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専門は古代ギリシア哲学
古代ギリシアにおけるコスモロジー
私たちが生きているこの宇宙は、いったい誰によって、どのようにつくられたのか。
古代ギリシアの哲学者プラトンは、著書『ティマイオス』で、宇宙を創造したのは「善そのもの」を模倣しようとした理性的な存在、デミウルゴスであると述べている。古代ギリシア哲学を専門とするリベラルアーツ学群の田中一孝准教授は、「宇宙のすべては調和のもとに設計されている」というプラトンの思想について語る。
「いつも同じように昇っては沈む太陽や運行する星々を見て、古代の人々は宇宙を“永遠性の象徴”として捉えていました。それは、人間の頭部が丸い形をしていることにも通じています。プラトンによれば、人間の頭部は円運動をする天体と対応しており、身体の形も血液が円滑にめぐるように整えられているといいます。つまり、宇宙の回転運動と人間の身体は調和しており、創造主がその秩序を意図して形づくったと考えられるのです」
さらに田中准教授は、『法律』篇におけるプラトンの乳幼児教育論にも、同じ宇宙観が一貫していると指摘する。そこでは、母親が赤子をあやす際の身体的な揺れが、恐怖や悲しみを凌駕し、魂に働きかける教育的行為であると説かれている。
「赤ちゃんをあやすとき、上下に激しく揺らすのではなく、円を描くように優しく揺らしますよね。それが自然に感じられるのは、人間が円運動に心地よさを覚えるからだとプラトンはいいます。なぜなら、円運動は永遠的で安定的だからです。天体の運動と同じように、季節や暦も循環的であるように、私たちの世界そのものが円環のリズムで成り立っているのです。だからこそ、人間社会もそのサイクルに合わせて動くほうがうまくいく。プラトンはそう考えていたのです」
世界とは? わたしとは?
「人間もまた宇宙を構成する一つのパーツにすぎない」と田中准教授は語る。私たちが生きるこの世界や宇宙はどのように成り立っているのか。その根源的な問いへの関心が、研究の原点にあるという。古代ギリシアの思想は、その謎を解くための重要な手がかりになる。
「この世界とは何なのか。生きるとはどういうことなのか。そうした問いを、大人になってもぐずぐずと考え続けている、といえばそうなのだと思います。自分がなぜ生まれ、やがて死んでいくのか。少し大げさに聞こえるかもしれませんが、そうした根源的な疑問を理解したいという思いが、いまの研究につながっています」
古代ギリシアの人々の考え方がスカッとした
浪人時代に文学に熱中
田中准教授の研究の原点は、大学受験の浪人時代にある。当初は哲学よりも文学に惹かれ、文学全般に強い関心を抱いていたという。きっかけとなったのは、予備校の本棚に並んでいたドストエフスキーの『賭博者』(新潮文庫)だった。
「『賭博者』は、ルーレットに魅せられた家庭教師アレクセイが、愛するポリーナや周囲の人々に翻弄されながら破滅へと向かっていく物語です。ギリギリのところで生きる登場人物の姿が、当時の自分の心境に妙に重なったんですね。浪人生活のなかで将来を思い悩むことも多く、ひりつくような生の感覚に共鳴したのだと思います」
それ以来、本屋に並ぶ古典文学を片端から手に取るようになった。「何が有名なのかもあまりわからなかったので、とりあえず岩波文庫や新潮文庫の古典を順に読んでいきました」と当時を振り返る。なかでも印象に残っているのが、中島敦の『わが西遊記』(講談社文芸文庫)だという。
「沙悟浄が主人公の物語で、彼が人生に悩みながら他者との関わりのなかで何かを掴もうとする姿に共感しました。これもやはり、浪人時代という、自分と向き合う時期に読んだからこそ、そうした物語に強く引き寄せられたのだと思います」
読書の過程で古代ギリシアに出合う
大学に入学してからも、田中准教授は読書に没頭していた。そんなある日、古代ギリシアの著作に出合う。手に取ったのは、クセノポンの『アナバシス』だった。ペルシア帝国の内戦に敗れたギリシアの傭兵部隊が、約1万数千人の兵を率いて6,000キロもの敵地から脱出する——その壮絶な遠征の記録である。
