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ホテル業界から研究者の道へ
バックパッカーで国内外を飛び回った学生時代
「私が大学生の頃は、時間さえあれば旅行に出かけていました。バックパックを背負って、アジア各国を訪れたり、アメリカを横断したり……。国内だと、電車やバスを乗り継いで松尾芭蕉の奥の細道のルートを巡る旅をしました」
そう語るのは、ビジネスマネジメント学群の五十嵐元一教授。大学では法学を専攻していたが、「卒業後は法律関係の仕事をしたい」とは考えていなかった。むしろ「どんな業界が自分に合うのか」と模索していた時期だったと当時を振り返る。就職活動では、これまで没頭してきた旅に携わる仕事がしたいと観光業界を志望。全日空エンタプライズ株式会社(※現IHG・ANA・ホテルズグループジャパン合同会社)に入社し、ホテルスタッフとして宿泊客のサービス対応に従事した。
「旅をしていると、ホテルや旅館、ゲストハウスなど、宿泊施設の雰囲気やサービスの違いを肌で感じます。その違いを生み出しているのが『ホスピタリティ』、つまり、人の思いやりなのではないかと考え、ホテルに就職する道を選びました」
ニューヨーク大学に社会人留学し、ホスピタリティ産業学を学ぶ
実際にホテルで働くなかで、ホテル業界におけるホスピタリティの奥深さ、そして自身の知識不足を実感したという五十嵐教授。ホスピタリティの本質やホテルマネジメントを学ぶため、1994年に休職してアメリカへ渡った。当時の日本には、観光やホスピタリティを体系的に学べる大学・学部が存在していなかったのだ。

「ニューヨーク大学の修士課程で2年間学び、ホスピタリティの歴史的背景からサービスの質に至るまで多角的に理解を深めることができました。特に印象的だったのは、ホスピタリティとは単なるサービスではなく、人の幸福をつくり出すものだという考え方 です。現地のホテルチェーンのセールスオフィスでインターンシップも経験し、日本とは異なるホテル運営の仕組みを学びました。例えば、アメリカでは 『従業員満足が高まれば、顧客満足も高まり、企業の業績も高まる』という考え方があり、この考えは、私の後の研究の大きな柱になりました」
実務経験を活かして研究と人材育成に注力
帰国後は留学先での学びを活かし、顧客対応だけでなくマネジメント業務にも携わっていた。転機となったのは、札幌国際大学に観光学部が新設され、専任講師として転職したことだった。
「これまでの実務経験を活かして、お世話になってきたホテル業界の未来に教育や研究の面から貢献したい。そんな思いから、新たに研究者としてのキャリアを踏み出すことを決めました」
札幌国際大学では教員をしながら、夜間に北海学園大学の大学院に通い経営学の博士号を取得。その後も観光学部の教授として、ホテルマネジメントや観光ホスピタリティに関する講義を担当し、ホスピタリティ業界で活躍する人材の育成に注力してきた。
ホスピタリティの視点を企業経営に応用する
ホスピタリティ・マネジメントとは?
五十嵐教授が専門とするのは、企業経営におけるホスピタリティ、言い換えれば「ホスピタリティ・マネジメント」だ。一般的に「ホスピタリティ」は、サービス提供者である従業員から顧客に向けたもてなしや心遣いがイメージされることが多い。一方で、ホスピタリティは必ずしも従業員から顧客へと向けられるものだけではないと五十嵐教授は考えている。
「従業員と顧客間だけでなく、従業員と企業、さらにいえば従業員同士の間で生まれる相互的な心遣いや思いやりもホスピタリティと表現できます。このようなホスピタリティ・マネジメントの向上が、企業の新たな価値創出につながるのです」
ホテル業界は 長時間労働・低賃金 というイメージが強く、実際にこのような状況が常態化している現場もある。その結果、人材の定着率は大きな課題になっている。これを解決するには、「従業員が働きやすい環境を整える」 ことが必要だ。つまりホスピタリティの観点を中核に据えた経営が重要になるという。
「研究を通じて、私はホスピタリティ産業における 『従業員満足度と顧客満足度の関係』 を明らかにしようとしています。従業員がやりがいを持って働ける環境があれば、自然とサービスの質も向上し、結果的に企業の利益につながると考えています」
インターナル・マーケティングからビジネスに好循環を生み出す

