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東アジア広域の経済統合が望ましい理由とは?
“中国一強”に代わる、
東アジア広域の政治経済の新たな可能性
2000年代以降、東アジア及び東南アジア地域を含む東アジア広域の経済において中国が圧倒的な存在感を放ってきた。しかし、中国のように政府が積極的に介入する独裁型の開発戦略は、政治的な要因が大きく関わることから不安定になりがちで、現時点で成功モデルとは断定できない。実際に、現在の中国経済にかつてのような勢いがないことからも、新たな開発戦略の模索が求められる。
経済学、開発経済学、国際経済関係、国際ビジネスのほか、東アジア及び東南アジア地域経済などを専門としているビジネスマネジメント学群のド マン ホーン教授は、「雁行型経済発展」という経済理論にもとづき、東アジア及び東南アジアの経済統合を加速させることが、同地域の国々にとって理想的な開発戦略なのではないかと語る。
「第二次世界大戦以降の日本や中国、韓国といった東アジア諸国は外国からの投資や国際貿易が盛んになったことで、経済発展を遂げてきました。これは一国だけではなく、他の国や地域と協力し合いながら最適な発展をしてきた証左です。よって東アジア広域の国々も他国と連携していくことが望ましいと考えられますが、アメリカやヨーロッパなどの西側諸国とは地理的な距離もあるうえに文化的にも大きく異なります。その点、東アジア広域の国々は地理的に距離が近く、文化的にも親和性があります。特にもともと漢字文化圏だった日本、中国、韓国、ベトナムの4ヶ国はさらに文化的に近く、経済統合しやすいと考えています」
雁行型経済発展とは?
雁行型経済発展とは、とりわけ東アジア広域の経済発展を説明する際に用いられる概念で、異なる生産要素のあらゆる産業が先行する国から追いかける国へと段階的に移転していく様子を、雁がV字型に隊列を組んで飛ぶ姿にたとえたものだ。具体的には先進国で開発された製品を新興国が輸入し、その後輸入されたものと同じ製品を自国でも生産・輸出するようになる。このプロセスが労働集約的な産業から資本さらに技術集約的な産業までの順で国や地域ごとに繰り返されることによって、地域一帯の経済発展が進むとされている。
ベトナムの経済開発戦略を模索するために
ドイモイ政策導入開始とともに
国民経済大学に入学
東南アジア・東アジア経済に精通しているド マン ホーン教授は、東アジア広域の中でもとりわけ、母国ベトナムの経済発展や裾野産業の形成に関する研究に注力してきた。
ベトナムの経済開発戦略について関心を持ち始めたのは、1986年のこと。この年は自身が国民経済大学の経営学部経営学科に入学した年であり、ドイモイ政策が導入された年でもある。同政策は社会主義体制を維持しつつ、市場経済や対外開放を進めるもので、国の政治や経済に関心のある一部の国民の間で注目を集めていた。国民経済大学に進学したド マン ホーン教授もその一人だったのである。
「ドイモイ政策が導入される以前のベトナムには厳しい情報規制が敷かれており、現在の北朝鮮や1980年代の中国と近しい環境にありました。1986年時点でも大学で学べるのはマルクス経済理論を中心とした社会主義圏の経済理論のみでしたが、他国の情報が少しずつ入ってきたことにより、計画経済には限界があると気づき、社会主義国以外の国の経済開発戦略も学ぶべきだと考える学生たちも増えてきたのです」