「『アナバシス』を読んでまず感じたのは、ギリシア人たちの議論の仕方がとても理にかなっていることでした。彼らの思考は曖昧さがなく、演説や討論も筋が通っている。そんな理性的な姿勢に強く惹かれたのです」
なかでも、田中准教授が深く共鳴したのは「自らの信念に従う」という古代ギリシアの精神だった。自分で正しいと信じたことを貫く。その徹底した自律の姿勢に感銘を受けたという。
「ソクラテスもまさにそうですよね。『神々を信じず、若者を堕落させた』という嫌疑で死刑を宣告されても、彼は逃げずに毒杯をあおった。民主的に決定された法に従うこと、そして“不正を犯して生きるよりも、正しく死ぬ”ことを選んだ。そうした姿勢にスカッとするような清々しさを感じました」
ミーメーシスからコスモロジーへ
古代ギリシアの思想に惹かれた田中准教授は、大学のゼミナールでも自然とその世界へと進んでいった。
「ゼミの仲間はみんな熱心で、議論が本当に楽しかったですね。やると決めたらやり抜くという、どこか古代ギリシア人を思わせるような雰囲気がありました。授業ではテキストを丹念に読み込み、それぞれの解釈をぶつけ合う。毎回が知的な真剣勝負のようでした」
そのなかで田中准教授が博士課程で選んだ研究テーマは、「古代ギリシアにおける模倣(ミーメーシス)」だった。
「もともと文学に関心があったので、プラトンが芸術についてどう考えていたのかに興味を持ったのが出発点でした。文献を読み進めるうちに、プラトンが“文学や芸術は現実の模倣にすぎず、真理には届かない”と述べていることを知りました。そしてこの“模倣”という概念が、彼の宇宙観にも深く関わっていた。つまり、私たちが生きているこの世界は、理想世界の“模倣”として成り立っているというわけです。では、模倣された世界に生きる“わたし”とは何なのか。その問いはいまも私の研究の根底にあります」
西洋古典学×AI
西洋古典学研究の民主化
田中准教授は、西洋古典学を長年にわたって研究するなかで、この分野を研究することの難しさにも向き合ってきた。ギリシア語やラテン語はもちろん、英語、ドイツ語、フランス語などの習得も求められるうえ、膨大な文献の読解にも根気がいる。その学習コストの高さゆえに、志半ばで研究の道を断念する人も少なくないという。
「古代ギリシアの研究は大変です。言語の壁もありますし、研究を続けても社会的な名誉や経済的な報酬に必ずしも結びつくわけではない。もう少しハードルを下げられないかと、常に考えてきました。私は哲学の議論そのものが好きなので、同じ関心を持つ仲間が減ってしまうと、議論を交わせる相手も少なくなり、どこか寂しさを感じていました」
人類の知的遺産である西洋古典は、限られた研究者だけが難しい顔をして味わうものではなく、多くの人に開かれたものであるべきだと田中准教授は語る。そうした思いを込め、田中准教授は「西洋古典学研究の民主化」に取り組んでいる。
「翻訳の出版やインターネットでの公開によって、西洋古典学へのアクセスは確かに広がってきました。しかし、文献の読み方や背景知識がなければ、古代人の思考世界はあまりに遠く、なかなか味わい尽くすことができません。たとえアクセスが確保されていても、理解が難しければ諦めてしまう。この隔たりをどう埋めるか。そこでAIを使ってみようと思ったのです」
大規模言語モデル(LLM)を用いたシステムを開発
田中准教授は、西洋古典学研究の専門的な知識や研究成果に誰もが気軽に触れられるようにするため、AIを活用した新たな研究支援システムの構築に乗り出した。
「他大学の共同研究者と協力し、大規模言語モデル(LLM)を基盤としたシステムを開発しました。バイブコーディングという手法を使い、自分ではほとんどコードを書かずに、AIに生成してもらう形で開発を進めました。構想を始めたのは2023年6月頃で、およそ1年後にはリリースに至りました」
