劇団「田上パル」で20年以上にわたって演劇活動
演劇をやるつもりはなかった
芸術文化学群の田上豊助教は、桜美林大学在学中の2006年に劇団「田上パル」を旗揚げし、現在まで20年以上にわたって演劇活動を続けている。また、劇団での活動に加え、高校生や大学生との創作プロジェクト、市民劇団や公共ホール事業への書き下ろしなど幅広く活躍。さらに、体験型から育成講座まで多彩なワークショップも全国で展開してきた。
しかし、田上助教はもともと演劇を志して大学に進学したわけではなかった。演劇と出会ったのは大学に入学してから。それまでの人生で演劇との接点はほとんどなかったという。地元の熊本にいた高校時代はハンドボール部に所属し、全国大会出場を目指して練習に打ち込む毎日を送っていた。
「結局、全国大会には届かなかったのですが、進路を考える時期になって、『みんなで東京に行こう!』という、田舎特有のノリがクラスメイトの中で生まれていました。私もその流れに乗る形で進学先を探し始めました。高校時代は部活ばかりでしたが、映画を観るのは好きだった。それなら映画を学べる大学に進もう。本当にそれくらい単純な考えでした」
芸術系の学部を探す中で見つけたのが、桜美林大学文学部総合文化学科だった。2000年代初頭に設置されたばかりの新しい学科で、他の芸術系大学と比べて学費が比較的抑えられていたことも進学を後押しした。ところが、入学後に思わぬ事実を知ることになる。
「当時の専攻は音楽、哲学、造形、演劇の4つ。映画の専攻はなかったんです。今思うと、入試の面接でも『映画を撮りたいです』と話していたはずなのですが、『うちに映画の専攻はありませんよ』とは言われなかった(笑)。入学してから気づいたんです。慌てて高校時代の担任に電話したものの、『映画監督になっても俳優への演技指導は必要になるだろうし、まずは演劇をやってみたらいいじゃないか』と言われました。なるほど、そんなものかと思って、とりあえず演劇の世界に飛び込んでみることにしました」
とはいえ、すぐに気持ちを切り替えられるわけではなかった。演技実習や台本の読解、舞台美術など、演劇専攻ではさまざまな授業が行われていたが、とりわけ演技の授業には強い抵抗感があったという。
「そもそも演劇をやるつもりで入学したわけではないし、人前で演技をするのも恥ずかしかった。意地もあって、先生からのアドバイスもまともに聞かなかったんです。自分でも『何をやっているんだろう』と思うくらい、見当違いなことをしていたと思います」
当時、演劇を専門的に学べる大学はまだ少なく、演劇専攻には強い志を持った学生が集まっていた。
「周りはみんな演劇好き。ところが私は演劇を観たこともなければ、やりたいと思ったこともない。話についていけなかったんです。『好きな劇団はどこ?』と聞かれても、そもそも劇団というものをよく知らない。名前を知っていたのは、テレビCMで見たことがある劇団四季くらいでした。その劇団名への質問に平気で『ライオンキング』と答えたりして、本当に浮いていたと思いますね」
演劇をやめようと思って臨んだ学内オーディション
大学1年次の夏を迎える頃になっても、田上助教は演劇専攻になじめずにいた。周囲には演劇への強い情熱を持つ学生たちがいる。一方、自分は演劇を観たこともなければ、将来演劇の道に進みたいと思ったこともない。「もう無理だな。大学を辞めよう」と考えていたと田上助教は語る。しかし、このまま辞めても、何も残らないとも感じていた。
そんなとき、夏休み明けに学内公演のオーディションが行われることを知る。上演作品は、平田オリザ氏の代表作『東京ノート』(1994)。近未来の美術館を舞台に、人々の日常会話を通して社会や人間関係を描く作品だった。
「オーディションがなんたるかさえよくわかっていませんでした。ただ、どうせ辞めるなら最後に何か挑戦してから辞めようと思ったんです」
オーディションの参加者は100人近く。1年次から3年次まで集まり(当時の総合文化学科はまだ開設3年目)、中には高校時代から演劇で実績を残してきた学生もいた。
「自分が受かるなんて全く思っていませんでした。オーディションも台本を少し読んで終わり。あっという間でしたから。ところが、結果は合格。なぜ受かったのか、今でもよくわかりません。ただ、後で聞いた話ですが、『独特の存在感があった』らしいのです。授業でもいつも教室の隅に座っていましたし、周囲とは全然なじめていませんでしたからね。今思えば、そういう異質さを面白がって選んでくれたのかもしれません」
しかし、合格しても気持ちは変わらなかった。むしろ、稽古初日に辞退を申し出るつもりだった。
「みんなで作品をつくりたいという気持ちはありませんでした。オーディションに挑戦したという事実だけで十分だったので、『合格したけれど辞退します』と伝えるつもりで稽古場へ向かったんです」
ところが、稽古場に着くと、自己紹介もないままにキャスティングのための稽古が始まった。辞退を切り出すタイミングを失ったまま、いつの間にか周囲に混ざって稽古に参加していた。そして、ふと気がつく。
あれ? 演劇って面白いぞ!
