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1930年代の国家を超えた文学の交流を追う
日中近現代のモダニズム──華やかな時代の光と影を追う
1920〜30年代は、日本でも中国でも、都市文化が華やかに花開いた時代だ。第一次世界大戦後の政治的な緊張とは対照的に、中国からは文学に関心をもつ若者が留学生として数多く来日し、日本からは芥川龍之介や谷崎潤一郎、横光利一などが上海を訪れるなど、文学の分野では人的な交流が活発に行われた。両国が西洋の新しい思想を取り入れながら、東アジア独自の文化を再構築しようとする模索の時期でもあった。リベラルアーツ学群の藤澤太郎教授は、この時代の中国文学、特に1930年代のモダニズム文学と左翼文学の研究を、研究の出発点としている。
「上海の南京路や外灘地区のきらびやかなビル街、トロリーバスが走る光景。東京で言えば銀座のモガ・モボ文化の華やかなイメージ。1920年代から30年代という時代は、日本でも中国でも、ある種のモダンな文化が完成された時期でした。文学的にも、横光利一や川端康成らの『新感覚派』に代表されるような、破壊的で芸術的な作品が数多く生まれました」
そして、この時期の日本文学は中国文学に大きな影響を与えた。特に新感覚派の文体──直線的ではない表現、「特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のやうに黙殺された」のような人物化・物体化した比喩、あるいは名詞を羅列するような革新的な表現は、翻訳を通じて中国の若い作家たちに刺激を与えたという。
「翻訳を担った劉吶鴎(りゅうとつおう)という作家は、台湾に生まれ日本の青山学院で教育を受けたバイリンガルで、日本語の新感覚派の作品を若干日本化された中国語で翻訳しました。上海の新しいものに敏感な若い作家たちがそれを読み、自分たちの創作にも取り入れていった。日中の間でそうした文学交流の流れがあったのです」
しかし、この華やかな時代は長くは続かなかった。1937年に日中戦争が始まると、日本と中国の文学交流はいびつなものとなり、1945年の敗戦後、さらに1949年の中華人民共和国成立後は、約30年にわたって断絶してしまう。
「だからこそ、1920年代から30年代は、日中文学交流史の中で特別に華やかで貴重な時期だったといえます。戦争が本格化する前の、文化が自由に交錯していた時代。そこに大きな魅力を感じ、近現代の中国文学と日本文学を専門に研究してきました」
左翼作家連盟を「神格化」から解放する
藤澤教授の博士論文のテーマは「1930年代文壇史から見た中国左翼作家連盟」だった。中国左翼作家連盟(左連)は1930年3月から1936年初頭まで約6年間活動した左翼的作家組織。中華人民共和国成立後、共産党イデオロギー的価値基準のもとで研究されてきたが、実証的に全体像を明らかにするような研究はなされてこなかった。
「1990年代から2000年代は、中国の共産党政権の文学研究への政治的締め付けが相対的に弱まってきた時期でした。それまでの左連の研究は、共産党中心主義で左翼作家連盟を絶対視し、褒め称えるものが中心だった。その枠組みを超えたおもしろい証言がいろいろ出てきたのですが、それらをまとめる研究は必ずしも進みませんでした。私はそれを、共産党イデオロギーの観点から評価するのではなく、1930年代の文壇全体の中での位置づけや組織内部の複雑な力学を客観的に分析しようという意識で研究に取り組みました」
同論文で藤澤教授は、それまで明らかにされてこなかった左翼作家連盟の組織の実態、誰がいつどこで何をしていたのかを史料に基づいて丹念に追っていった。左連が結成当初から文壇において絶対的優位にあったわけではなく、他の文学組織と競合しながら地位を築いていったこと、内部分裂により「左翼」の集団と「作家」の集団に割れていった過程を詳細な史料に基づいて明らかにしていった。
「結果として文学からは少し離れ、歴史を深掘りした内容になってしまったのですが、神格化されたものを解体するという姿勢は、研究者として一貫して持ち続けています」
47都道府県を巡る古本収集の旅──埋もれた地域文学を掘り起こす
台湾文学から日本の地域文学へ
中国文学の研究者として出発した藤澤教授だが、現在では日本の地域文学についても研究の柱としている。2005年の桜美林大学着任後、研究の幅を大きく広げ、中国文学と日本文学、そのつながりを本格的に掘り下げていくようになった。そのきっかけは台湾の日本語文学だったという。
「台湾は戦前、日本の植民地だったこともあり、現地で書かれた日本語文学が相当数あります。私は“中国文学”の枠組みから台湾文学研究に足を踏みいれましたが、日本語文学にも関心を持つようになり、研究を始めました」