完成したシステムには、原文データや長年にわたる研究成果が組み込まれており、利用者はチャットを通して、それらの知見を活用しながら研究を進めることができる。このシステムは「Humanitext Antiqua」と名付けられ、すでに一般公開されている。さらに、ヒューマニテクストシリーズとして、文学の日本最大のデジタルライブラリーである青空文庫のデータを活用した「Humanitext Aozora」も公開されている。
ヒューマニテクストを授業で積極的に活用
田中准教授は、開発したAIシステム「Humanitext Antiqua」を自身の授業でも積極的に活用している。レポート課題の際などに使ってもらうと、学生たちは思いもよらぬ視点からテーマを見つけ出してくるという。
たとえば、学生たちからは次のようなテーマが挙がった。
・古代ローマの兵士は戦場でどんなジョークを言っていたのか
・古代ギリシアの巫女の一日はどのようなものだったのか
・古代ギリシアの人々は口臭対策をしていたのか
・古代ギリシア人のモーニングルーティンとは
・古典期のスラングや悪口にはどんなものがあったか
「学生が取り上げるテーマは、実に多様です。歴史学や文化人類学、宗教学など、さまざまな角度から掘り下げられる。専門家でも思いつかないようなユニークな視点が次々と出てきます。しかも、しっかり調べればどのテーマも専門的な研究論文に発展しうる。学生の創造力に、こちらが驚かされることもしばしばです」
ヒューマニテクストは原文の引用や出典を明示するため、信頼性の高い情報を得ることができる。一般的な検索のようにキーワード一致を探すのではなく、意味の類似性をもとに文献を抽出するため、広範な情報を網羅的に拾い上げられる点も特徴だ。
「たとえば、モーニングルーティンというテーマで検索すると、数学者ピタゴラスの文献や、『博物誌』で知られるプリニウスの文献などが挙がってきます。特定の学問分野に縛られず、あらゆる領域を横断的に結びつけます」
こうした分野横断的な探究こそが、田中准教授がこれからの学問に期待する方向性だ。
「これまでの学問は細分化と専門化によって発展してきましたが、今後は知の統合の時代になるでしょう。異なる分野を結びつけ、新しい知を創り出す。AIはその動きを大きく後押ししていると思います。また、桜美林大学のリベラルアーツ学群は、その理念を体現していると言えるでしょう。あらゆるものに関心を持ち、つなげて考えることができる場です。まさに、こういう時代が来たのだとワクワクしています」
現代に蘇ったソクラテスと対話できる!?
ヒューマニテクストはテキストベースのAIシステムだが、今後は音声や対話を中心としたAIが普及していくと田中准教授は見ている。その一歩として構想したのが、「AIソクラテス」だ。
AIソクラテスは、2025年6月28日(土)から7月21日(月・祝)まで東京・渋谷の「マイラボ渋谷」で開催された体験型展示イベント「BAR・AIソクラテス展」に登場。来場者は画面に映し出されたソクラテスと対話し、古代ギリシアの哲学問答をリアルに体験した。
パリピなソクラテスがあなたの価値観を問い直す!? LA学群田中一孝准教授らがマイラボ渋谷で「BAR AIソクラテス展」を開催|桜美林大学
もっとも、これは完全な再現を目指したものではない。むしろ「模倣であること」を強調しているのだという。
「AIソクラテスは、あえて派手なビジュアルにしています。本物のソクラテスだと思われないように、少しナンセンスにしているのです。プラトン的に言えば、これは“模倣の産物”であり、その点をむしろ明確にしている。ヒューマニテクストも同様で、膨大な知識を詰め込んだ“専門家のようなもの”ではある。しかし、あくまで専門家そのものではない。真理に近づきたいなら、自ら文献を読み、探究を深めていく必要があります」
AIは思考を代替する存在ではなく、思考へと向かうステップだと位置づける。その上で田中准教授は、AIがもたらす研究支援の可能性を強調する。
「AIを使えば、研究の初期段階を圧倒的にスピーディに進められます。ヒューマニテクストもAIソクラテスも、研究者がより深い問いに到達するための助走装置なのです」
めざすは「1億総哲学者」の時代
これまで哲学的な議論を行うには、人と向き合って対話する必要があった。しかし、それには心理的なハードルもある。田中准教授は、AIの登場によってその壁が大きく下がったと語る。