「大げさではなく、一日で友達が50人くらいできたような感覚でした。それまでの大学生活は孤独だったので、演劇の持つ『集団性』に感化され『演劇って楽しいかもしれない』『明日も稽古に行きたい』と思ったんです(笑)」
本番までの約2カ月間、稽古やリハーサルの日々が続いた。演技経験はなく、周囲と比べれば明らかに未熟だった。それでも、作品づくりを通じて初めて演劇の面白さを実感していけた。
「それまでは、自分の何が良くて何が悪いのかもわからなかった。しかし稽古を重ねる中で、『ここを工夫すると面白くなるんだ』『こういう見せ方があるんだ』ということを少しずつ知っていけた。また、演劇そのものが嫌だったわけでもないこともわかった。だったら、まずは演劇を続けてみようと思ったんです」
その後は出演者として舞台に立つ機会が増えていった。先輩や同期が演出する作品、学内の選抜公演などに参加しながら経験を重ねていった。
「気がつくと出演する機会の方が多くなっていました。稽古が始まると数カ月単位で作品づくりに没頭しますから、1年が本当にあっという間でしたね」
田上パル結成!
大学4年次になると、田上助教の中に一つの思いが芽生えていた。これまで出演者として舞台に立つことが多かったが、卒業する前に一度、自分が作・演出の舞台をつくってみたいと考えるようになったのだ。
「卒業後に劇作家や演出家になろうという大きな野望があったわけではありません。4年間演劇をやってきたので、最後に一度くらいは自分で作品をつくってみよう、という気持ちでした。また、大学4年間も経ると、学内にはヒエラルキーのようなものがなんとなくできてくるのですが、私の周囲には、不思議と『面白いのに評価されていない人たち』が集まっていたんです。みんな個性的で面白いのに、なぜかあまり注目されていない。そういう仲間たちと最後に何かやりたかったんです」
しかし、それまで台本を書いた経験はなかったので、何を書けばいいのかもわからない。そこでアイデアのもとになったのが、自身の原風景だった。
「高校時代のハンドボール部ですね。言い争いがエスカレートして喧嘩になるような話を書いてみようと思いました。私にとって自然な言葉は熊本弁だったので、そのまま方言で書くことにしたんです。ちょうど周囲にも九州出身の仲間が多かったので、ならば無理に標準語へ置き換える必要はない。自分たちの言葉で、自分たちの物語をつくろう。そうして生まれたのが、初めての作・演出作品『報われません、勝つまでは』(2006)でした」
上演にあたり、施設利用の申請書などへ団体名を書く必要があった。そして考えた名前が「田上パル」だった。
「『パル』には仲間とか相棒という意味があります。自分と一緒に面白いことをやってくれる共犯者のような存在ですね。そんなイメージでつけました」
卒業を目前に控えた2006年2月、公演は実現した。そして、その舞台を観に来ていた一人の教員の言葉が、その後の人生を大きく変えることになる。現在、芸術文化学群の学群長を務める能祖將夫先生だ。
「公演後に『卒業したらどうするの?』と聞かれたので、『特に何も考えていません』と答えたんです。すると、『もったいないから、もう少し続けてみたら?』と言ってくださって。今思えば単純なんですが、『そうか、俺たちは違ったんだ、続けてもいいんだ!』と思ってしまった(笑)。もともと卒業公演を企画した背景には、卒業後も演劇を続ける理由を探したいという思いもありました。そこへ、演劇を続けるきっかけを与えてくれる言葉が重なった。ある意味、能祖先生のせいにしたのですが(笑)」
さらに、『報われません、勝つまでは』を第14回北九州演劇祭コンペティション部門へ応募したところ、見事に選出。また演劇を続ける理由ができた。振り返れば、演劇への強烈な使命感があったわけではないと田上助教は語る。
「その時々で現れた小さな理由を拾い集めながら続けてきた感覚に近いです。ただ、卒業公演をやったときに一つだけはっきりしたことがありました。演劇を続けるなら、自分は出演する側よりも、作品をつくる側なんだなということです」
