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エストニア研究が専門
ソ連崩壊とともに独立を回復したバルト三国
1989年11月、ベルリンの壁が崩壊し、翌12月には米ソ首脳によるマルタ会談で冷戦の終結が宣言された。そして1991年12月、ソビエト連邦が崩壊する。リベラルアーツ学群の大中真教授が学部学生だった当時、国際政治は大きく揺れ動いていた。そうしたなかで、大中教授の関心は、ソ連から独立を回復したバルト三国、エストニア、ラトビア、リトアニアへと向かっていった。
「当時、バルト三国を専門的に扱う先生はまだ少なく、大学の授業で詳しく学ぶ機会もほとんどありませんでした。それでもテレビや新聞では、独立運動や民主化の動きが報じられ、世界の変化を実感していました。1990年代は、国際的な情報がこれまで以上に日本社会に流れ込んでくるようになっていた時代でもありました」
インターネットも普及する前の時代。限られた情報環境のなかで、大中教授は自ら文献を探し、学問としてバルト地域に踏み込んでいった。
「エストニア、ラトビア、リトアニアの三国を総合的に理解する必要がありましたが、最初から関心を惹かれたのがエストニアでした。バルト三国のなかで最も小さく、最北に位置し、日本からも遠い。もっとも心を捉えたのが、『歌と踊りの祭典』でした。大学時代、私は合唱団に所属していました。そのため、国家のなかで合唱が重要な意味を持つエストニアに強く惹かれたのだと思います」
エストニアの主要な合唱祭である「歌と踊りの祭典」は、5年に一度開催される。初回は1869年、南部の都市タルトゥで行われた。以来、この合唱祭はエストニア人の民族的アイデンティティを象徴する存在として受け継がれてきた。同様の祭典はラトビア、リトアニアにもあるが、最も古い歴史をもつのがエストニアである。2008年には三国の合唱祭が、ユネスコの無形文化遺産にまとめて登録された。
「エストニアの『歌と踊りの祭典』は、色鮮やかな民族衣装に身を包み、現在ではタリン郊外の野外会場で実施されます。巨大なステージには最大2万人の歌い手が並び、15万~20万人もの観客が見守る。合唱祭の終盤、会場全体が一体となって国歌を歌い上げるとき、空気が震えるような感動に包まれます。その場にいると、歌が人々をつなぎ、国家の記憶と誇りを紡いでいることを全身で感じます。あの瞬間の熱気は、現地でしか味わえない圧巻の体験です」
エストニア、苦難の歴史
列強の狭間で翻弄されてきた
バルト海とフィンランド湾に面するエストニアは、2000を超える島々をもつ北欧の国だ。人口はおよそ137万人。近年はIT立国として知られるだけでなく、教育のデジタル化や公平性の高い制度設計によって、ヨーロッパでも屈指の教育先進国として注目を集めている。
エストニアの歴史は、まさに列強の狭間に翻弄されてきた苦難の歩みでもある。13〜16世紀、エストニアはドイツ騎士団の支配下に置かれ、土地はバルト・ドイツ人(ドイツ系貴族)が所有し、エストニア人は農奴として従属する社会構造が定着していた。その後もスウェーデンとロシアが覇権を争い、支配者が交代するたびにエストニアの人々は新たな支配体制のもとで生きることを強いられた。
18世紀から20世紀初頭にかけてロシア帝国の統治下に入っても、支配層には依然としてバルト・ドイツ人が残された。ロシアにとって既存の体制を温存するほうが統治を円滑に進めやすかったからである。しかし19世紀に入ると、エストニア人のあいだで民族意識が芽生え始め、エストニア語による新聞の刊行や文学活動、民俗研究などが盛んになった。現在も続く国民的行事「歌と踊りの祭典」が初めて開催されたのも、この時期だ。
1917年、ロシア革命による帝政の崩壊はエストニアに新たな転機をもたらす。混乱のなかで自治を要求したエストニアは、翌1918年2月24日、ついに初の独立を宣言。ロシア赤軍やドイツ義勇軍との独立戦争を経て、民主共和国としての独立を勝ち取った。
