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19世紀のイギリス小説における
女性作家の心理描写を読み解く
私的な領域から社会へメッセージを届ける文学の可能性
「私の専門は、19世紀のイギリス小説です。特に女性作家の系譜や、小説における心理描写と同時代の心理学理論の関係に関心を持っています。19世紀はまだ心理学が学問分野として確立されていなかった時代ですが、哲学や宗教、生理学などさまざまな方向から理論が提示され、関心が強かった時代です。この時代の作家はそうした理論から大きな影響を受けていたことが知られています。近年ではジェンダーの観点からの文学史の見直しも進んでいますが、伝統的にはアメリカなどを含め多くの国の文学史は男性作家が中心です。ですがイギリス小説の世界ではジェーン・オースティン(1775-1817)やシャーロット・ブロンテ(1816-55)、ジョージ・エリオット(1819-80)といった女性作家が伝統的に中心的な位置を占めていました。そうした作家たちと心理学の関係について研究してきました」
そう語るのは、リベラルアーツ学群で英米文学を教えている大竹麻衣子教授だ。大竹教授は幼少期から英語圏の文学に親しんでいて、特に少女が立派な女性へと成長していく『赤毛のアン』のシリーズは小学生から高校生の頃に繰り返し読んだという。この作品の著者であるカナダの作家、L・M・モンゴメリもそうだが、女性作家の作品に対する強い関心はこの頃から続いている。
「小説は平凡な人間の日常の出来事や心の動きを扱いつつ、同時に社会的なメッセージも持っています。特別な教養がなくても読める平易な文章で書かれているので、最初は格式が低いものと見なされた文学ジャンルですが、一方では多くの人々に影響を与えうるメディアとしての可能性を秘めていました。特に女性作家が多く活躍したイギリスでは、どんなに才能や知性に恵まれていても家庭という私的な領域にしか居場所がなかった中上流階級の女性たちが小説を書くことによって、社会に発信したり収入を得たりという社会参加が可能になったんです。この時代には女性が社会に物申すのはけしからんという風潮は当然あったのですが、私的な領域における感受性や道徳観などを扱う小説なら女性が書くのにも相応しいという社会的了解もありました。因習的な世の中の隙間を突いてプライベートなエリアからパブリックなエリアに進出していく女性作家の歩みにしたたかさを感じます」
小説は当時の中流階級に広く読まれ、貸本屋の普及もあって女性を含む多くの人々に影響を与えるメディアとして機能したという。小説が社会の意識を形成する重要な役割を担っていたのだ。その小説と社会の関係性を読み解くうえで大竹教授がフォーカスしたのが、その当時の社会で広く受け入れられていた心の仕組みや働きに関する様々な理論だった。
「19世紀のイギリスの知識階層に広く浸透していた心理学理論のひとつに、17世紀の哲学者ジョン・ロックを起源とする「観念連合説」というものがあります。これは、人間の精神は生まれた時はいわば「白紙」の状態で、外界の刺激が感覚を通じて心に刻まれることで一つ一つの観念が作られて、さらにそれらが「火」を見たときに「熱い」とか「危険」と感じるように、特定の状況で連鎖的に結びつくことで思考や事物に対する認識が形成されるという考え方です。感覚的な経験を通じて観念や思考が形成されるという考え方なので、個人の感受性や経験、記憶を重要視する態度につながりました。この考え方は19世紀のイギリスではある意味であまりに広く浸透していたので、文学への影響という点では、個々の作家にどのような影響を与えたかを明確に指摘するのが難しいくらいですが、ウィリアム・ワーズワースなどのロマン派の詩人に大きな影響を与えたことはよく知られていますし、19世紀の多くの小説の登場人物の心理描写にこの理論の影響を読み取ることができます。その影響は当時最も人気のあった作家チャールズ・ディケンズの小説などにも読み取れます。この理論の影響力はとても大きかったのですが、19世紀のイギリスの人々の間で広く知られていた心に関する理論は、例えば『骨相学』や『催眠術』など、今では疑似科学とみなされるようなものも含めて多岐に渡っていました」

ハリエット・マーティノーの著作に見る
「心の表象」と「心理学理論」の関係性
なぜブロンテとマーティノーは関係を断絶したのか?
その当時に注目された心理学理論に目を向けることによって、作家の思考や社会背景までもが見えてくる。なかでも大竹教授がここ10年ほど中心的に研究してきたのが、ハリエット・マーティノー(1802-76)という作家である。
彼女は当時は男性の領域とみなされていた政治や経済の分野を含めた幅広いテーマについて、論説、紀行文、歴史記述、人物評伝、物語、小説、自伝などジャンルを横断して執筆活動を行ったことで知られる。とりわけIllustrations of Political Economy(『経済学例解』)は、キャリアの初期に書かれ、経済学の原理を物語仕立てで紹介する斬新な試みと時代のニーズが合致し、当時は全くの無名であった彼女を一躍国民的な著名人にした物語シリーズである。しかし彼女は小説家として名を残すことはなかった。大竹教授はあえて、その膨大な著作の中に埋もれたまま、今ではあまり読まれず、研究もされていない物語や小説などのフィクション作品の方に焦点を当てていく。
「ある論文で私が着目したのは、同じヴィクトリア朝に活躍したシャーロット・ブロンテとハリエット・マーティノーの異なる「心の表象」についてです。ブロンテとマーティノーは、子どもの心理や女性の内面世界といった心の問題に強い関心を持ち、プライベートでも親密な交流を持っていました。しかし彼女たちには心の捉え方や表現方法に違いがあり、それは当時の心理学理論の影響からきていたんです」
マーティノーは代表作Deerbook『ディアブルック』(1839)のなかで先述した観念連合説の影響を受け、「心はその仕組みや働きを正しく理解することでコントロールしたり、改善したりできる」という考えのもとで登場人物の内面世界を表象した。一方のブロンテは骨相学という学説に強い関心を持ち、「一人の人間の心の中でせめぎ合う複数の衝動や特性が唯一無二の個性を作り出し、それこそが人物の本質を形作っている」という見方で心を捉えていた。
「ふたりは心というものの複雑さと捉えどころのなさに子どもの頃から翻弄されつつ魅了されてきたという共通点はありますが、心を語ることの目的と意義については正反対とも言える考え方をしていたことがわかりました。後年、マーティノーはブロンテのVillette『ヴィレット』(1853)という作品の書評で心の表象に関して厳しく批判し、それがきっかけで絶縁してしまいます。ブロンテとマーティノーの交流と断絶は、心に対するそれぞれの見方とその基盤となった心理学理論に深く関わっていたことが分かります。こうしたことからも、イギリス文学における心理学の重要性が見てとれるのです」