以降、田上パルとして毎年のように作品を発表しながら、創作活動を続けていくことになる。田上パル作品は、移り変わる時代や環境の中で揺らぐ人間像や共同体の姿を描くことで知られる。熊本弁を生かした会話劇、身体性を活用したダイナミックな動き、そして現実と幻想が交錯する独特の世界観。その要素が複雑に絡み合いながら、観客を作品世界へ引き込んでいく。
「もともとスポーツばかりやってきたので、人間の身体が持つエネルギーにはずっと興味がありました。また、高校時代に映画好きだったと言いましたが、その6割くらいはジャッキー・チェンの香港映画でした。だから自分の中に、映画でも演劇でも、出演者は動くもの!という考えがあったんです(笑)」
全国各地でワークショップ
教育現場での実践を一つの形にできた『Q学』
大学卒業後、田上助教は田上パルでの創作活動と並行しながら、ワークショップにも力を注ぐようになる。そのきっかけの一つとなったのが、大学4年次に履修していたワークショップデザインの授業だった。
「授業の中で実際にワークショップを企画したり運営したりする機会があって、こんな形で演劇に関わる方法もあるんだと知りました」
卒業翌年には、すでにワークショップの依頼が舞い込むようになっていた。依頼元は全国の自治体や公共ホール、文化施設などさまざまだが、実施先としては小学校や中学校、高校といった教育現場が多かったという。
「当時は、地域コミュニケーションやコミュニケーション教育への関心が高まり始めた時期でした。その流れの中で声をかけていただくことが多かったですね」
ワークショップの内容は対象や目的によって大きく変わる。1日での実施の場合、短いもので90分、長いものでは3時間ほど。演劇未経験者向けの入門編から、経験者向けの実践的なプログラムまで幅広く対応してきた。
「たとえば、劇作家の仕事を体験してもらうために、一人ひとりが1〜2行のセリフを書いてみたり、演技の入門編なら、短い場面を使って実際にセリフを話してみたりすることもあります。あるいは、まずは身体を動かし、参加者同士が自然に打ち解けられる環境をつくるアイスブレイクから始めることもあります。演劇に対して構えてしまう人もいますから、まずは『楽しい』と感じてもらうことを意識しています。私自身、最初は演劇に対して大きな誤解をもっていました。だからこそ、まずは面白いものなんだと感じてもらえたらうれしいんです」
全国各地でワークショップを重ねるなかで、ある思いも芽生えていった。数時間で終わる体験だけではなく、その過程そのものを作品として残したい。そんな思いが結実した作品の一つが、『Q学』(2015)だった。北九州芸術劇場のプロデュースのもと、北九州市に滞在しながら、東筑紫学園高等学校演劇類型の生徒たちと共に創作した作品である。
「当時、全国の公共ホールやアートプロジェクトでは、地域の若者と一緒に作品をつくる取り組みが増えていました。私自身も30代の頃は、地域に滞在しながら中高生と創作を行うプロジェクトに数多く関わっていたんです。そうした流れの中で生まれたのが『Q学』で、大学卒業後に自分が携わった演劇教育の軌跡を盛り込んだ内容でした」
北九州芸術劇場×東筑紫学園高校演劇類型 連携公演「Q学」
https://q-geki.jp/events/2015/fes2015-q/
オーディションで選ばれる側から、選ぶ側へ
『Q学』はその後、桜美林大学のホールでも上演された。その背景には、田上助教が卒業後も大学とのつながりを持ち続けていたことがあった。
「卒業後も、桜美林大学の公演に外部演出家として関わる機会がありました。現在は『OPAL』という名称ですが、当時は『OPAP』というプロジェクトで、2010年と2015年の2度参加しています」
