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2006年から2010年まで
「八ッ場ダム建設問題」を研究
外からは見えない本質を明らかにする
「地域社会で生じる課題は、外からただ見ているだけだと、実態はまったく見えてきません。中に分け入り、当事者に話を聞くといった実証的な調査の末に、地域の構造や問題の全体像が見えてくる。これは『地域社会学』と呼ばれる学問分野の研究です。私はこれまで約35年にわたって、ダム建設や原子力発電所の地域受容、農村の集落の解体と再組織化など、主に国内の多様な地域社会で巻き起こる問題をテーマに研究を行ってきました」
そう語るのは、リベラルアーツ学群で社会学の領域を担当する渥美剛教授だ。渥美教授が特に力を入れた研究の中に、「八ッ場ダム建設問題」がある。八ッ場ダムは群馬県長野原町に建設され2020年4月1日に運用を開始した多目的ダムだが、その建設計画は1952年に発表され、途中で建設中止の期間を挟むなどして完成までに68年の年月を擁した。首都圏の1都5県における水不足の解消や洪水の防止にとって大事な役割を果たす一方、ダム工事による自然破壊や水没予定地に住む住民の転居などを余儀なくされ、地域住民や下流域の住民間でも賛否が入り混じった複雑な問題だった。
「私が八ッ場ダム建設問題について現地調査をしていたのは、2006年から2010年。当時の桜美林大学に存在した産業研究所という組織の研究プロジェクト『大規模公共事業に伴う地域社会の変容——八ッ場ダム建設問題を事例に』(主査藤田実)(※)に基づく共同研究に参加していました。5度にわたる群馬県長野原町における現地調査のほか、下流域の建設反対運動のリーダーへのインタビューなどを実行しました」
渥美教授が研究渦中にあった2009年は、八ッ場ダム建設問題にとっても重要な転換点だった。民主党政権が成立し、着工目前であった八ッ場ダム建設の中止が表明されたのだ。
「それまでの無関心ぶりとは対照的に一挙に注目され、八ッ場ダム建設問題は全国的な政治の争点になりました。しかし、主として建設反対の立場からの書籍は数点出版されていましたが、社会科学的な研究はほとんどなされていなかった。また、当時のテレビで繰り返し報道された映像は、ダムにより水没する地域の住民が『工事継続』を叫ぶという、一見奇妙な光景でした。そうした状況に対して私たちは、八ッ場ダム建設という大規模公共事業がいかに地域を変容させ、崩壊させていくのか、その本質を明らかにすることを目指しました」
現地調査とインタビューにより
関係者の複雑な図式が見えてきた
二項対立では片付けられない住民たちの様相に迫る
渥美教授が研究を進めるうえで重視したのは、インタビューを含む現地調査と、社会学でよく用いられる「受益圏」と「受苦圏」の考え方を用いた検証だ。受益・受苦とは、社会問題によって生じる利益と不利益の関係のこと。八ッ場ダムにおいては、建設されることで恩恵を受けることができる立場を受益圏と呼び、逆に被害を受ける立場を受苦圏と定義した。
八ッ場ダム建設問題においては、建設による『水没地域住民』と利根川・荒川流域の『下流域住民』の2つの立場にわけることができる。しかし、水没地域=受苦圏、下流域=受益圏という単純な図式を成立させることはできず、複雑な形態をとっていることがわかったという。
「水没地域で最も深刻な被害を受けたと想定されたのが、水没地の代替地を造成して生活再建を図る『現地ずり上がり方式』での転居を選択した人々。彼らの多くは長年の交渉の末に、物質的にも精神的にも疲れ果てて条件受け入れ派に転じていました。代替地は周辺市町村と比較しても高額であり、所有地を売却して得た資金はほとんど残らない。そうした意味で受苦的存在ですが、一部には高額の補償金を得て比較的安価な住宅を取得したり、都会で事業を開始したりした人々もいて、純粋な金銭的な面から見れば受益者に他ならなかったのです」

水没地域には受苦・受益者が入り乱れ、空間的な区切りとしてこれを捉えることは困難になっていた。下流域においてもそれは同様で、国土交通省が想定する受益圏は1都5県という広大な地域に広がっていたが、人口減少時代に入り水需要の減少が予想されるためダム建設事業は不要かつ危険だと主張する市民も存在し、自治体負担金の支出を差し止める法廷闘争も活発になった。
「生活再建を選択した人々と下流住民による反対運動は、何度か対話が行われたにもかかわらず、相互理解に失敗して感情的な対立を生じるに至りました。私もまた、水没地と下流域(東京都と群馬県)の運動のリーダーにそれぞれインタビューを実施しましたが、どちらの側も、極めて誠実な善意のある人々であることは疑いの余地がなかった。ただ、どちらにも折れることのできない背景があるからこそ、その状況に誠実で善良であるがゆえに歩み寄ることができないのだと推論しました」
ひとつの問題に対して、立場や状況の違いによってその捉え方はさまざまである。その“さまざまである”という状況について、いかに解像度を高めていくか。正解はひとつではないからこそ、地道な社会調査の結果が、課題解決に向けた新たな視点を見出すこともある。
内なる声に耳を傾ける
社会調査によって見えてくる現実がある
地域社会学研究が社会にもたらすものとは

渥美教授が影響を受けた社会学者のひとりに、ピエール・ブルデュー(1930年–2002年)がいる。格差や階級が生まれるメカニズムについて論じた『ディスタンクシオン』という著書が有名だ。そのブルデューが研究において重要視していたのがインタビュー調査。『世界の悲惨』という著書では、ブルデューとその弟子23人が、52のインタビューにおいてブルーカラー労働者や農民、小店主、失業者、外国人労働者などの「声なき声」を聞き取った書籍だ。
「インタビュー調査は時間ばかりかかって効率が悪いと言われることもあるんです。ただ、数字やデータで表されるようなものではなく、丁寧に一人ひとりの声を聞くことで見えてくるものもあるんです。外から見ているだけではわからない、内なる声に耳を傾けるというのは、私の研究においても大事にしていることです」
八ッ場ダム建設問題に関する研究が、まさにその実践だった。研究成果を踏まえたうえで渥美教授は、地域社会学研究の意義を以下のように述べる。
※『八ッ場ダムと地域社会——大規模公共事業による地域社会の疲弊』(発行:2010年|桜美林大学産業研究所編著)
教員紹介
Profile

渥美 剛教授
Takeshi Atsumi
1962年、宮城県生まれ。1993年、中央大学大学院文学研究科社会学専攻博士課程単位取得満期退学。日本獣医畜産大学や中央大学、法政大学、明治大学などの講師を経て、2000年に桜美林大学に着任。2015年より現職。共著書に『八ッ場ダムと地域社会——大規模公共事業による地域社会の疲弊』(桜美林大学産業研究所編、八朔社、2010年)がある。
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