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中国の経済・文化の開放に合わせて
中国近現代史をアップデートする
日中民間経済外交の歴史から現代を見る
米中貿易摩擦が激化する昨今、日本と中国の経済的な関係について気になる人も多いだろう。1972年の日中国交正常化以降、日本と中国は、鉄鋼、自動車、エネルギーなどさまざまなビジネス領域で、強い協力関係を構築してきた。2020年代に入ってもそれは変わらず、政治とは異なる側面で活発なビジネス交流が続いている。
今後の日中関係を考える上で、日本人が知っておくべきことがある。それは「日中間の民間外交史」だ。特に、1972年の日中国交正常化以前にも民間レベルで日中の経済交流が盛んに行われていたことは、あまり知られていない。グローバル・コミュニケーション学群の李恩民教授は、第2次大戦後の日中民間経済外交について、幅広い一次史料とフィールドワークで読み解く研究に取り組んできた。
「専門は中国の近現代史です。アヘン戦争が勃発した1840年から1919年の五・四運動までが中国近代史、それ以降が中国現代史になります。ただ、私が学部生だった1970年代後半から1980年代初期の頃は、大学に『中国現代史』という科目はなく、代わりに教えられたのは『中国共産党史』でした。そこで私は、入手できる資料や独自の調査によって中国近現代史の研究をスタートしました。手探り状態のまま、大学院博士課程まで中国近現代史研究を続けた後、一橋大学大学院に留学し、最終的に日本で研究者となり、現在に至ります」
きっかけは自宅で見つけた中華民国時代の教科書
李教授が、歴史に興味を持ったのは、高校時代に自宅の小屋で見つけた1冊の古い本がきっかけだった。埃をかぶった木製の箱から出てきたのは、表紙が剥がされ、書名もわからなくなった本。そこには、当時学校で学んでいた中国史とはまったく異なる史実が書かれており、心が騒いだ。後から調べるとそれは中華民国(1912〜1949年)時代の歴史教科書だった。そのときから、史料・史実を自分の目で追って、歴史の真相に迫ることが将来の夢となった。
高校卒業後、1979年に中国山西省の山西師範大学歴史学部に進学し、中国史の研究をスタートする。ここから一次史料にあたりながら、教科書には載っていない史実に迫る歴史研究手法を模索する日々が始まる。
「学部時代は、キリスト宣教師や洋務運動・維新運動などについての原典資料を丹念に読み、西洋文化の舶来、それによってもたらされた社会思潮の変遷などについて研究していました」

中国の科学技術近代化の歴史を修士論文としてまとめる
学部卒業後、1985年に天津市にある南開大学大学院に進学し、本格的に中国近代史の研究にとりかかる。時代は1980年代後半、それまで海外との交流を厳しく制限していた中国共産党イデオロギーの呪縛が徐々に解かれ、各国との経済・文化交流が活発になっていた。李教授は、ベンジャミン・シュウォルツ(Benjamin Schwartz)教授の『In Search of Wealth and Power: Yen Fu and the West (中国の近代化と知識人:厳復と西洋)』という書籍と出合い、この主要部分を中国語に翻訳する。さらに、科学技術領域の近代的な専門用語が19世紀末の中国にどのように伝来し、翻訳され、広く認知されていったのかを調べ、修士論文として仕上げた。
「日清戦争から日露戦争までの間に創刊された数千冊に及ぶ、『時務報』『湘報』『新民叢報』『科学世界』『知新報』『清議報』などを図書館の書庫で読み込み、科学技術近代化の歴史を論文としてまとめました。入念に一次史料を調べ、情報を集める手法は修士課程時代に鍛えられました」
日中国交正常化以前にも経済界の民間外交は盛んだった
1990年代に入ると、中国では開放政策がさらに進み、日中両国の経済・文化交流も盛んになっていた。この頃、南開大学大学院の博士課程に進んでいた李教授が博士論文のテーマとして選んだのが「日中民間外交」。日本を含む海外の史料も入手できるようになり、興味は中国現代史へと移っていた。
