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19世紀末〜20世紀初頭のイギリス小説
細部に映し出される当時の時代背景
19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したイギリスの小説家トーマス・ハーディの長編小説『日陰者ジュード』は、学問への強い憧れを抱く貧しい石工ジュードの生を描いた作品である。独学で大学進学を目指すも挫折し、世俗的な価値観を体現する女性アラベラとの結婚、知的で進歩的な従妹スーとの関係を通して、身分制度や社会的制約、キリスト教道徳といったヴィクトリア朝社会の因習に翻弄されていく。理想と現実の狭間で苦悩し続けた末、破滅へと向かうジュードの姿は、近代化の進む時代に生きた人々の悲劇を象徴している。
本作には、インチキ薬、いわゆる専売薬を売り歩くヴィルバードという人物が繰り返し登場する。物語の中心人物ではないものの、その存在は作品の時代背景を読み解く上で示唆的だと、リベラルアーツ学群の糸多郁子教授は指摘する。
「専売薬は、どの作品にも頻出するというほどではありませんが、19世紀末から20世紀初頭の文学ではしばしば見られるモチーフです。もっともはっきり描かれているのは、H・G・ウェルズの『トーノ・バンゲイ』でしょう。この時代は、専売薬が大衆社会に広く浸透していった時期でした。ヴィルバードのような人物が物語にたびたび顔を出すのは、そうした社会状況が小説の中に反映されていると考えられます」
さらに糸多教授は、専売薬が当時抱えていた曖昧さにも注目する。専売薬は医学的に公的な認証を受けたものではなく、国家の側から見れば、無制限に流通することは国民の健康管理の面で問題でもあったという。
「戦争の多い時代、国民の身体を統治対象とする近代国家の文脈においても、専売薬は看過できない存在だったのです」
ヴィルバードは物語の展開を左右する重要人物ではない。しかし、その反復的な登場は、近代化が進む社会の不安や矛盾を静かに物語っている。細部に目を向けることで、『日陰者ジュード』は単なる個人の悲劇を超え、時代そのものを映し出す文学作品として立ち現れてくるのである。
労働者階級を描いたハーディとロレンス
糸多教授は、19世紀末から20世紀初頭のイギリス小説、とりわけトーマス・ハーディとD・H・ロレンスを専門としている。2人が活躍したこの時代のイギリス社会は、大きな転換期にあった。産業革命を経たイギリスは、「世界の工場」と称されるほどの工業力を背景に、圧倒的な経済力と軍事力を手にし、自由貿易を掲げながら世界的な覇権国家へと躍進していく。一方で、その繁栄の裏側では、工業化に伴う社会構造の変化や階級の分断が顕在化していた。文学の世界でも、この時代はヴィクトリア朝的価値観からモダニズムへと移行していく過渡期にあたる。
「文学的にも、大きな転換点の時代です。ハーディはヴィクトリア朝と時代的に重なりながらも、労働社会や近代化の問題を先取りするような作品を書いている。その点に非常に面白さがあります」
ハーディとロレンスはいずれも労働者階級の出身であり、労働者の社会や生活を内側から描き得た作家だった。それまでのイギリス文学は、主としてエリート階級の作家によって担われており、仮に労働者が描かれたとしても、その表象は限定的で、解像度の高いものとは言い難かった。ハーディやロレンスは、そうした従来の文学では捉えきれなかった世界を、自らの経験を通して作品に刻み込んだのである。
産業革命によって資本家階級と労働者階級が明確化するなかで、「イギリスとは何か」という問いも、彼らの作品内でテーマの一つになっていく。近代化と大衆化の進行は、ロレンス『ロスト・ガール』におけるミュージックホールの描写にも象徴的に表れている。ミュージックホールとは、19世紀に酒場を起源として成立した大衆向け娯楽施設であり、歌やコメディ、曲芸など多様な演目が上演され、飲食を楽しみながら観覧する形式を特徴とする。
「ロレンスは社会階級そのものを主題化する作家というよりも、個人の内面や欲望に強い関心を向けた作家ですが、労働者階級の問題を取り上げた作品も存在し、その中のひとつである『ロスト・ガール』には労働者が登場します。アメリカ的な映画文化が流入する中で、ミュージックホールが衰退していく。その過程を、登場人物は批判的に見つめ、失われゆくものへの哀惜を語ります。産業革命以降に拡大した労働者階級が、アメリカ的な大衆文化として描かれる一方で、ミュージックホールにはイギリス的な民衆文化が重ね合わされているのです」