なかでも印象に残っているのが、2010年のOPAP公演『夏の夜の夢』だった。作品づくりに先立ち、出演者を決めるための学生オーディションが行われた。そのとき田上助教は、自身の大学1年次を思い出していたという。演劇を辞めようと思いながら臨んだ学内オーディション。そして、その合格をきっかけに演劇の道へ進むことになった、あの日のことだった。
「今度は自分が選ぶ側になったんです。できることなら全員を合格にしたい。しかし、出演できる人数には限りがあります。一人ひとりがさまざまな思いを抱えて挑戦していることがわかるからこそ、本当に悩みました。自分自身、学生時代に受けたあのオーディションがなければ、今こうして演劇を続けていなかったかもしれませんから」
地域の文化資源を利活用した演劇創作
地域のために演劇をすること
田上助教は、2008年から3年間、埼玉県の富士見市民文化会館キラリ☆ふじみのレジデントカンパニーとして活動する機会も得ていた。レジデントカンパニーとは、特定の劇場を拠点に創作活動を行いながら、公演だけでなく地域との交流や文化事業にも継続的に関わる取り組みである。
「当時は劇場のレパートリー作品づくりを支える活動に関わったり、アウトリーチやワークショップ、シンポジウム、タウンミーティングのような企画を行ったりしていました。自分の劇団なら、自分がつくりたいものをつくればいい。しかし、劇場や地域と関わると、『この場所のために演劇で何ができるのか』を考えることになるんです」
地域の物語を作品に
地域のために何ができるのか。そうした問題意識を持ちながら活動を続ける中で、田上助教は地域の歴史や文化資源を活用した演劇創作にも取り組むようになる。その代表的な事例の一つが、兵庫県養父市にある名草神社を題材としたプロジェクトだった。
名草神社は妙見山の中腹に位置し、国の重要文化財にも指定されている歴史ある神社だ。しかし2012年、但馬地方を襲った豪雪によって本殿が大きな被害を受けた。その後、およそ10年にわたる修復事業を経て、2022年に修復完了記念式典が開催されることになった。
その記念事業の一環として、名草神社の歴史や地域の物語を取り入れた演劇作品を制作できないかという相談が、芸術文化観光専門職大学の地域リサーチ&イノベーションセンターへ寄せられた。田上助教は学生たちとともに企画に取り組み、名草神社を舞台とした作品を創作。名草神社そのものを舞台として上演を実現した。さらに作品は再演の機会にも恵まれた。初演は神社という特別な空間で行われたが、再演では劇場を使用した。
「神社で上演する場合は、その場所が持つ歴史や空気感そのものが作品の力になります。一方で劇場では照明や音響など、演出上のさまざまなマジックを使える。どちらにも異なる魅力があります」
特に印象的だったのは、劇場公演後(再演)の観客アンケートだった。作品を観たあと、「実際に名草神社を訪れてみたい」と回答した人が約8割に上った。その結果は、田上助教にとって大きな手応えとなった。
「地域資源を活用した劇作には、地域文化の保存や継承という側面があります。地域に残る物語や伝統、歴史を舞台作品として再構成することで、失われつつある文化や慣習を新しい形で受け継いでいくことができると思うのです」
また、その過程には教育的な意義もある。作品づくりを通じて地域の歴史や文化を学ぶことで、若い世代が自らの暮らす地域への理解を深め、価値を再発見する機会にもなるからだ。
「地域には、まだ語られていない魅力的な素材や物語がたくさんあります。それらを掘り起こし、作品として発信することで、新しい価値を創り出すことができる。演劇そのものが、地域にとって新たな文化資産になる可能性もあると考えています」
演劇の可能性を学生と一緒に探していきたい
20年の時を経て、桜美林大学に帰ってきた
映画を学びたいと熊本から上京した田上助教は、気がつけば20年以上にわたり演劇の世界を歩み続けてきた。そして今、教員として再び桜美林大学のキャンパスに立っている。
