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「現代日本政治」が専門
現代日本政治を理論と実践から、多角的に分析・解釈・批判する
国民が主権者となり、国会(立法)・内閣(行政)・裁判所(司法)が権力を分立させるのがモンテスキューが唱えた「三権分立」。日本の政治史上、この三権分立の原則にもとづいて国を運営していく政治システムのことを「現代日本政治」と呼ぶ。さらに、議院内閣制を採用していることも特徴だ。政治学の中でもとりわけ「現代日本政治」を専門としているのが、リベラルアーツ学群の小澤一彦教授だ。現代日本政治の研究と聞くと、選挙や政党、官僚制など、時事的なトピックだけを扱うように思う人もいるかもしれない。しかし、実際には日本の政治思想や政治史など、日本政治を多角的に見つめる必要がある。
「日本文明と一言で言っても広く、縄文時代に始まり、弥生時代、大和朝廷の時代、武士の時代……とさまざまな政治的な転換点を経ています。そして明治維新で江戸幕府を倒したことを機に、天皇に再び権力が戻りました。日本は現代に至るまで、どのような道のりをたどってきたのか。こうした歴史を振り返る中で教訓を得て、今後の中長期的な政策を作っていく必要があります」
自由民主党が戦後70年にわたって
長期一党優位政党であり続けている理由とは
現代日本政治を専門とする小澤教授の代表的な研究テーマの一つに「自民党政権が戦後70年も続いてきた長期一党優位政党である理由」がある。1959年の結党以来、一時、政権の座から落ちた時期はあったものの、時には公明党と連立し、いまは日本維新の会と連立政権を構築するなど、基本的には通奏低音として、自民党がこの国の政権を担い続けてきた。しかし、当初はここまで長期にわたって政権を担い続けることになるとは、誰も思わなかったのではないか。
「そもそも自民党は主にアメリカの圧力を受けて、左右の分裂を解消した、社会党に対抗するために作られたものです。アメリカには「親米政権を作り、日本の政治を安定させて経済発展を行わせ、アジアにおけるアメリカの防波堤になってもらおう」という意図がありました。1950年代当時はアメリカと旧ソ連との間で冷戦構造が続いている状態で、日本としても共産主義勢力に対抗するために、アメリカ側につかないといけない事情があったのです。ただし、戦後しばらくは、社会党が強大な力を持っていたこともあり、日本の官僚の多くは1955年に、自由党と民主党の合体した自民党が政権を担っても、不安定なものであろうと考えていました」
ではなぜ当初の想定を大きく超えて、自民党は長期一党優位政党であり続けているのだろうか。その理由について小澤教授は「官僚と財界との関係」を挙げる。
「復興期にあった日本の政治において、目下の課題は経済発展でした。そこで当時の通商産業省を中心とした官僚がシナリオを描き、そのシナリオをもとに自民党が政策を作り、国が決めた方針のもとに財界が動く、という役割分担のもとに経済を発展させていきました。財界はさらなる経済発展を遂げられるような法案を国会で通すようにと自民党に圧力をかけ、自民党もそれに応えるかたちで、担当官庁に政策立案を働きかける。いわば財界にとって都合の良い政策を作るように促す中で、政官財による『三位一体』の関係が築かれていったのです」
こうした「三位一体」のもとに、日本は戦後復興に成功し、経済を飛躍的に発展させていった。1950年代にはまだ戦後の焼け野原が残っていたにもかかわらず、1960年の池田隼人内閣では10年間で実質国民総生産を2倍にするという「所得倍増計画」が打ち出され、実際に計画からわずか7年で目標を達成するという快挙を成し遂げたのである。
一方で、長きにわたって自民党と官僚と財界の関係が親密になりすぎると、当然ながら歪みも生じる。
「70年も長期政権が続くと、どうしても利権や人事などで膿が溜まります。『官僚が作成したペーパーを使って答弁する』議員もおりますし、官僚を離職して自民党から議員として出馬する人も多かった。利権獲得に走る議員も増えて、日本の政治が徐々に停滞しつつあります。こうした状況を打破するためには、選挙を通じて、利権志向ではなく、政策志向のスマートな政治家を国会に送っていく必要がある。あくまでも国民主権、新しい世紀の日本政治を作っていくカギを握るのは、皆さんが持つ清き一票なのです」
「政治参謀」と「研究者」の2足のわらじで
政治への関心を深めたニーチェの哲学
小澤教授が政治に関心を持ったのは中学生の頃。プラトンやニーチェ、ホッブス、ヘーゲルなどの政治哲学に触れたことがきっかけだった。
「中学生の頃から激動する国際関係にも関心を持ち始め、日本の政治を民主的に安定させ、強靭性を高めねばという問題意識がありました。プラトン、ニーチェやホッブス、ヘーゲルの政治哲学に関する本を読むようになったのです。特にニーチェは近代社会の腐敗と宗教への依存の中で、新たな世界を作るためには既成の価値観や道徳を超え、自らの意思で新しい価値を創造する『超人(Übermensch)』が必要だと語りました。現代政治においては代議制民主主義が限界で、超人による政治を望むのは難しい面もあります。しかし、大衆民主主義にもさまざまな欠陥があると感じていた当時の私にとっては、ニーチェの思想に可能性を感じたのです」
