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エラスムス研究が専門
イタリア戦争と『平和の訴え』
デジデリウス・エラスムス(1466/1469–1536)は、16世紀、すなわち後期ルネサンスを代表する知識人の一人である。その思想と著作の多様さゆえに、「当代随一の知識人」や「宗教改革の先駆者」など、さまざまに称されてきた。しかし、ルネサンスの精神を体現する語としての「人文主義者(ヒューマニスト)」こそ、エラスムスの思想の全体像を最も的確に表す呼称といえるだろう。
1516年、エラスムスは代表作のひとつである『平和の訴え(Querela Pacis)』を著す。この書は、彼の平和思想を端的に示すものであり、人間の本性への省察、平和構築の理念、そして為政者や君主への提言を含んでいる。その内容は、500年を経た現代においてもなお、普遍的な平和論として読み継がれる価値を持っている。一方で、本書には16世紀ヨーロッパの政治的文脈を踏まえなければ理解が難しい箇所も多く、当時の歴史的背景を抜きにしてその真意を捉えることはできない。
リベラルアーツ学群の海津淳准教授は、こうした背景に深く迫るため、イタリア戦争との関係性に注目し、『平和の訴え』の成立と思想的意義をエラスムスの書簡資料を通して探究している。
独立の立場を保ったエラスムス
15世紀末、フランスやスペインなどが中央集権的な国家を築く一方、イタリア半島はミラノ、ヴェネツィア、フィレンツェ、ナポリ、教皇領といった都市国家が並び立つ分立状態にあった。そんな中の1494年、フランス王シャルル8世はナポリ王位の継承権を主張して大軍を率い、アルプスを越えて侵攻。抵抗を受けることなくナポリを占領したが、翌年には教皇、スペイン、神聖ローマ帝国などによる神聖同盟の反撃に遭い、撤退を余儀なくされた。以後、フランスとスペインを軸に列強の覇権争いが続き、イタリアはおよそ60年にわたり戦場となる。これをイタリア戦争という。
宗教的権威と世俗政治の領域が複雑に絡み合い、教皇ユリウス2世自らが軍を率いる事態も生じた。連続する戦争はヨーロッパ社会を疲弊させ、信仰を掲げながら互いに争うキリスト教徒の姿に、エラスムスは深い憂慮を覚えていた。そうした状況の中で、ブルゴーニュ宮廷の重臣ジャン・ル・ソヴァージュの依頼により、1516年に著したのが『平和の訴え』である。
「当時、宮廷に仕える人文主義者も少なくありませんでしたが、エラスムスは、どの君主にも仕えず、国家的にも相対的に独立した立場をとっていました。ただし、1516年頃からは例外的に、ブルゴーニュ公シャルル(後の神聖ローマ皇帝カール5世)の名誉顧問としてブルゴーニュとの関わりを持つようになります」
ブルゴーニュ公シャルルは、母方の祖父にスペイン王フェルナンド、父方の祖父にハプスブルク家のマクシミリアン1世をもち、その血統からスペイン王位を継承することになった。ブルゴーニュ公として、またハプスブルク家の一員として、フランスとスペインの対立の渦中に立たされることになった彼は、当時まだ10代後半の若さだった。「イタリアの覇権をめぐって、フランスとスペインはこの戦争における対立の主軸をなしていました。ブルゴーニュ公であったシャルルが母方の祖父からスペイン王位を継承するに至って、彼はこの二国間の抗争の当事者たることを余儀なくされます。当時フランス・スペイン間ではノワイヨン条約によって和平が維持されていましたが、戦争再開を望む勢力も存在し、これに対して平和維持のために奔走していたル・ソヴァージュがエラスムスに依頼したのが『平和の訴え』の執筆でした」
エラスムスとマキアヴェッリ
『平和の訴え』はしばしば理想主義的な平和論として受け止められがちだが、ノワイヨン条約の安定化やカンブレー条約の締結を企図した、より現実的な政治的意味をもっていると海津准教授は語る。そうした中で、エラスムスの立場も、必ずしも中立的というわけではないという。
「作品全体は“平和(の神)”による人間とその絶え間ない戦争への批判として執筆されています。しかし歴史的背景とともにその文面を読み解くと、ル・ソヴァージュらブルゴーニュ宮廷の和平推進派の意図との一致が認められます。それでも、彼の視点は俯瞰的で独立したものであり、その姿勢に変わりはないということができるでしょう」