「今はAIが対話の相手になってくれます。膨大な知識を蓄えたAIと問答を重ねることで、哲学的な思考力を鍛えられると思っています」
田中准教授が思い描くのは、「1億総哲学者」の時代だ。ヒューマニテクストを通じて、誰もが通勤電車の20分や高校の休み時間に哲学的な対話を楽しむ。そんな日常が広がれば、社会そのものが豊かになると語る。プラトンは理想国家を築く条件として、「王が哲学者になるか、哲学者が王になるか」と述べた。田中准教授はその言葉に、現代的な視点を重ねる。
「私は、1億人の哲学者がいる社会のほうがいいと思うのです。哲学する市民が増えれば、そのなかから自然と政治を担う人も現れる。上から支配されるのではなく、下から支える力で社会が動いていく。そんな世界が理想です」
哲学と聞くと、難解な理論や専門用語を思い浮かべがちだが、古代ギリシアの哲学はもっと身近なものだったという。1億人が気軽に哲学する時代は、決して夢物語ではない。
「もともと哲学は、散歩をしながら日常の出来事について考え、語り合うところから始まったのです。机にかじりついて悩むものではなく、誰にでも開かれた思索の営みなのです」
田中准教授は、AIなどの新しい技術を取り入れながら、哲学を専門家だけのものにせず、誰もが自由に考え、語り合える場を広げていきたいという。
「日常のなかには、何か引っかかる瞬間がたくさんあります。しかし、忙しさや慣れのせいで、その違和感に蓋をしてしまうことが多い。社会のルールに納得できなかったり、『これって本当にそうなのかな?』と思ったりしても、言葉にせず流してしまう。それを繰り返すうちに、考える力が鈍ってしまうのです。だからこそ、日々の小さな疑問を大切にしてほしい。そうした感覚に敏感であり続けることが、まさに哲学することなのです。哲学とは、机に向かって難解な書物を読む学問ではありません。日常を見つめる柔らかな思索の姿勢こそが、哲学の原点なのです」
より良い高等教育の未来をめざして
高等教育におけるAI活用はどうあるべきか
AIを取り入れた自身の授業が定着したのを機に、田中准教授は「高等教育そのものをどう良くしていくか」という課題にも力を注いでいる。
「テーマとしては、大学教育のなかでAIをどのように位置づけ、どんなルールのもとで活用していくべきか、ということです。他大学の先生方と議論を重ねたり、全国調査を行ったりしています。高等教育にまだ明確な枠組みがないまま、生成AIが急速に普及しているのが現状です。その現実とどう向き合うのかが問われています」
大学自らシステムを構築してAI活用のガバナンスを整える道もあれば、外部リソースを活用するという選択肢もある。現在は大学間で情報共有を進めている段階だが、田中准教授は「各大学のコスト面の違いによって教育の質に格差が生まれることは避けたい」と語る。自身が開発に携わったAIシステム、ヒューマニテクストを一般公開しているのも、その思いからだ。
「学生たちが今後のテクノロジーや新しいシステムにも柔軟に対応しながら、主体的に学びを深めていけるようにしたい。AIを使って実際に試してみれば、その有用性はきっと実感できるはずです。プラトンが宇宙の理(ことわり)を考えつつ、国家の理想も探究したように、私も学問と社会の双方をつなぐ視点を持ち続けたいと思っています」
教員紹介
Profile
田中 一孝准教授
Ikko Tanaka
1980年、埼玉県出身。京都大学博士(文学)。セントアンドリュース大学古典学部客員研究員、京都大学高等教育研究開発推進センター特定助教、桜美林大学専任講師を経て現職。国際プラトン学会アジア・オーストラリア・アフリカ地域代表、古代哲学研究ネットワーク幹事、大学教育学会課題研究「高等教育における生成AI利用のガイドラインに関する研究」研究代表。古典研究のためのAIシステム、ヒューマニテクストシリーズを名古屋大学・東京大学と共同開発、運用。
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