「今はもう、『映画の世界に行きたい』という気持ちはありません。ただ、ひなたやまキャンパスに来て驚いたことがあるんです。芸術文化学群には、演劇、音楽、ダンスに加え、映像やデザインなどを学ぶビジュアルアーツ専修の学生たちもいます。その学生たちは授業の合間に、スマートフォンを片手にグループで映像を撮影していたりするんです。その様子を見ていると、『あれ、これってまさに20年前の自分がやりたかったことじゃないか!』と思うことがあります(笑)」
現在の軸は演劇にあるが、他分野とのコラボレーションも積極的にやっていきたいと田上助教は語る。
「演劇は多様な力を持ち、汎用性が高い表現だと思っています。音楽とも組み合わせられるし、映像とも組み合わせられる。ダンスともつながる。だからこそ、さまざまな分野の学生たちとコラボレーションしながら、新しい表現を生み出していきたいですね」
また、これまで全国各地でワークショップや地域プロジェクトに携わってきた経験も、教育へ活かしていきたいという。
「ワークショップの活動では、沖縄を除くほとんどの都道府県を訪れました。それぞれの地域に固有の文化や魅力があって、外から見ることで初めて気づくこともたくさんあります。桜美林大学にも全国から学生が集まっています。将来、地元に戻って地域活性化やまちづくりに関わることもあるでしょう。そのとき、演劇を通して学んだことが何かのヒントになるかもしれません」
演劇には言葉では説明できないエネルギーがある
田上助教は今後も、「田上パル」として新作を発表し続けていきたいと考えている。一方で、劇団結成から20年以上が経った今、その役割は単なる演劇集団にとどまらないものにもしていきたいという。
「演劇をつくる人だけでなく、地域と人をつなぐコーディネーターや、ワークショップを通してコミュニケーションをデザインする人など、多様な人たちが関われる場になったら面白いと思っています」
演劇を核にしながらも、教育や地域活動、コミュニケーション支援など、さまざまな領域とつながっていく。そんなラボラトリーのような存在を目指したいという。
「演劇で生きていくのは難しいのではないか、採算が合わないのではないか、そう思う人もいるかもしれません。しかし、やり方は一つではありません。少なくとも、私のような人間でさえ20年以上続けられたと言いたい(笑)」
だからこそ学生たちには、既存の枠組みにとらわれず、新しい演劇のあり方を探してほしいという。
「演劇とは何か。表現とは何か。そしてこれからの時代に演劇はどうあるべきなのか。その問いは教員である私たちに向けられています。同時に、学生たちにも挑戦してほしいテーマです。失敗を恐れず、いろいろなことを試しながら模索してほしいですね」
演劇の魅力はどんなところにあるのか。あらすじだけでは面白さが伝わらない、実際にその場へ行って体験してみないとわからないことがたくさんあるのだと田上助教は語る。
「演劇って不思議なんです。作品が自分に合うかどうかは、観てみなければわからない。しかし、もし心を揺さぶる作品と出会えたなら、言葉では説明できないような衝撃やエネルギーをもらえることがあるんです。演劇には、人と人、人と地域をつなぐ力があると思っています。観るのでもいいし、参加するのでもいい。どんな形でもいいので、一度接点を持ってもらえたらうれしいですね」
教員紹介
Profile
田上 豊助教
Yutaka Tanoue
1983年生まれ、熊本県出身。桜美林大学文学部総合文化学科卒業。在学中に劇団「田上パル」を結成。方言を多用し、軽快なテンポと遊び心満載の演出で「揺らぐ人間像やその集団」を描き出すのを得意とする。劇団外でも、高校生、大学生とのクリエーション、市民劇団や公共ホール事業への書き下ろしなど、様々な形で活動を展開。また、創作活動と並行して、創作型から体験型、育成講座まで幅広くワークショップも行う。奈良市アートプロジェクト舞台芸術部門ディレクター、一般財団法人地域創造リージョナルシアター事業派遣アーティスト兼アドバイザー。宇土市民会館事業アドバイザー。
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