エストニアとフィンランド——同じ旋律をもつ2つの国歌
19世紀、エストニア各地の合唱団活動を組織化し、その発展を導いたのが、「エストニア民族の父」とも称されるヨハン・ヴォルデマル・ヤンセン(1819–1890)だ。彼の功績のひとつに、のちにエストニアの国歌となる歌の作詞と演奏実現が挙げられる。
この歌の旋律は、ドイツ生まれのフィンランド人作曲家フレデリック・パシウス(1809–1891)が1843年に作曲したもので、ヤンセンがそこにエストニア語の歌詞を付したのが『我が祖国、我が喜びと幸せ(Mu isamaa, mu õnn ja rõõm)』である。第1回エストニア合唱祭で披露されたこの曲は、親しみやすく伸びやかな旋律に祖国への愛を重ね合わせたもので、瞬く間にエストニア全土に広まり、民族覚醒運動を象徴する歌として受け入れられていった。やがてエストニアが共和国として独立すると、この曲は1920年に正式な国歌として採用される。
興味深いことに、パシウスが作曲したこの旋律は、フィンランドでもフィン語の歌詞を伴って広く歌われ、ロシア革命後に独立した際、フィンランドの国歌にも採用された。つまり、エストニアとフィンランドの国歌は、歌詞こそ異なるものの、旋律は全く同一なのだ。
第二次世界大戦を経て、再び支配下に置かれる
1918年の独立からわずか20年後、第二次世界大戦が勃発すると、エストニアは再び大国のはざまに巻き込まれた。1940年、独ソ不可侵条約に基づいてソ連が侵攻し、エストニアは併合されてエストニア・ソビエト社会主義共和国となる。このときヒトラーが出した帰還命令により、バルト諸国に住んでいた多くのドイツ人が本国へ移動し、エストニアからもドイツ系住民が姿を消した。
「エストニア人たちもその異変を察知して、何かがおかしいと感じていたようです。案の定、ソ連軍がやってきた。ところが翌年には、ナチス・ドイツが独ソ不可侵条約を破り、今度はドイツ軍がエストニアを占領します。そして戦争の終盤にはドイツ軍が撤退し、再びソ連の支配下に置かれるのです。当時のソ連指導者スターリンは、半ば強制的に併合条約に近いものを突きつけ、小国エストニアとしては受け入れざるを得ない状況でした」
しかし、ロシア支配下の抑圧の時代にあっても、エストニアの国民的行事である合唱祭は途絶えることがなかった。ソ連側にも、国民感情のガス抜きとして一定の文化活動を容認する意図があったのではないかと大中教授は語る。
「もっとも、その合唱祭も『形式において民族的、内容において社会主義的』という、典型的な芸術政策のもとに置かれていました。外形的には民族文化の継承を装いながら、実際の内容はソ連の統治に都合よく運営されていたわけです。しかし、エストニアだけでなくラトビアやリトアニアも同様に、そうした枠組みのなかで巧みに対応し、文化的伝統とアイデンティティを守り抜こうとしました。合唱祭はその象徴的な場だったのです。その後、国際情勢の影響も大きく、歌の力だけを過大評価すべきではありませんが、1953年にスターリンが死去すると、合唱祭に対する統制が緩んだのはたしかです」
そして1991年、冷戦の終結とソ連の崩壊によって、バルト三国は独立を回復する。エストニアにとっては二度目の独立だった。この時期、大学生だった大中教授はエストニアと出合うことになる。
「1990年代、研究を進めるなかで、日本語文献はまだわずかしかありませんでした。しかも、当時の文献の多くはソ連の視点から書かれており、それらを一つひとつ批判的に読み解く必要がありました。現地調査も容易ではなく、エストニア語という難解な言語の壁もありました。それでも、こうして長く関わり続けるなかで、エストニアという国の変化と強さを実感してきました」
エストニアの合唱祭を現地で体感
1998年のエストニア
大中教授が初めてエストニアの地を踏んだのは1998年。独立回復からおよそ7年が経ち、国がようやく新しい体制へと歩み始めた頃だった。