その過程で資料となる古本を集めるうち、藤澤教授は台湾の日本語文学と日本の地域文学との間に「相似性」があることに気づいた。当時、台湾で論争になっていたり、流行っていたりするテーマやキーワードが、じつは日本の地域、例えば九州の地域的な文学のコミュニティなどでも取り上げられていることがわかってきたのだ。
「台湾で起こっていた文学的な動きは、日本の各地域の文学と照らし合わせることで、より解像度を高めて分析できるかもしれない。そうした発見が研究の可能性を広げていきました」
SNSのない時代、地域を超えた同時代的なつながりをつくり出していたのは、戦前から続く同人雑誌のネットワークだったという。
「近年もZINEがブームになっていますが、同人雑誌のネットワークは戦前から日本全体にかなり広範に存在していました。その中で、中央の一般的な文学史には出てこないような動きがいろんな地域で同時並行的に起こっていた。台湾の文学状況も、そういった日本の地域文学の動きと連動していた部分がある。そこを掘り起こすことで、研究の新しい視点が見えてきたのです」
地域文学の担い手が高齢化し、失われていく危機感
日本の地域文学は、創作も研究も地域の在野の人々が多くの部分を担ってきたのだと藤澤教授は語る。しかし、少子高齢化が進み、そうした担い手が高齢化する一方で、それを引き継ぐ次の世代がいるとは限らない。日本の中国文学研究も安泰とはいえないが、母体が大きいのでしばらくは問題ない。しかし、日本の地域文学に関する資料や学識は、ここ十年二十年の間に途絶えてしまう危険性が高い部分がかなりあるという。
そこで、藤澤教授は現在、47都道府県すべての地域の文学資料を集めている。中でも注力しているのが山形県だ。
「山形県は、地域の図書館に資料が比較的揃っており、研究がしやすい環境です。それらを利用して、山形県西村山郡西川町岩根沢での戦中戦後の文学コミュニティの形成過程を追った『岩根沢文学誌稿——山形県のある詩人疎開地における文学的コミュニティの形成と展開——』という論文をまとめました。戦中戦後、詩人の丸山薫と日塔聰が西川町の岩根沢という場所の周辺に疎開してきたことをきっかけに、短歌会、俳句会が始まり、詩誌『こぶしの花』などがつくられるようになり、疎開者が引き上げた後も地元の交流が継続していった全国でもめずらしい例です」
研究スタイルの原点はゲームにある!?
「三国志」から始まった中国文学への道
文学と歴史の境界を行き来し、丹念に資料を追う藤澤教授の研究スタイルの原点は、意外にも中学高校時代に夢中になったゲームにもあった。
「小学生の頃から文学と歴史が好きで、中学高校時代は歴史が関わる小説や一般向けの歴史の本をよく読んでいました。高校に入ると、光栄(現コーエーテクモゲームス)から出ていた『三国志』や『水滸伝』などのゲームにもハマるようになりました。そうしたゲームの影響もあって、中国という世界に惹かれていったのです」
ゲームで関心を膨らませ、やがて中国の白話小説の日本語訳へ文学と歴史をともに楽しむ体験が、藤澤教授を研究の世界に近づけていった。
「高校のころには『三国志(白話小説の三国志演義)』『水滸伝』や『紅楼夢』などを日本語訳で読んで、人物リストなどを作成したりもしていました。日本文学にも関心があったので、このころもう少し日本の純文学の方に傾斜をしていればよりよかったのではないかと思うこともあります。けれども、このころの歴史オタク的な作業が思わぬところで役に立つこともあるのがおもしろいところです」
そして、大学進学時「人気がない方を」という基準で中国文学を専攻に選んだという。
「当時、日本文学と中国文学を比較したとき、中国文学の研究を行う人の方が少なかったんですね。同じくらい関心があるなら、人気のない方でやってみようと思いました」
並行して中国語を学んでいた大学2年次の後半、藤澤教授に転機が訪れる。女性作家・蕭紅(しょうこう)の小説を中国語の原文で読み進めるうち、「理解できる」という手応えを初めて掴んだのだ。蕭紅は1942年に31歳で夭折した作家で、作品数も多くなく、文章も読みやすく、内容も面白かった。
「現代中国語で原文が読めるぞ、面白いぞという感覚を掴んだのが大きかったですね。そこから本格的に中国近現代文学の研究に入っていき、現在の活動に至ります」
「知らなかった本」との出合いが最大の喜び
藤澤教授は、中学生の頃から購入した本をすべて記録しているという。ノートに手書きでまとめていた時代があり、2004年からの約21年間はPCにテキストファイルで記録。ただ、いつ何を買ったかはわかるが、自宅には本が溢れ、ダンボールが積み上がっている状態で、必ずしも探した本がすぐに見つかるわけではない。