その具体的な手法の1つが、インターナル・マーケティングだ。これは、組織内部の従業員を「内部顧客」と捉え、組織の理念やサービス品質向上のための施策を展開する経営手法 である。この概念は、特に ホスピタリティ産業 において重要視されており、企業が顧客満足を高めるためには、まず従業員の満足度を向上させる必要があるという考え方に基づいている。
インターナル・マーケティングは、具体的に以下のような取り組みを指す。まずは「社内コミュニケーションの活性化」。経営陣と従業員のコミュニケーションを強化し、トップダウン型ではなく、ボトムアップの意見を反映させる仕組みを構築する。次が「評価・報酬制度の適正化」。インセンティブ制度の導入など適正な評価基準を設け、従業員の働きがいを高める。そして、「ワークエンゲージメントの向上施策」も重要だ。定期的に社内イベントを開催するなど、従業員の帰属意識を高めるための組織文化づくりも必要になるだろう。
「ホスピタリティ産業では、現場にいる従業員こそが、顧客と直接接している存在であり、サービス改善のヒントを持っています。そのため、ボトムアップの仕組みを取り入れることがインターナル・マーケティングの大きなポイントだと思っています」
従業員の満足度を向上させるには、条件面の改善も不可欠だ。日本のホテル料金は欧米と比べて、低価格に抑えられがちだと言われている。低価格競争に巻き込まれると、ホテル側も収益を確保しにくくなり、結果的に従業員の待遇改善が遅れるという悪循環が生まれる。これを打破するためには、『高付加価値なサービスを提供することで、適正な価格を設定する』 という視点が求められる。
近年はインバウンド旅行ブームもあり、日本国内のホテル料金も上昇しホテルの開業も相次いでいる。しかし、人材が慢性的に不足しているため、従業員の働き方や待遇の改善が望まれるという。
ホテルの新たな付加価値で、多様化する顧客ニーズに対応
昨今は多様化する宿泊客のニーズに応えるべく、新たな価値創造に取り組むホテルや旅館が増えている。例えば、仕事と休暇を組み合わせたワーケーションに特化した客室や、キッチンやランドリーを完備し、暮らすように泊まれるコンドミニアムタイプの客室が登場している。
一方で、かつての宿泊施設では飲料など取り出すと自動的に課金されるシステムの冷蔵庫が一般的だったが、利用率の低下からエンプティフリッジ(空の冷蔵庫)への切り替えも進んでいる。時代とともに変化する旅のスタイルや宿泊客の価値観に合わせた価値提供が求められるのは、ホテル業界の特色のひとつといえるだろう。
現場の知見と研究教育を融合させていく
ホスピタリティ業界発展のため、研究提言と人材育成に注力
五十嵐教授のこれまでの研究の背景には、ホテルをはじめとするホスピタリティ産業で働く人々の働きがいと社会的な地位向上への思いがある。今後も、ホスピタリティ産業における働きやすい環境づくりに向けた提言と、人材の育成に力を入れていくという。
「大学は教育研究機関であると同時に、企業と学生をつなぐ架け橋としての役割を担っています。企業と連携したインターンシップや実習を積極的に取り入れ、実践的な学びとキャリア形成を支援していきます」
現在ホテルの実態に迫るうえでも、企業ニーズに適合した人材育成を模索するうえでも欠かせないのが、フィールドワークだ。五十嵐教授は自身がプライベートで宿泊施設を利用する際も、ホテルの設備やサービスに目を光らせる。ホテルスタッフとの雑談から口コミ評価ではわからない実情が見えてくることも多いという。
「やはりスタッフと話していて、『働いていて楽しい』というコメントを聞けるとそのホテルは信用できますね。また、そのホテルの売りの部分、つまり魅力をしっかり語ってくれるスタッフがいると現場を大事にしているんだなと実感できます」
実務経験を持つ研究者として産学連携の可能性を探る
ホスピタリティ業界の発展には、産学連携の深化も重要だと五十嵐教授は指摘する。そのためには、研究調査と実務の垣根を低くし、双方向の情報共有を促進していくことが求められる。実際に学会をはじめとする研究発表の場では、観光や宿泊業界の関係者の出席が増加しつつあるという。こうした情報共有の機会によって、産学間の相互理解をさらに深めていくことが期待されている。
「昨今は私のように、業界経験者が実務経験を活かして研究者になるケースも増えています。実務経験に裏打ちされた知見を研究と人材育成の両面から還元し、業界への恩返しができたらと思っています」
教員紹介
Profile

五十嵐 元一教授
Genichi Igarashi
1968年山形県出身。学生時代を東京都で過ごし、大学卒業後はホテルスタッフとして勤務。ホスピタリティ・マネジメントを学ぶため1994年にニューヨークへ留学。札幌国際大学観光学部での講師経験をきっかけに研究職の道へ進み、2015年より現職。ホスピタリティ産業における顧客の創造や生産性の向上といった課題解決に向けた研究と、同産業で活躍する人材育成に尽力する。
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