「当時のエストニアは、社会主義から資本主義へと移行する過程で、物不足や激しいインフレに苦しんでいました。国民の所得も低く、政治的にも不安定な時期だったと思います。2004年にNATOとEUへ加盟するまでの道のりの中間期にあたる時期に現地を見ることができたのは、研究者として貴重な経験でした。ただ、残念ながら1998年は合唱祭の開催年ではなかったのです」
2009年、ついに合唱祭に
合唱祭が実際に開催される年に訪れることができたのは、それから10年以上後の2009年だった。現地で合唱祭のCDをようやく手に入れることができたという。
「当時、日本ではまだ合唱祭のCDを入手することも難しかったのです。現地の本屋の一角に置かれていたCDを見つけたときの感動は今でも覚えています」
そして実際に合唱祭を体感した大中教授は、その圧倒的なスケールに驚かされたという。会場にはおよそ2万人の歌い手が立ち、観客は18万人ほど。合わせて20万人規模の祭典になる。
「普段は何もない広大な野原に、ソ連時代に建てられた無機質なステージがひとつあるだけなのですが、そこに人々が一斉に集まる光景は圧巻でした。現地でしか味わえない迫力がありました」
大中教授は現在、日本・エストニア友好協会の理事も務めているが、そのつながりはこの頃から始まっており、当時、友好協会の方にチケットを手配してもらい、かなり前方の席で観覧できたという。
「本当に幸運でした。会場は身動きがとれないほどの人の波でした。人々は真剣に舞台を見つめており、それだけ、エストニアの人々にとってこの合唱祭が特別な意味を持っているのだと感じました。5年に一度、この日のために生きているといっても大げさではない。もちろん、ほかにも季節ごとにさまざまな演奏会はありますが、19世紀半ばから続くこの合唱祭こそが、民族の誇りと記憶を象徴する行事なのだと思います」
英国学派と国際法史
国際関係論の英国学派
大中教授は、エストニアを対象とした国際関係論を専門とする一方で、「英国学派」と呼ばれる理論的潮流についても研究の柱としている。
「英国学派とは、イギリスで生まれた国際関係論の一つ。文化や歴史、国際法、思想といった人文的基盤の上に国際社会を構想しようとする考え方です」
大中教授によれば、英国学派は、アメリカで主流となった「数式や計量分析を重視する学派」と対照的な立場にあるという。
「英国学派が始まった1950年代当時から、国際政治を数理的に分析するアメリカ的アプローチは流行していました。しかし英国学派は、より歴史や文化の文脈を重視し、人間社会としての国際関係を考えようとする。そこに私は深く共感しました」
2000年代初頭、大中教授は留学先のイギリスで「English School」という考え方に出会う。帰国後にその実態を調べるうちに、それが「英国学派」と呼ばれる学問的伝統であることを知ったという。
「帰国後、ちょうど英国学派を研究するグループから声をかけていただき、その流れで本格的に取り組むようになりました。英国学派にもさまざまな立場がありますが、私は特に歴史的視点から国際関係をとらえることが重要だと考えています」
国際法を歴史的な流れから捉える
英国学派の研究を進めるなかで、大中教授は次第に「国際法史」という領域にも関心を広げていった。国際法そのものを扱う専門家は多いが、その発展の経緯を体系的にたどる国際法史は、マイナーな学問分野だという。
「英国学派の研究をすると同時に痛感したのは、国際法の歴史を理解しなければ、現在の国際社会の成り立ちや、そこで生じている問題の根本を捉えることは難しいということでした。現在、英国学派の研究と並行して、国際法史も自分の大切な研究の柱となっています」
現代の国際情勢を見れば、ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルによるガザへの攻撃など、「国際法が守られていないのではないか」と悲観的に感じてしまう場面も少なくない。しかし、国際法を強制力の及ばない法体系としてではなく、「人類が時間をかけて築いてきた国際的な規範の集合」として捉えることが大切だと大中教授は語る。
