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他者との触れ合いを増やすことが
幸福な社会の実現につながる
科学と心理学の知見を活かし
独自の「タッチ学」を確立
人間をはじめとする動物にとって、「タッチ=触れる」という行為は他者とのコミュニケーションの原点だ。同時に、他者と触れ合うことで痛みが和らいだり、心が安定したりする効果があることもわかっている。このように、肌と肌の「触れ合い」によってもたらされる心身の変化について、リベラルアーツ学群の山口創教授は長年研究を続けてきた。科学的な知見と心理学的な知見を組み合わせ、独自の「タッチ学」を確立した第一人者としても知られている。
「他者との触れ合いが親密な関係性の構築や心身の健康につながるということは、直感的に理解できると思います。そして、そのメカニズムについては、神経科学や心理学の側面から説明が行われてきました。しかし、それぞれの分野で個別に研究が進められていたため、タッチがもたらす効果の全体像を把握することが難しかった。そこで、『タッチ学』という新しい分野をつくり、関連する研究を統合することにしました」
タッチが心身の健康に
影響を与えるメカニズム
タッチはどのようなメカニズムで心身にプラスの影響をもたらすのだろうか。そこには、「オキシトシン」という幸福ホルモンが大きく関わっている。オキシトシンは、他の人のために何かをしたときや、好きな音楽を聴く、美味しいものを食べるといったように、五感にプラスの刺激が与えられたときに多く分泌される。その両面を兼ね備えた「人との触れ合い」がオキシトシンの分泌を促し、ストレスを軽減。それに伴い、心身の健康を向上させるのがタッチのメカニズムなのだという。
「実は、タッチが皮膚のバリア機能強化につながることもわかっています。遺伝や加齢による乾燥肌もありますが、ストレスも大きな原因のひとつです。多くのストレスを抱えると、皮膚のバリア機能が壊れて角質水分量が減ります。それを防ぐために、オキシトシンの分泌によってストレスを軽減することが有効なのです」

ウェルビーイング増進をめざす
「ポジティブ心理学」の考え方
誰もが幸福に生きられる
社会をつくりたい
山口教授のタッチに関する研究と深くつながっているのが「ポジティブ心理学」という分野だ。簡単に言うと、心の問題の治療を目的とする臨床心理学とは異なり、人の健康やウェルビーイングの増進を目指す学問。その点、タッチ学もポジティブ心理学の1分野だと山口教授は捉えている。
「従来の心理学は、心のネガティブな問題を回復させることに主眼が置かれていました。しかし、人は誰しも多かれ少なかれ悩みやストレスを抱えながら生きています。そして、よりポジティブな生き方を追求したいという普遍的な願望を持っている。従来の心理学がマイナスをゼロにするのであれば、ポジティブ心理学はゼロの人をプラスにするという考え方になります。タッチ学についても同様で、心の問題の解決に寄与するだけでなく、誰もが幸福に生きられる社会をつくることに貢献したいと考えています」
人間の身体と心を両面から学んだ
学生時代の経験が研究の礎に
幸せの基準は人によって異なっている。従来の心理学の手法では、アンケートやインタビューを通じて幸福度を分析し、研究に役立ててきた。それに加え、山口教授の研究では科学的な側面からもアプローチ。体内におけるオキシトシンの分泌量を調査することで、心理学と科学、言い換えれば主観と客観の両面から、タッチがもたらす効果をより多角的に分析できるようになった。
「私は学生時代、人間科学部というところで学んでいました。そこで心理学を専攻したのですが、従来の手法とは少し異なり、身体から心や人間にアプローチしていく研究だったのです。これは『身体心理学』といって、私が学んだ春木豊先生が提唱した学問です。その過程で、人間の身体や心の仕組みを生物学、化学といった側面から研究するノウハウを修得したことが、現在の取り組みにおいて大きく役立っています」
ストレス社会に癒しを 「セルフタッチ」がもたらす効果
他者との触れ合いによってストレスを軽減することがタッチ学の本質だ。しかし、人と触れ合うことに抵抗を感じる人や、気軽にタッチできる相手が少ないという人もいるだろう。そんな人には自らの身体に触れる「セルフタッチ」がおすすめだと山口教授が教えてくれた。
具体的な手順としては、頭、顔、両腕、胸、腹部などを、3分ほどかけてひと通り手で触れていく。この一連の動作を寝る前などに毎日続けると、他者との触れ合いと同様にオキシトシンが分泌されることがわかっているのだという。ネガティブ思考や自己肯定感の低さを改善する上でも有効な「セルフタッチ」。人間関係やSNS疲れなど、何かとストレスを感じることの多い現代社会を生きるみなさんにもぜひ一度試してもらいたい。

近年はタッチの効果を
周知させる活動に注力
学術的な根拠とタッチの実践で
触れ合うことの魅力を発信
山口教授は現在、タッチの効果を多くの人々に届けるための活動に注力している。保育所や病院などの施設に赴いて講演を行い、その場でタッチを実践して子育てや看護・介護における触れ合いの大切さについて発信しているのだという。
「コロナ禍以降は特に顕著ですが、他者との触れ合いに苦手意識を持つ人が増えています。中には、自分の子どもであっても上手にタッチできないという声もあります。しかし、私の実施している講演では、科学的・心理学的な根拠を持ってタッチの効果を具体的に説明した上で、ワークを通じて手の温もりを改めて感じてもらいます。それによって、触れ合うことの心地よさやタッチの効果を知ってほしいと考えています」
触れられる側だけでなく
触れる側のストレスも軽減する
近年、虐待に関する悲劇的なニュースを目にする機会が増えた。こうした虐待の背景には、現代社会を生きる人々が抱える膨大なストレスが潜んでいる。山口教授が施設を回って講演を実施している理由のひとつには、タッチの効果でストレスを軽減し、未然に虐待を防ぎたいという思いがある。
「高齢者施設で触れ合いを重視した『タッチケア』を導入したところ、触れられる介護対象者だけでなく、触れる側(ケアする側)にもオキシトシンがたくさん分泌されることがわかりました。それに伴って相手への信頼感が増し、より親しい関係を築ける可能性があります。児童虐待の問題や発達障害の方のサポートなど、『タッチケア』が介入できる領域はまだまだたくさんあると感じています」
目の前の人を助けながら
社会的課題にも目を向ける
さらにスケールを拡大すると、オキシトシンがもたらす幸福感には、人間同士の愛着を深める要因にもなるため、戦争を止める効果も期待されている。一方で、同質の集団内でオキシトシンが分泌されると、異なる集団に対する敵対心が増すというデータもある。オキシトシンの利点と欠点を明確にし、タッチを通じて誰もが信頼し合う幸福な社会を実現することが、山口教授のめざすところだ。
教員紹介
Profile

山口 創教授
Hajime Yamaguchi
1967年静岡県生まれ。早稲田大学大学院人間科学研究科修了後、早稲田大学人間総合研究センター助手、聖徳大学人文学部講師などを経て現職に至る。著書に『子供の「脳」は肌にある』(光文社新書)、『幸せになる脳はだっこで育つ』(廣済堂)、『手の治癒力』(草思社)、『最良の身体を取り戻す』(さくら舎)、『マインドフルネス子育て法』(清流出版)など。『世界一受けたい授業』(日本テレビ)、『チコちゃんに叱られる』(NHK)などメディアにも数多く出演。
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