学部時代に「ベトナムのための経済開発戦略」というテーマを探究していたド マン ホーン教授は大学院に進学し、研究者としてのキャリアを築きたいという希望があった。しかし、当時のベトナムには大学院が存在せず、進学するには留学するしかなかった。また、留学先として許可されていたのは、ベルリンの壁崩壊前の東ドイツやスロバキアなどの社会主義圏の国家のみだったという。
さらに、それまでは計画経済制度の下、すべての大学生が入学から卒業まで国から生活費を支給され、卒業後も就職先が国に決められるが、ド マン ホーン教授が大学を卒業した1990年からはその計画経済制度が廃止され、大学卒業してから自ら就職活動をしなければならなかった。
卓越した語学力を武器に、
日本の国費留学生に選出
大学を卒業したド マン ホーン教授は、まず「日越技術協会」と呼ばれる組織にて日本語を学ぶことを選んだ。同協会は経済・経営やエンジニアリングを学んだ学生に生活費を支給しながら日本語を学んでもらい、日本企業がベトナムに進出した際に現地の人材を供給することを目的として、日本人が立ち上げたものだ。
1980年代後半はバブルで円高により、日系企業はとりわけ製造業の分野でタイやマレーシア、フィリピンといった東南アジア諸国に本格的に進出し始めていた。ベトナムは東南アジア諸国の中、人口規模が比較的多く、また日本と文化的にも近かったことから、期待感が非常に高まっていたのだという。
しかし、ド マン ホーン教授らが同協会にて日本語を1年間学んだ後も、ベトナムでは投資環境が良くなく、進出できる日本の企業は限られた。日系企業への就職の道が断たれたド マン ホーン教授は国有企業に一度就職するが、「せっかく身に付けた日本語の語学力を維持したい」と独学で勉強を続けていた。
その後、1992年に日本からベトナムへのODA提供の再開など、両国の外交の実質的な回復を機に、ベトナム国籍を持つ学生に向けた国費留学生制度も開始。ド マン ホーン教授は当初、ヨーロッパへの留学を視野に入れていたというが、日本語を学んでいたことから同制度に応募したところ、突出した語学力ゆえに国費留学生に選出された。1995年に来日後は大阪外国語大学にて半年間日本語を学び、1996年桜美林大学大学院国際政治経済学研究科国際関係専攻修士課程に進むことを決めた。

「当時の桜美林大学には、開発経済学の専門でベトナム出身の教授がいらっしゃいましたので、桜美林大学大学院の国際政治経済学研究科国際関係専攻修士課程に進むことにしたのです」
学部時代は計画経済理論しか学ぶことができなかったため、大学院入学後は市場経済理論をゼロから学び直したというド マン ホーン教授。「ベトナムに適した経済開発戦略」というかねてから抱いていた関心を掘り下げ、修士課程に次いで、同学の博士課程にも進んだ。
1996年から2001年までの6年間を国費留学生として学び、2003年までのその後の2年間を経て、博士課程を修了。その後は故郷に学びを還元したいと考え、半年ほど帰国した。しかし、2000年代になってもベトナムの状況は、留学前の1990年代と大きく変わってはおらず、市場経済はそれほど活性化されていなかった。
「自分のやりたいことはベトナムに帰ってもできない」と考えたド マン ホーン教授は日本に戻り、2004年から約2年間、日本学術振興会の外国人特別研究員として、早稲田大学で浦田秀次郎先生のもとで研究に従事。2008年からは桜美林大学とベトナム及びタイの大学との共同研究プロジェクトの立ち上げを機に、総合研究機構の講師を務めることとなり、2011年からは同学のビジネスマネジメント学群の講師に就任した。
1990年代なぜベトナムは他の東南アジア諸国よりも外資導入が遅れたのか?