そこには、変わりゆく社会の中で失われていく「イングリッシュネス」への郷愁が読み取れるという。ハーディもロレンスも、作品の中にイギリス的なるものをとどめようとした作家だったといえる。その一方で、2人の表現姿勢には違いもある。ハーディは、労働者階級の姿をどこか抑制的に、美化されたかたちで描く側面を持っていた。一方ロレンスは、社会的モラルや禁忌を踏み越え、より生々しい欲望や性を描き出した作家でもあるという。
「民衆文化というと、どこか清潔で理想化されたイメージがありますが、大衆文化になると、労働者の粗さや猥雑さが前景化してくる。ハーディの時代には、それをある程度隠しながら描かざるを得ない空気があった。一方でロレンスは、そうした制約を越えて書いてしまった作家です。『チャタレイ夫人の恋人』に見られる露骨な性描写は、その象徴でしょう」
イングリッシュネスとは何か
イングリッシュネスとは何かと問われると、実のところ非常に虚構的な概念でもあると糸多教授は語る。しばしばそれは、産業革命以前の農村風景や共同体的な社会として語られてきた。しかし、そのイメージは必ずしも牧歌的な理想郷としてのみ存在していたわけではない。
たとえば、トーマス・ハーディの『テス』は農村社会を舞台にしながらも、過去の農村を「幸福で調和の取れた世界」として描く作品ではない。そこに生きる人々の貧困や苦悩、逃れがたい困難が、むしろ丹念に描き出されている。
「ハーディは、平和的で牧歌的だと語られがちな農村の内部にある厳しさや不条理を描いた作家です。産業革命によって工業化の波が農村にも押し寄せ、貧困が拡大していった。その変化の中で、農村はもはや自給的に成り立つ場所ではなくなっていきました」
『テス』の物語も、まさにそうした時代の転換を背景にしている。主人公テスの一家は、当初は小規模な農場で生計を立てていたが、時代の変化とともに大規模化・効率化された農業に太刀打ちできなくなり、農場を離れて労働者として働かざるを得なくなる。運送業などの不安定な労働に従事しながら、次第に追い詰められていく一家の姿は、産業革命が農村社会にもたらした構造的な変容を象徴している。
糸多教授は、こうした描写こそがイングリッシュネスを考えるうえで重要だと指摘する。懐かしさや郷愁として語られる農村像の背後には、近代化の過程で押しつぶされていった民衆の現実がある。ハーディの文学は、その理想化されたイメージを相対化し、イングリッシュネスの内実を批評的に浮かび上がらせているのである。
文学は、複層性を楽しむ学問
父が集めた本を読んでいった中学時代
糸多教授は、中学生の頃から小説に親しんできた。とくに明治期の文学をよく読んでいたという。
「夏目漱石や芥川龍之介、太宰治、武者小路実篤といった作家の作品には触れていましたが、誰か一人の作家に傾倒するというより、幅広く手に取って読んでいました。新しい文学よりも、なぜか明治期の作品ばかり読んでいました。今振り返ると少し不思議ですね」
読書は、親から勧められたものではなかった。家には本があふれており、自然と本に囲まれた環境で育ったのだという。
「父は普通の会社員でしたが、とにかく本好きで、家が潰れるのではないかと思うほど本がありました。文学だけでなく、歴史や政治に関する本も多く、その中から手に取りやすい小説を選んで読んでいたのです」
こうした経験から、大学進学の際には日本文学を専攻することも考えていた。しかし、進路を考える中で、「文学をやるにしても、英語力があったほうが将来の選択肢が広がるのではないか」と両親から助言を受け、英文学科への進学を決めたという。
「当初は英文学に特別な関心があったわけではありませんでした。しかし、英語を学び、授業の中で英文学の短編小説などを読むうちに、次第に面白さを感じるようになっていきました。最初は、純粋に物語としての面白さでしたね。英文学との最初の強い出合いとなったのが、トーマス・ハーディの『テス』でした。大学1年次、まずは日本語訳で読みました」
物語を深く理解するには背景知識も大切
糸多教授は、英文学への関心を強める中で、異なる文化圏の物語を読む以上、その社会的・歴史的背景への理解が不可欠であることを実感していったという。
「たとえばハーディの『テス』も、一見すると“悲劇的な運命に翻弄される少女”の物語に見えます。しかし、当時の社会状況を踏まえて読むと、それほど単純ではないことがはっきりしてくる。運命に翻弄された哀れな女性というだけではなく、女性の欲望をめぐる物語でもあることが見えてくるのです」
もっとも、ヴィクトリア朝社会において、女性の欲望を正面から描くことは許されなかった。そのためハーディは、悲劇という形式を通して、それを間接的に表現せざるを得なかったのだという。
「物語には、書かれている内容そのものだけでなく、それを取り巻く社会や価値観、さらには語られなかったものまで含めた、複数の層があります」