大学在学中にロシアと中国への内部調査へ
中学生の頃に抱いた政治への思いを胸に、関西学院大学法学部政治学科へと進んだ小澤教授。1970年代後半はまだ米ソの冷戦が続いていたことから、学部時代は米ソの冷戦構造を学び、日本政治に関しては図書館の新聞をコピーしてスクラップするなどして情報収集していたという。
また、大学3年次には旧ソ連に、大学4年次には中国に渡って現地調査を行った。まだ海外旅行が今ほど一般的ではなかったことから、旧ソ連に向かうときには横浜港からプレアミュール号に乗って、シベリア鉄道の東部の終着駅、ナホトカへ向かったという。
「当時の旧ソ連政府には共産主義体制が敷かれ、国家保安委員会(KGB)をはじめとした秘密警察がいるような権威主義国家でした。日本の安全を揺るがす『敵対国』であったことから実際の内部調査をしに行きましたが、人民レベルに行くと皆さん親切で、西側諸国ほどではないにしても、生活物資も揃っていました。この経験から、現地現場主義、実際に現地に足を運び、自分の目で確かめることの大切さを学んだのです。一方、大学4年次に訪れた中国もソ連と同じく共産主義国家でしたが、当時はニクソン大統領の中国訪問を機に米中関係が和解へと転換し、中国はソ連をむしろ『社会帝国主義』と呼んで警戒していました。ですので、中国への訪問は『敵対国の内部調査』ではなく、『5000年の文明を持つ国が一体どのような現代政治をしているのかの観察』を目的としていたのです」
小澤教授はこうした経験をもとに、「アメリカとソ連の中距離核ミサイル(INF)の削減交渉」に関する卒業論文を発表。のちの米国大学院進学の際には、「現代日本政治を専門とする研究者がなぜ積極的に海外の政治に関心を寄せるのか」と、不思議に思う人もいるかもしれない。しかし、米ソ冷戦時代に、周辺国の政治情勢を知ることは、翻って日本の政治の方向性を見定めることにも通じるという。
「もともと領土が小さく、1945年に敗戦国となった日本が独自で立ち上がることはほとんど不可能でした。そのため、日本の周囲の国際情勢が安定しない限りは、日本の未来はなかった。特に日本に関係する旧ソ連や中国、覇権国であり同盟国でもあるアメリカの政治情勢は押さえておくべきだと考えたのです」
大学卒業後に松下政経塾の3期生として入塾
大学在学中にもう一つの大きな転機となったのは、開塾3年目の「松下政経塾との出会い」だった。松下政経塾と言えば、パナソニック株式会社(旧松下電器産業株式会社)の創業者である松下幸之助氏が創設した、将来のリーダーを育成する公益財団法人。当時、各紙の一面を飾るほど大々的に報じられた同塾創設の知らせを見たとき、小澤教授は「運命」とも言うべき強い衝撃を受けたのだという。
「新聞の一面に掲載された記事を見たとき、卒業したら絶対にここに入塾しようと決めました。当時、私は3期生で入塾したため、大学卒業までの2年間は、松下政経塾に入ることを見据えて政治・行政の勉強に取り組めましたが、仮に私がもう数年早く生まれていれば、就職か大学院進学という選択肢しかなかったでしょう。私が大学卒業後のキャリアを考え始める頃に松下政経塾が創設されたことも『運命』のように感じられたのです」
小澤教授を強く魅了したのは、松下幸之助氏が塾主を務めていることだけではない。「知・徳・体」を塾是として掲げた研修内容にもある。
「もちろん大学院レベルの政治や経済の勉強もしましたが、本を読んでレポートを書くだけではなく、剣道や茶道などの日本の伝統に触れたり、塾生同士で毎週政策課題を決めて勉強し、集まったときにディベートや議論をし合ったり、街頭演説の際に困らないようにと演説の勉強をしたりと、より実践的な学びを行いました。それは一般的な大学院のカリキュラムではできない学びです」
大学を卒業する前に松下氏の面接を経て、小澤教授は見事合格し第3期生として入塾。全国から集まった16名の一人として、第95代内閣総理大臣の野田佳彦氏や、日本初の女性首相となった第104代内閣総理大臣の高市早苗氏など、のちに日本を背負うことになる政治家の卵たちと切磋琢磨しながら政治について学んだ。
塾生のほとんどが一般家庭出身で世襲ではなく、政治家になるには、ゼロからスタートを切る人ばかり。政治家志望の塾生が多い中で、小澤教授は政治家を選挙や政策面でサポートする「政治参謀」志望だったという。
「昔から体が強くなかったため、自分の体力や胆力を考えると、政治家になるのは難しいという事情がありました。むしろ裏に控えていろいろな政策を作っているほうが、日本のためになると考えたのです。入塾後はともに学ぶ仲間たちの努力も見ていますから、政治家を目指す同志たちにはできるだけよい政治的成果を残してもらいたい。そんな想いもあり、政治参謀になろうという決意が日増しに強くなっていきました」