ベトナムは1990年代東アジア広域の他の国々のような経済発展は望めなかった。一般的に開発途上国は所得水準が低く、貯蓄と投資比率が低いため自力で経済発展を図ることが難しい。よって、開発経済学の領域においては、外国企業に対して経済を自由化させ、経済・生産活動を回すことによって、国民の所得や購買力が増加され、経済状況が徐々に改善していくというのが途上国のオーソドックスな経済開発戦略とみなされる。しかし当時のベトナムの政府は外国資本の参入に慎重で、実質的に参入できる環境がなかなか整わなかったことなどから市場開放が遅れ、多くのチャンスを逃した。近隣諸国に大きく遅れをとった今、ベトナム単独で経済発展することは難しい。外国資本及び国内民間資本に対して自国の経済を完全に自由化し、東アジア広域の経済統合へ合流するのがベトナムの長期持続可能な経済発展の唯一の道なのである。
東アジア広域における国際政治経済を
中長期的に俯瞰して
東アジア広域において
日本がリーダーシップを取り戻すために
アジア地域の中でもとりわけ、出身国・ベトナムの経済発展や裾野産業の形成に関する研究に注力してきたド マン ホーン教授。1995年、30歳のときに来日して以来、研究者としてのキャリアを築いてきた日本での生活も今年で30年を数える。ベトナムで暮らした年数と、日本で暮らした年数がちょうど30年ずつになる節目を迎えた今、その関心は「ベトナムの開発戦略」から「東アジア広域における日本の立ち位置」に移りつつあるという。
「90年代までの日本は『雁行型経済発展』理論にもとづき、東アジア経済のリーダーとして地域全体をけん引してきました。しかし、90年代以降は国際政治の領域でも経済の領域でも徐々に衰退してしまい、現在は中国がトップに君臨しています。90年代中盤から30年間、日本に暮らしてきた者として、東アジア広域の政治・経済圏において日本が従来のリーダーシップを取り戻していくにはどうすればいいのかということを研究していきたいのです」
そもそもなぜ、90年代以降の日本は東アジア広域におけるリーダーの座から失墜してしまったのか。その理由の一つは、日本が東アジア広域の中堅国との付き合いをあまり重視してこなかったことにあるという。

「日本は、中国をはじめとした一定の人口規模のある東・東南アジアの国々の経済に真剣に向き合ってきませんでした。もしもグローバル化の初期(1990年代)から日本がベトナムやフィリピン、タイのような地経学的に重要な位置にある東南アジア諸国と経済及び政治また軍事の全面で関係を真剣により強めていれば、現在の中国と対等になっていた可能性が十分考えられます。日本は冷戦前に結ばれた日米同盟関係に固執している傾向がありますが、冷戦が終結して国際情勢が変わっている中で、あり方を少しずつ見直していく必要があります。アメリカとの同盟を維持している以上、中国との関係を勝手に強めることはできないかもしれませんが、代わりに東南アジア諸国との関係を強固にすることはできるはずです」
東アジア広域を欧州連合のような経済共同体に
1990年代前半までのベトナムと、それ以降の日本。各時代における両国の国際政治事情を中期的に観察してきたド マン ホーン教授の目下の目標として「東アジア広域の国際政治経済の秩序の中長期的な変化」に関する研究結果をまとめ、書籍として刊行することを挙げる。
しかし、その先にはさらに大きな展望がある。ヨーロッパの欧州連合(EU)のように、日本や中国を含めた東アジアの経済を統合し、人とモノ、金が自由に行き交う世界を実現することだ。
「実はこの構想は大学院生の頃から思い描いていました。当時の指導教員にはかつての大東亜共栄圏を彷彿とさせたようで反対されましたが、むしろ経済統合によって東アジア広域の国々が対等になれる世界を実現したいのです。経済統合には貿易の交流、投資の交流、経済制度の統一、市場の統一、貨幣の統一といくつかの段階がありますが、これらすべてを統合するのが私の夢です。」
教員紹介
Profile

ド マン ホーン教授
DoManhHong
1965年、ベトナム・ハノイ出身。開発途上国であったベトナムに適した開発戦略を模索するため、1986年にベトナムの国民経済大学の経営学部経営学科に入学。1990年に同学を卒業後は日本語を学びながらベトナム国営企業に勤務した。1995年に国費留学生として来日し、大阪外国語大学で日本語を学んだのちに桜美林大学 国際政治経済学研究科国際関係専攻修士課程を修了。2003年には同専攻の博士課程を修了し、2004年から2年間、日本学術振興会の外国人研究員として早稲田大学社会科学研究科での研究を経て、2008年から桜美林大学総合研究機構の講師を務めた。2011年から同学のビジネスマネジメント学群の講師に就任し、2021年から現職。経済政策、理論経済学、国際関係を専門とし、とりわけアジア地域研究、東南アジア経済、東アジア経済、そして国際関係における経済政策をはじめ、ベトナムの経済発展や裾野産業の形成に関する研究に力を入れている。これまでの主な著書・論文には『米中貿易戦争と東アジア経済』『アジアダイナミズムとベトナムの経済発展』『メコン河流域開発とアジアダイナミズム』などがある。
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