授業を通して、物語に潜む多重的な意味を探り、見つけ、考えていく過程は、糸多教授にとって大きな手応えのある経験だった。
「文学は、複層性そのものを楽しむ学問だと思っています。たとえば仕事のメールのような実用文では、意味が重なりすぎると誤解を生みますが、文学ではむしろ、意味が何層にも重なっていること自体が魅力になります」
大学時代の卒業論文はハーディを対象にした。しかし、他の小説家も研究した方がハーディに対しても異なる視座が得られるのではないかと考えた糸多教授は、大学院では主にロレンスを研究対象とした。
自分の価値観が絶対ではないと理解すること
ロレンスが過ごしたノッティンガム
19世紀末から20世紀初頭のイギリス文学の魅力は、しばしば王室文化や上流階級の優雅な生活といった「美しいイギリス」だけでは語り尽くせない点にある。芝生の上で貴族が紅茶を楽しむ——ジェーン・オースティン的な世界は確かに一つのイメージだが、そうした人々は社会全体から見れば少数派にすぎない。糸多教授は、イギリス文学の重要な背景として、むしろ労働者階級が生きる現実の世界があると指摘する。
糸多教授が留学していたノッティンガムは、まさにその現実を体感できる産業都市だったという。ノッティンガムは、ロレンスが生まれ育った街でもあり、彼の文学を理解するうえで欠かせない場所でもある。
「私が留学していた1990年代のノッティンガムは、典型的な労働者階級の街でした。工場や倉庫が多く、住宅も茶色いレンガ造りの集合住宅が目立つ。イギリスには南と北でまったく異なる2つの世界があると言われますが、実際に生活してみて、風景や空気感が大きく違うことを強く感じました」
当時の大学生活でも、階級の違いは日常の中に自然と表れていたという。
「学生同士でも、労働者階級と中産階級では、いつの間にか別のグループになっていました。労働者階級の学生と一緒に歩いていて、少し高級そうな店の前を通りかかると、『私たちはこういう店には行かないの』と言われたことがあって、とても印象に残っています」
文学を通して他者の人生をシミュレートする
文学を読むことの面白さや意義について、「何の役に立つのかわからない」と感じる人も少なくないだろうと、糸多教授は語る。しかし、物語を読む行為そのものが、多様な人生を疑似体験する営みになるという。
「多様な登場人物の人生を追体験することで、自分とは異なる価値観や考え方を理解する力が養われます。それは、人生のシミュレーションを重ねることでもあり、生きていくうえでの知恵を与えてくれるものです。人と関わるとき、自分の価値観が絶対ではないと理解することが大切です。たとえ同じ日本人同士であっても、育ってきた環境や文化背景は異なります。文学を読むことで、『相手にはこういう立場や考え方があるのかもしれない』と想像する習慣が身につく。その積み重ねが、人と向き合う力を育てていくのだと思います」
とりわけイギリス小説は、現実社会に根差した描写が多く、人生のさまざまな局面を具体的に想像させてくれる点が特徴だという。若いときだけでなく、年を重ねた先の生き方まで視野に入れて考える契機にもなり得る。
初めてイギリス文学に触れるのであれば、短編や比較的読みやすい作品がおすすめだと糸多教授は語る。SFものの嚆矢とされるH・G・ウェルズの『タイム・マシン』や、ハーディやロレンスなどの小説家による短編小説は読みやすく、入口として適しているという。また、ヴィクトリア朝の小説も魅力的だという。
「ヴィクトリア朝の作品は、物語の筋そのものが非常によくできています。結婚や死といったわかりやすい結末を持つ“小説らしい小説”が多く、読者を物語の力で引き込む。20世紀に入るとモダニズムの影響で、必ずしも筋の面白さを重視しない作品も増えますが、ヴィクトリア朝の小説は初心者にも親しみやすい。ブロンテ姉妹やジェーン・オースティンの作品は、比較的分量も抑えられているので、ぜひ手に取ってみてほしいですね」
教員紹介
Profile
糸多 郁子教授
Ikuko Itoda
1964年東京出身。津田塾大学大学院 文学研究科 博士課程単位取得満期退学。津田塾大学 学芸学部英文学科 研究助手 (専任)を経て、1997年に桜美林短期大学に着任。その後桜美林大学に移り、2009年度より現職。19世紀末〜20世紀初頭のイギリス小説、特にトーマス・ハーディとD・H・ロレンスを専門としている。共著に『ロレンスと新理論』(国書刊行会)、『愛と戦いのイギリス文化史』(慶應義塾大学出版会)、『食文化からイギリスを知るための55章』(明石書店)など他多数。
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