年間聖句

2018年の年間聖句

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」
(テサロニケの信徒への手紙一5章16~18節)

年間聖句とは、この学園に連なる者たちが一年間を通して指針とすべき聖書のみ言葉です。 連なる者とは、今、学園で学ぶ園児・生徒・学生はもちろんのこと、そのご家族、卒業生、そして教職員も皆、桜美林に連なる一人ひとりとして神は常に御守りの内に置いてくださっています。そして、私たちが授けられた命を輝かせ、世の光となること願っておられます。時には道を見失い困難な場面に立ちすくむことがあっても、み言葉は常に私たちの行く手に新しい扉を開いてくれます。この聖句を心に掲げて、2018年も希望をもって歩み続けたいと願います。

2018年はテサロニケの信徒への手紙一5章16~18節のみ言葉が年間聖句として与えられました。テサロニケ信徒への手紙は、使途パウロが、主イエス・キリストを神の御子と信じるテサロニケの友に宛てた書簡です。パウロは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と手紙につづりました。 当時、テサロニケでは主を信じる者たちは、迫害に遭い、辛く厳しい中に身をおいていました。その人々に神はパウロを通して、どんなに過酷な状況の中にあっても見失ってはいけない大切なことを示されたのです。主イエスご自身が「あなたたちの喜びが満ちあふれるために、互いに愛し合いなさい」と語られたように、表面的な慰めの言葉ではなく、神の無限の愛に根ざした勧めの言葉をパウロに託されたのです。

パウロがテサロニケの友のことを想ったように、自分に注がれた神の愛を信じ、自らその愛に応えて生きる時、人は神と「私とあなた」という深い人格的な交わりの関係で結ばれます。それは人間同士の関係にも当てはまります。物質によってだけでは決して満ち足りることのない人間の究極的な喜びは、互いに愛し合い、相手のために祈り、互いの存在を感謝し合える関係に、その出発点をおいています。 しかし、私たちには、喜びたくても喜べない時がある。艱難の中で祈ることさえ忘れてしまうことがある。悲しみ、苦しみを抱えている中で感謝などできない時があります。そのような時は、自分自身のことで精一杯で、どうして隣人のことまで想えるでしょう。そのように完璧に生きたくても生きることのできない私たちだからこそ、神の守り、神の支えが必要なのではないでしょうか。 たとえ弱く貧しい器であっても、神に結ばれた者としてみ言葉に生きる時、私たちはどんなことがあっても決して揺らぐことのない礎に立ち続けることができ、そして、神の光が闇に包まれた心を照らし、新たなる希望と光となって生きる力を与えてくださるのです。

私たちの世では想像を超える出来事が度々起こります。しかし、たとえどんなことがあっても揺らぐことなく、迷うことなく、神の語りかけに聴き、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝できる者として、隣人と共に新たなる年を歩み出しましょう。

創立者愛唱聖句

「為ん方尽くれども希望を失わず」(文語訳)
コリントの信徒への手紙二 第4章8節

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、
途方に暮れても失望せず」(新共同訳)

出典は初期キリスト教の伝道者パウロの手紙です。キリストの使徒であるとの自覚をもったパウロもその布教活動では多くの困難を体験しました。鞭打たれたこと、石を投げられたこと、難船して海上を漂ったこと、盗賊に襲われたこと、飢え渇いていたこと、裸で凍えていたこと、等々の体験をしました(『コリントの信徒への手紙二』11章)。このようなパウロの言葉だからこそ、学園創立者清水安三の生きる支えとなったのでしょう。心血を注いできた北京崇貞学園が「終戦三か月後」(1945年11月)に北京政府によって接収された時に安三先生は、この言葉を思い起こして再起し、帰国して桜美林学園を設立したのです。そして、「再起再出発を私は身をもって諸君に教えるのである。諸君が将来世に出て、事業に挫折しても商売に失敗しても、自殺などするでないぞ。家族心中なんてもってのほかだ。挫折したらもう一度立ち上がればよい」と書いています。(『石ころの生涯』395頁以下)。

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