調査にあたり、中国外交部、日本外務省、さらに民間交流機関などで歴史的史料を幅広く収集したほか、日中両国の外交交渉と経済貿易に携わった政治家・外交官・民間人にインタビューを行った。その対象者は衆議院議員、参議院議員、日中協会理事長、日本国際貿易促進協会役員のほか、新日鉄や日揮といった企業の責任者までに及んだという。これまで断片的だった第二次大戦後の日中関係史を学術研究として確立した博士論文は、1997年に『中日民間経済外交 1945〜1972』として書籍化され、北京で出版された。
「1972年の日中国交正常化以前にも日本と中国は民間レベルで経済交流をしていました。1962年に廖承志(りょう しょうし)と高碕達之助による覚書に基づいた『LT貿易』などがよく知られています。この当時、断絶状態にあった日中間の貿易再開に尽力したのが、全日本空輸株式会社の社長だった岡崎嘉平太です。彼は、中国との協力関係なくして日本の平和はありえないという考えの持ち主で、1960年代に何度も訪中して、中華人民共和国の初代総理だった周恩来と友好関係を築きました。その周恩来は、1910年代に日本に留学していた経験があります。中国共産党の立ち上げメンバーである李漢俊(り かんしゅん)、陳独秀(ちん どくしゅう)、李大釗(り だいしょう)もその前後の日本留学組です。彼らは明治維新(1968年〜)から30年間で西洋式の近代化を実現した日本からそのノウハウを学ぼうと考えて留学し、日本で社会主義や共産主義と出合いました。一方で、台湾では「国父」と呼ばれる孫文は帝政の清政府を打倒するため日本に9年間亡命、多くの日本人の援助を受けて共和制の中華民国を創設しています。また長年にわたって中国国民党の指導者だった蒋介石も日本に留学しています。こういう話を日本の若い世代も知っておくべきだと思いますね」
財界人が活躍した「LT貿易」とは?
1972年の日中国交正常化前にあたる1962年11月に、日本と中華人民共和国の間で交わされた「日中長期総合貿易に関する覚書」に基づく貿易のことを指す。当時、両国間の正式な国交はなく、財界人が主体となり互いの連絡事務所を設置して、半官半民的に貿易を行っていた。LT貿易の「L」「T」は、覚書に署名した日本生まれの中国側代表・廖承志(りょう しょうし)と日本側代表・高碕達之助(元通商産業大臣)の頭文字をとったもの。LT貿易は1967年まで続き、1968年に「日中覚書貿易」と改められ、1972年に日中国交正常化を迎えることになる。

一橋大学大学院に留学し、
日中国交正常化後の民間外交で博士論文を執筆
日本人留学生の言葉が日本へ留学するきっかけに
南開大学大学院で博士課程に通っていた頃、李教授は歴史学部で講師をしていた。「近代中国の外交史」を英語で教えることになり、その授業に参加していた日本人留学生から受けた言葉が日本へ留学するきっかけになった。授業では、李教授が受けてきた中国の教育をもとに、西欧諸国による中国への侵略史として構成されていた。日本に対しても批判的な視座に立っており、それを意識することもなかったと振り返る。
「先生は日本に対する偏見を持っている。日本をもっと理解するべきだ。魯迅や周恩来総理も日本で学んで成長した。日中戦争下でも民間の文化交流は行われていた。先生はそれについてどう思うのか」
日本人留学生たちからの問いかけをきっかけに日本について深く理解する必要があると考えた李教授は、日本の国費留学生に応募を合格する。そして、中国・長春の東北師範大学にあった中国人赴日留学生予備学校で日本語の特訓を受けた後、1992年に来日し、一橋大学大学院社会学研究科に進学する。
新日鉄による上海宝山製鉄所建設の歴史的背景などを調査
一橋大学でも中国現代史の日中経済交流について研究を続けた。ここでの研究対象は、日中国交正常化後の1972〜1979年。日本企業が新たなフロンティアを求めて、中国進出に力を入れた背景を南開大学大学院時代と同様の手法で一次史料やフィールドワークを駆使して入念に調査した。その成果は、「転換期における中日関係の研究-政治と民間、政治とビジネスという視点から-(1972~1978) 」というタイトルの博士論文にまとめられた。
