードの枚数」「最初の得点者」など、試合中のほぼすべてのアクションが対象になる。通信環境の高速化も追い風となり、スマートフォンを使った「ライブ・ベッティング」も急速に浸透。たとえば野球の試合中に、ブックメーカーのアプリ上で「大谷翔平の次打席の結果」がオッズ付きで通知され、観戦しながら即座に賭けられる仕組みが広がっている。
「コンテンツ価値という観点からみれば、その効果は明らかです。NFL公式戦を対象にした調査によると、ベッティング参加者の試合視聴時間は非参加者の2倍。ライブ・ベッティング利用者は1試合につき平均45回も賭けを行っています。さらに、ブックメーカーのテレビCMは公序良俗の観点から、1試合3分(30秒×6本)までと制限されていますが、それでも全枠が完売し、年間1,000億円を超える額が放送局に流れ込んでいます。こうした数字が示すように、スポーツ・ベッティングは確実にスポーツのコンテンツ価値の向上に寄与していると言えるでしょう」
スポーツ・ベッティングはイノベーションの宝庫だ。主戦場はサイバー空間であり、映像配信、データ解析、セキュリティ、トレーサビリティなど高度な技術が不可欠。巨大市場を背景にリスクマネーも潤沢で、ブックメーカー大手のドラフトキングスやデータ解析最大手のスポートレーダーは相次いで株式上場を果たし、いずれも時価総額は1兆円を突破しているという。
「もっとも、この分野が一朝一夕に日本へ根付くわけではありません。スポーツくじ導入やIR整備の際も賛否が渦巻きました。しかし日本もいずれ、この潮流に乗るか反るかの判断を迫られるでしょう。少なくとも、知らぬ存ぜぬで済まされないことだけは確かです」
日本はどのようなエコシステムを構築できるか
グローバル化が加速するなかで、日本のスポーツビジネスはどのような立ち位置を確立できるのか。その模索が続いている。欧米では既に成熟したビジネスモデルが確立しているが、日本では仕組みづくりが十分に進んでいない。特に野球はその典型だという。2004年の再編問題を契機に地域密着型への転換は進んだものの、「リーグとしていかに運営していくか」という根本的な課題にはいまだ十分に取り組めていない。
「重要なのは、エコシステムを確立することです。スポーツビジネスの本質は権利ビジネスにあります。放映権やスポンサーシップ、グッズ販売など、すべての権利を一元的に管理し、それをパッケージ化した上で戦略的に運用する。この仕組みをまずリーグ単位で整備しなければなりません。欧米ではこうした仕組みが高度に洗練されていますが、日本では十分に機能していないのが現実です。野球に関しては日本独自の内輪の論理で済まされてきた部分もあるでしょう。しかし、その発想のままでは時代に取り残されてしまいます」
選手にとってもファンにとっても質の高いスポーツ体験を実現するには、まず市場を広げ、国内外から投資を呼び込むことが欠かせない。その成果として資金やリソースが持続的に循環し、スポーツが産業として潤いを増す。スポーツを持続可能な成長産業へと導くために、小林教授は日本のスポーツビジネスの未来を見据えて研究を続けている。
教員紹介
Profile
小林 至教授
Itaru Kobayashi
1968年生まれ。神奈川県出身。ロッテオリオンズの練習生を経て、91年、千葉ロッテマリーンズにドラフト8位指名を受けて入団。史上3人目の東大卒プロ野球選手となる。退団後、94年から7年間、アメリカに在住。その間、コロンビア大学で経営学修士号(MBA)を取得。2002年より江戸川大学助教授(06年から20年まで教授)。2005年から14年まで福岡ソフトバンクホークス取締役を兼任。大学スポーツ協会(UNIVAS)理事、一般社団法人スポーツマネジメント通訳協会会長。博士(スポーツ科学)
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