アメリカの大学院への留学中に
ロナルド・レーガン大統領と面会
のちに日本を背負って立つ政治家となる同期たちと切磋琢磨しながら、学業に励んだ小澤教授。同塾では一流外部講師たちとの親交も深く、全5年間の同塾在学中にジョンズ・ホプキンス高等国際問題研究大学院(SAIS)への進学を決めたきっかけも、国際政治学者の高坂正堯京都大学教授からのアドバイスによるものだった。
「当時、京都大学で指導に当たられていた高坂正堯教授の京都下加茂のご自宅を訪ね、アメリカでの留学先について相談しました。アメリカ政治について知りたいこと、政治参謀としてキャリアを築きたいことをお伝えしたところ、政治と政策、ビジネスをバランスよく学べて、アメリカの上院や下院で働く議員のサポーターとして活躍する参謀を多く輩出している大学院として、首都ワシントンD.C. にあるジョンズ・ホプキンス高等国際問題研究大学院を勧めていただいたのです」
高坂教授の助言を受けて、同大学院に進学した小澤教授は大学院で学びながら、講義のない日はスミソニアン博物館の研究員も務めた。そこであるパーティーのチケットを入手し、当時の米国大統領であったロナルド・レーガン氏に面会したのだという。
「当時のレーガン氏は『小さな政府』を目指し、大幅な減税、規制緩和、歳出削減などを柱とした『レーガノミックス』などの大胆な政治を行ったことでも知られる勢いのある政治家でした。現地の本やパンフレットなどの政府発表の資料も参考にはなりますが、その人の持つ説得力や人を魅了する力は実際にお会いして握手しないとわかりません。留学中にはレーガン氏をはじめとした影響力の大きい政治家にお会いできたことも、のちの私の研究の糧となっています」
同大学院を修了して帰国後は松下政経塾に戻り、約5年間の在籍を経て同塾を卒業。その後、東京都立大学社会科学研究科政治学専攻にて岡部達味教授に師事し、「現代日本政治」と、日米中ソ各国の国家体制や軍事・経済政策の違いを比較する「比較政治体制論」について学んだという。
日本に関係する国々の政治状況に目を向けるのは、先に述べたように外界の変化を観察しながら、日本の安全を守るためだった。当時は米中の仲がよかったが、1991年の旧ソ連の崩壊後の、日本を取り巻く国際情勢が大きく変わった今、小澤教授は危機感を強める。
「米中の関係が冷え込み、中国が経済発展をして軍事力も強化してきた今、日本は非常に厳しい局面にさらされています。たとえば、中国はロシアと北朝鮮の間で、一種の『ユーラシア同盟』のようなものを構想する『一帯一路政策』を打ち出しています。また、アジア地域では、中国と台湾をめぐる問題や韓国と北朝鮮の分断など、第二次世界大戦後の戦後処理が完全には終わっていません。周辺国に対して武器を使わずにバランス外交で、いかに折り合うかが、日本に課せられた目下の課題となっているのです」
今後は統治機構のあり方の見直しがカギに
多角的な視点で世の中を見つめ、「研究者」と「参謀」という2足のわらじで、現代日本政治を背後から支えてきた小澤教授。今後の日本の政策に関する提言について尋ねたところ、「統治機構のあり方」を見直す必要を挙げ、インフラの再整備や効率的な予算の使い方などにも言及した。
「高市早苗政権下では日本維新の会と連立政権を組んだことで、大阪の『副都心構想』も現実的になりつつあります。東京首都直下型地震が起きる可能性も視野に入れ、統治機構が東京一極集中のままでいいのか、地方を含めて日本全体で発展したほうがいいのではないか。政治・官僚関係の見直し、選挙制度の改革など、バランスのよい統治機構のあり方を見直してみてもいいのかもしれません。また、統治機構のあり方は都市計画にも通じます。たとえば、高度経済成長期に作られたビルや高速道路、上下水道などのインフラの中には50年以上経って経年劣化し、修繕が必要なものも増えてきました。子どもたちに未来をつないでいくためには、新産業の振興のみならず、これまで使ってきたものをリニューアルすることにも予算を割かなければいけない。少子高齢化の進行もあり、今後は財政再建とともに、効率のよい予算の使い方が求められる時代だと考えています」
教員紹介
Profile
小澤 一彦教授
Kazuhiko Ozawa
1959年、大阪市出身。1982年 関西学院大学 法学部 政治学科卒業。同年4月より財団法人松下政経塾の第3期生として活動を開始。その後、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)へ進学し、1986年5月までに修士課程を修了。国際関係学修士号(M.A.)を取得した。帰国後の1993年には、東京都立大学大学院社会科学研究科 政治学専攻にて研究を深める。筑波大学国際関係学類準研究員(文部技官)を経て、桜美林大学短期大学部で専任講師・助教授を歴任。その後、桜美林大学の国際学部に移る。専門は比較政治体制論、国際関係論、日本政治、政策研究など。
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