学位取得を志して奮闘した
レスター大学での10年間
現地で資料に触れることの重要性
大竹教授は桜美林大学に奉職したあと、2011年から2020年まで、足掛け10年かけてイギリスのレスター大学で学位(Ph.D.)を取得した経歴を持つ。研究者としての足場を固め直す意味で「学位を取りたい」という強い思いがあり、普段は桜美林大学の教壇に立ちつつ、春休みか夏休みに毎年数週間ずつ渡英し、リサーチや論文執筆、現地の研究者からの個人指導を受けていたという。
「就職する前に留学し修士号を得た大学院もレスター大学でしたので、二十数年にわたって通い続けたレスターは本当の意味でイギリスにある第二の故郷です。指導教授やホストファミリー、共に学んだ同級生たちとの交流から得たものは計り知れません。また、ちょうど子育て時期と重なった学位論文執筆を支えてくれた家族への感謝は、時間が経つにつれてますますその真の重みを実感しています」
レスター大学で研究を続けるなかで、現地でしか得られない資料に触れることの重要性も実感したという。デジタル化が進むなかでも、実際に書籍や雑誌の形で資料を見ることで得られる情報は多い。例えば、特定の作家の作品が雑誌のどの位置に掲載され、どのように扱われているのかなどは、現物を見ないとわからない部分がある。
作品の背景にある社会的要素も研究したい
長年にわたる研究の中で、大竹教授は「日本人がイギリス文学を研究する意義」についても考えるようになった。イギリスの文化や歴史をネイティブの研究者よりも深く理解することは同じ土俵に立とうとすると難しいかもしれないが、ノンネイティブの研究者には逆に外部の視点だからこそ見えてくるものがあるのではないか、という考えに至った。
「文化としても地理的にも遠い場所にあるんですけど、なぜだか子どもの頃から海外文学に心地よさがありました。だから自分が惹かれるものとして、これからも研究を続けていきたいです。文献を読む速度は遅いし、論文を書くのも時間がかかる。指導教授との論文指導も日本語だったらもっと即座に上手く説明できるのにと、もどかしい思いをすることも多かったのですが、地道な進捗でも経験を積み重ねていくうちに、少しずつ「前よりはスムーズにできる」という状態になってきたように思います」
仕事と並行しての学びの経験には、「大学での学生との向き合い方にも大きな影響があった」と大竹教授。自分の受けた論文指導の素晴らしさから、少しでもそれに近い学生指導をしたいと思うようになった。
「主体性を尊重しつつ、迷い道に入りそうになると適切に道筋を示してくれる。そして、人間的な温かみにあふれている。指導教授から受け取った指導法をもとに、ゼミ論文や卒業論文の指導において再考することがありました」
大竹教授は今後の研究課題として「小説内の人物の心理だけでなく、人間生活の現実的側面の描かれ方やその背景にある社会的要素」にも関心を広げている。
「例えば、当時の家庭における家事(ハウスキーピング)の捉えられ方。19世紀の小説では、作家の性別に関わらず家事に関わることについての言及や描写が意外と多いのですが、そもそもこの時代は中流以上の家庭では男性はもちろん女性も直接家事をすることはなく、家事は使用人がすることでした。それでも小説の中では、例えば床の磨き方とかプディングの作り方などが語り手や登場人物によって結構具体的に語られているのが面白いと思います。さらにそういった言及が読者に何を伝えるために書かれているのかは、時代の流れとともに変化していったように思えます。家事が小説の中でどのように描かれ、それが当時の社会の中流家庭の価値観や女性に対する見方などとどのように結びついていたのかを探ることで、より包括的な文学研究が可能になると考えています」
教員紹介
Profile

大竹 麻衣子教授
Maiko Ohtake
1968年、茨城県生まれ。2000年、津田塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。2020年にUniversity of Leicester, College of Social Sciences, Arts and Humanities, Department of English 博士課程修了。2002年に桜美林大学に着任。共著書に『英語世界へのアプローチ』(三修社、2006年)、『文藝禮讃』(藤田繁、清水伊津代編、大阪教育図書、2016年)、翻訳共著に『ジョージ・エリオット全集 第10巻 詩集』(彩流社、2014年)、『歴史の中のブロンテ』(大阪教育図書、2016年)などがある。
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