エラスムスと対照的な思想家として、『君主論』で知られるマキアヴェッリ(1469-1527)がいる。おそらく同年に生まれながら、二人の立ち位置は大きく異なっていた。エラスムスが基本的にどの君主にも仕えなかったのに対し、マキアヴェッリはフィレンツェ共和国の書記官・外交官として政治の最前線に立ち、『君主論』を著した。
「『目的のためには手段を選ばず』というイメージでのみ語られがちなマキアヴェッリですが、実際にはイタリア戦争の現場で、フィレンツェという国家をいかに守るかという課題に対峙した人物です。『君主は常に戦争に備えるべきである』『国民軍こそ必要である』といった主張は、その国家的危機から生まれました」
一方のエラスムスは、政治の現実を踏まえながらも、戦争がもたらす痛みや損失に鋭いまなざしを注いだ。どの国家にも全面的には与しない独立した立場から、「国境を超えて平和を構想する知性」として時代を見据えていた。
書簡から読み取るエラスムスの諸相
シャルルに託した叡智
エラスムスが若きシャルルに宛てた書簡には、「叡智」をはじめとする徳の重要性を説く記述がみられる。海津准教授によれば、エラスムスの著作にはストア派の倫理観が色濃く反映されており、エラスムスが示す“国家の枠を超えて人間を捉える視点”、すなわちコスモポリタニズムがうかがえるという。コスモポリタニズムとは、国家や民族を越えて人々を一つの共同体として捉え、自らを「世界市民」と位置づける考え方を指す。
「シャルルへの書簡には、単なる理想的な君主像の提示のみならず、現実の政治状況を踏まえた希求が込められています。広大な領域を継承する若き君主に対し、抽象的な理念を語るだけでなく、時代が抱える緊張や不安に対して、古典古代の例を示しながら叡智を重視しこれに基づく統治を説いているのです」
『平和の訴え』に込められた普遍的な平和思想の背後には、混乱の時代に生きる統治者への現実的な期待と警告が息づいている。理想にとどまらず、複雑な国際情勢を踏まえ統治者のなすべき根本的な政治判断を求めるエラスムスの視線。そこに浮かび上がるのは、一人の人文主義者であり、変動するヨーロッパの情勢を冷静に見据えた思索者としてのエラスムスの姿である。
トマス・モアとの友好からみるエラスムスの政治ネットワーク
エラスムスの生涯において、最も深い友情を結んだ相手の一人がトマス・モア(1478〜1535)である。両者の往復書簡には、イタリア戦争のさなかにも交流が続いていた様子が記録されている。イングランドの政界で頭角を現し、最終的に大法官へと上りつめるモアと親しく交わったことは、エラスムスが当時のヨーロッパで形成された政治的ネットワークと密接につながっていた事実を物語っている。
「エラスムス自身は特定の権力に仕えることを避けましたが、トマス・モアのような高位の官職に就く人物と友好関係を築いていました。これは、彼が政治の周縁にいながら、ヨーロッパ各地の重要人物と接点を持ち続けていたことを示しています。『平和の訴え』が単なる理想論ではなく、複雑な政治構造を熟知した人文主義者による提言であることは、このような交友関係からも読み取れます。理想と現実をともに見据えて書かれたからこそ、今日でも読み継がれる意義があるといえるでしょう」
幼少期からヨーロッパ芸術に惹かれ、フランス留学も経験
17〜18世紀の西洋音楽に魅了された
海津准教授は、幼い頃からヨーロッパ文化に関心を抱いていたという。その原点は音楽にある。小学生の頃からピアノに親しみ、音楽を入り口にして、ヨーロッパの芸術全般に触れていくようになった。
「音楽を続けていくうちに、自分の好みが少しずつはっきりしてきて、特に17〜18世紀の音楽に惹かれるようになりました。それらの様式とパイプオルガンやチェンバロの響きは魅力的で、また、美術に関してもバロック期の作品が好きでした」
学部時代にエラスムスと出会う
大学では、音楽分野ではなく神学部へと進学した海津准教授。授業やレポート課題などを通してさまざまな哲学者や思想家に触れる中で、特に心を惹かれたのがエラスムスだった。