「国際法は、国家間で強制的に守らせる仕組みではなく、世界全体で共有すべきルールをどのように合意し、維持していくかという努力の積み重ねの上に成り立っています。まだ完成された体系とは言えませんが、数百年にわたる試行錯誤を経て、その基盤は確実に築かれてきたと思います」
ロシアによるウクライナ侵攻は、そうした国際秩序への信頼を大きく揺るがす出来事だ。大中教授は「軍事行動がまさかこれほど公然と行われるとは思いもしなかった」と語るが、20世紀からの積み重ねもたしかにあるという。
「現在の戦争では、もはやどちらが勝ったか負けたかという単純な話では済まされません。仮に一方が武力で土地を占領し、条約を押しつけても、国際社会がそれを正当なものとして受け入れることはない。そこには、国際的な規範意識や倫理的な眼差しが確実に存在しており、そうした認識の広がりこそが、20世紀以降の大きな変化なのだと思います」
21世紀の国際社会を考える
脅威にさらされるエストニア
ロシアによるウクライナ侵攻は、エストニアをはじめとするバルト諸国にとって極めて深刻な問題だ。NATOやEUに加盟しているとはいえ、彼らの安全保障上の不安は決して小さくない。
「エストニアの人々は非常に危機感を抱いていると思います。ロシアがウクライナに侵攻したのは2022年2月24日で、これはエストニアの独立記念日と同じ日なのです。しかも侵攻はその日の明け方に始まりました。エストニアでは記念式典の準備が進められていましたが、すべて中止となり、国全体がロシアの動向に神経を尖らせざるを得なかった、と聞いています。独立記念日と同日というのはエストニアにとって象徴的であり、同時に非常にショッキングな出来事だったと思います」
今日の問題を歴史的な視点から見つめる
ロシアの侵攻を受け、バルト諸国をはじめとする周辺国は不安を募らせている。一方、地理的に離れた日本では、その切迫感を実感しにくいのも事実だ。大中教授は、こうした状況のなかで日本が果たすべき役割を次のように語る。
「日本は第二次世界大戦での徹底的な敗戦を経て、平和憲法を制定し、それ以来、一度も戦争をしていない国です。これは国際社会のなかで大きな特徴であり、だからこそ日本にしか担えない役割があると考えています」
大中教授はまた、過去を知ることの重要性を強調する。変化が激しく、不確実性の高い現代だからこそ、歴史を通じて物事を冷静に見つめ直す姿勢が欠かせないという。
「歴史は、知識の宝庫です。今日のように情勢が目まぐるしく変わる時代においては、過去を踏まえた落ち着いた分析こそが求められます。そうした意味でも、文化や歴史を重視する英国学派の考え方は、現代において極めて有効だと思います。現実の問題を今日、明日で解決することはできません。戦争も一朝一夕には止められない。しかし、学問的な分析や対話を積み重ねることで、平和の構築に近づくことはできる。その不断の努力の延長線上に、現在の国際社会があるのです」
教員紹介
Profile
大中 真教授
Makoto Ohnaka
1968年東京都出身。学習院大学大学院政治学研究科政治学専攻博士後期課程修了、博士(政治学)。一橋大学大学院法学研究科法学・国際関係専攻博士後期課程修了、博士(法学)。オクスフォード大学セント・アントニーズ・コレッジ上級客員研究員(新渡戸フェローシップ)、ハーヴァード大学歴史学部訪問研究員(桜友会フェローシップ)、上野学園大学専任講師、桜美林大学専任講師、同准教授を経て、桜美林大学リベラルアーツ学群教授。著書『エストニア国家の形成:小国の独立過程と国際関係』(彩流社)、『マーティン・ワイトの国際理論: 英国学派における国際法史の伝統』(国際書院)他多数。
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