「例えば、1970年代に新日鉄(新日本製鐵株式会社)の社長を務めた稲山嘉寛は、財界人として、1960年代から日中経済交流に尽力してきました。新日鉄は、1979年に上海宝山製鉄所建設を受注し、プラント輸出という活路を見出しました。当時、鉄鋼業の合理化・多角化を進めていた新日鉄と文化大革命(1966〜1976)後の経済発展を目指した中国の思惑が一致したわけです。こうした巨大プロジェクトを実現したのが政府ではなく、民間だったのが注目すべき点です。私はこうしたリアルな歴史に興味があります」
最新の研究テーマは「日本・中国・韓国の歴史和解」
円卓会議「日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性」を開催
1999年に一橋大学大学院で社会学の博士号を取得した後、2003年に桜美林大学国際学部(当時)の准教授として着任し、現在に至る。現在の関心は「1979年以降の日中関係」。現在は日本の対中ODAの歴史とその役割の検証、中国の対外援助、韓国や台湾も含めた東アジアの現代史などにも研究テーマは広がっている。なかでも力を入れているのが、「日本・中国・韓国の歴史和解」の問題だ。
「2025年に第二次大戦が終わって80年を迎えますが、東アジアの大国である日本・中国・韓国は、いわゆる負の歴史問題を巡って、摩擦を繰り返しています。どうやって、国家と国家、国民と国民の間で和解を実現していくのかが大きな課題です。3国にはそれぞれの立場や主張があり、共通認識を持ちましょうといっても簡単にはいきません。ならばせめてお互いの主張を理解し合う努力が必要だと思うのです。そこで、私は日中韓それぞれで国史を研究している専門家が年に一度集まって、お互いの研究について理解し合う国際会議を各国の研究者と共同で開催しています」
これは、渥美国際交流財団関口グローバル研究会など民間団体の支援のもとで開催されている円卓会議「日本・中国・韓国における国史たちの対話の可能性」のことで、2024年で9回目を迎えたという。
「相手を説得する」のではなく「考えを共有する」
「相手を説得する」のではなく、お互いの研究成果を「共有する」ことを理念とし、これまでも歴史に関するさまざまなテーマを話し合ってきた。例えば、「蒙古襲来と13世紀モンゴル帝国のグローバル化」「19世紀東アジアにおける感染症の流行と社会的対応」「20世紀の戦争・植民地支配と和解はどのように語られてきたのか」などが過去のテーマで、参加者は各国で学んだ教育の視点で考えを述べるのだという。
「会議に参加するたびに、まだまだ知らない史実がたくさんあることに驚かされます。各国の歴史教科書、戦時中の映画などをさらに詳しく調べたいと思っています。研究者だけで『歴史和解』を実現することはできません。この動きを広げるには、政府やメディアの協力も必要です。日・中・韓には、それぞれの歴史があります。お互いの違いを理解しながら、主張を認め合える寛容さを持てる社会になればいいと思います」
教員紹介
Profile

李 恩民教授
Enmin Li
1961年、中国山西省生まれ。1996年 南開大学大学院で歴史学博士号、1999年 一橋大学大学院社会学研究科で社会学博士号を取得。2003年 桜美林大学国際学部准教授として着任、2008年に教授。2010~2020年公益財団法人渥美国際交流財団理事兼任、2012~2013年スタンフォード大学東アジア研究所Visiting Scholar。桜美林大学インターナショナル・インスティテュート長、グローバル・コミュニケーション学群学類長、学群長補佐(学系担当)などを歴任。2024年4月より学群長。 主な著書に『中日民間経済外交 1945~1972』(北京:人民出版社)、『転換期の中国・日本と台湾』(御茶の水書房・大平正芳記念賞受賞)などがある。ほかに英・中・日の翻訳書も多数手がけている。
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