「エラスムスは、宗教改革の中心人物であったマルティン・ルターと同時代を生きた思想家。ルターがプロテスタントとして改革を進めた一方で、エラスムスはカトリックを批判しながらもルターの活動に与することはなかった。その立場は、しばしば曖昧・優柔不断と批判されますが、私はむしろそこに確固たる姿を感じました」
党派に分かれる時代の中で、自らの思索に基づいて中庸を貫いたエラスムス。その姿勢に、海津准教授は深い共感を覚えたのだ。
フランスに留学し、オルガンとチェンバロを学ぶ
大学院までエラスムスの研究を続けていた海津准教授は、卒業後、フランスへの留学を経験する。
「学部時代、授業ではドイツ語が必修だったのですが、フランスの芸術に惹かれていたこともあり、学外でフランス語を学んでいました。そんな折、フランスの音楽院からオルガニストの先生が演奏においでになりましたが、その演奏の典雅さは類のないものでした。フランス語の先生が偶然オルガニストの先生とつながりがあり、そこから話が進み留学が決まりました」
留学先はフランス南東部の都市・グルノーブルにある音楽院。もともと音楽教育を専門的に受けていたわけではなかったため、一から学び直す思いだったという。現地ではオルガニストの先生のもとで学びながら、他の授業も受講。勧められてチェンバロの演奏も学んだ。
「フランスには5年ほど滞在しましたが、留学して本当によかったと感じています。音楽が日常に溶け込み、演奏会も身近にある。石造りの教会でオルガンを響かせたときの音の広がりは、その空間でしか体感できないものでした。作曲家の意図やフランス音楽の様式も、その国固有の楽器・空間で演奏することで明瞭に理解できますし、言葉の感覚も重要な要素です。無論、先生の演奏、音楽観、人柄との邂逅は得難いものとなりました。」
現代にも通じるエラスムスの思想
コスモポリタニズムの視点から人類社会を見つめ直す
イタリア戦争期に交わされたエラスムスの書簡を手がかりに、『平和の訴え』とその思想的背景を読み解いている海津准教授。エラスムスは「コスモポリタニズム」を標榜する思想家として評されるが、それは彼の著作や書簡の中に確認できるという。
「『世界は人類共通の祖国ではないか』という言葉をエラスムスは残しています。これは、人間を宇宙の一員とみなすストア派の思想につながっています。さらに彼は、君主には『公共の利益』を重視する姿勢を促しましたが、この公共の概念も古代ローマの伝統に連なるものです。私自身、彼のこうしたコスモポリタン的な視点に強く惹かれてきました。学生時代、宗教改革で中庸を貫いたエラスムスに共感を覚えましたが、今もそれは変わりません。彼の中庸の精神とコスモポリタニズムはその思想の根幹をなす重要な要素だと思います」
500年を経た現代においても、エラスムスの思想は色あせない。世界にはなお戦争や対立があり、人類社会は絶えず分断の危機にさらされている。
「現代の問題に対処することは重要ですが、同時に過去を見つめ直す視点も欠かせません。歴史に学ぶことは、より良い未来を構想するうえで大きな指針になるからです。近年よく語られる『分断』という課題に対しても、コスモポリタニズムは大きな示唆を与えてくれます。国籍、人種、民族、宗教といった枠組みを超え、広い視野から人類社会を捉え直す思考が、現代においてますます重要になっているのだと思います」
教員紹介
Profile
海津 淳准教授
Jun Kaidu
同志社大学大学院 神学研究科 歴史神学専攻 修士課程修了 神学修士。Conservatoire national de région de Grenoble /classe supérieure d’orgue/ 修了。埼玉大学大学院 人文社会科学研究科 博士課程単位取得満期退学。ヨーロッパ思想史・文化を専門とし、思想史ではルネサンス期のエラスムスの思想、桜美林大学とも関わりの深いJ. F. オベルラン(オベリン)の教育思想が対象。文化では、17〜18世紀のフランス、イタリア鍵盤音楽に関して演奏も含めて研究している。
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