「買った本はどのような部分が利用できそうか、あるいは知らない資料が載っていないかというような点を確認して、あとはだいたい積んでおきます。もし新たに資料になりそうなタイトルがあれば、またそれを古書店やインターネットで探し購入していく。結果、読まずに積まれていく本が増えていくのです。もちろん研究に必要となったらしっかりと読み込みますが、未読の本が積み上がるのは気になりません。本そのものが本当に好きなんです」
台湾の日本語文学と日本の地域文学の動きのつながりを発見できたのも、足繁く日本各地の古書店を回り、丹念に文献を集めていったからだという。
「戦前に台湾や大陸で出版された日本語文学の古書は貴重で1冊が数万円、ときには数十万円という値がついているものもあります。一方で、日本の各地域の地域文学の古書は同じくらいめずらしく、貴重で、面白いにもかかわらず、数百円で手に入ることもある。国立国会図書館にも入っていない本が、古本屋さんに埋もれているのです。しかも、そこに中国、台湾、日本の近現代文学の相似性を知るヒントがある。日本の地域文学に目が向いていったのは、そうした気づきがありました」
中国・台湾・日本をつなぐ文学交流史で、東アジアの「周縁」に光を当てる
台湾、沖縄、与那国島──権力の空白が生んだ文学
近年、藤澤教授が注目しているのが、中国語圏文学と日本語圏文学の「間」の問題だ。具体的には、台湾や沖縄のように、政治的な変化が起きた地域の文学である。
「台湾は清朝から日本に割譲され、戦後は中華民国の統治下に入りました。沖縄も戦後アメリカの統治下に置かれ、1972年に日本政府に施政権が移ります。こうした政治的な変化が起こった地域には、近代文学、あるいは近代そのものがはらむ矛盾が凝縮されています。もちろんそこに住む人たちにとっては大変なことですが、研究としては非常に興味深いテーマです」
特に藤澤教授が関心を持っているのが、沖縄県の与那国島だ。与那国島は台湾に近く、1940年代後半から50年代初めにかけて、国の管理を離れた“密貿易”の拠点として栄えた。人口も急増し、その時期に文学作品も数多く生まれている。
「第二次世界大戦の末期、沖縄本島は過酷な戦場になりましたが、石垣島や与那国島ではまた別の問題が起こっていました。感染症や強制移住の問題もありますし、日本とアメリカの間で権力の空白が生まれるという問題も出てきます。そのような状況下で活発化したのが国の管理を離れた草の根的な貿易でした。与那国島はその拠点として人口が増え、文化的にも隆盛期を迎えます。そこから生まれた文学作品を分析することで、東アジア全体の問題が見えてきますし、国文学の枠組みを解体するヒントも浮かび上がってくるのです」
「周縁」に光を当てる研究姿勢
藤澤教授の研究に一貫しているのは、「周縁」に光を当てる姿勢だ。中国文学研究では左翼作家連盟という「中心」を扱いながらも、それを批判的に解体しようとした。日本文学研究では、有名な作家ではなく、地域の無名の作家たちに目を向けている。そして現在、中国と日本の「間」にある台湾や沖縄の文学に注目している。
「“周縁”あるいは“端っこ”といったら語弊があるかもしれませんが、そのようなところにこそ、研究の面白みがあると思っています。そこには、中心では見えない問題が凝縮されている。それを掘り起こし、最終的には主流的な枠組みを変えていこうとするのが、私の研究のテーマです」
中国と日本、台湾や沖縄といった「間」の地域。47都道府県の地域文学。モダニズム文学から同人雑誌ネットワークまで。その研究対象は広く、常に新しい資料が見つかる。
「狭いことをやっていると飽きてしまう。しかし、これだけ広い範囲を対象にしていれば、常に新しい資料が出てくるので、飽きることがない。20代から今まで、知らなかった本を見つける喜びは変わりません。その喜びが研究の原動力です」
本との出会いを最大の喜びとする藤澤教授。中心ではなく周縁に光を当て、ネットに載らない記憶を掘り起こし、文学を学ぶ意義を問い続ける。その研究スタイルは、文学研究の新しい可能性を示している。
教員紹介
Profile
藤澤 太郎教授
Tarou Fujisawa
1976年千葉県生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。専門は中国近現代文学、日本近現代文学、比較文学。博士論文「一九三〇年代文壇史から見た中国左翼作家連盟」で、1930年代の中国左翼作家連盟をイデオロギー的価値基準に偏らない学術的・総合的な視点から再定義。現在は日本全国47都道府県の地域文学を対象に、埋もれた文学資料の発掘と研究を行っている。特に、台湾や沖縄など政治的変化が起きた地域の文学に注目し、中国語圏文学と日本語圏文学の「間」の問題を研究。2018年より桜美林文学会顧問として、学生とともに文芸雑誌『言葉の繭』を発行している。
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