子どもたちが心理的な健康を保ちながらスポーツを続けられる社会をつくる
職場からスポーツの現場へ。人々のメンタルヘルスケアを支援
スポーツを楽しむ子どもたちのメンタルヘルスを守ろうとする研究者がいる。健康福祉学群の鈴木文子准教授が取り組むのは、試合に勝つためのメンタルトレーニングではない。アスリートが健全な形でスポーツを続けられるための土台をつくることだ。部活動やジュニアスポーツの現場に新たな視点をもたらす鈴木准教授の心理学的なアプローチは、職場復帰支援というまったく異なるフィールドで培われたものだった。
「もともとは産業精神保健を中心とした実践心理学を専門としており、職場におけるメンタルヘルスの研究に取り組んできました。精神疾患やメンタルヘルスの不調によって休職した労働者が、職場に復帰するためにはどうすればよいのか。当事者と職場の双方から、具体的な支援メカニズムを解明することが研究の大きな目的でした」
当事者と労働環境、双方が抱える課題と向き合う
現代の日本社会における労働環境は、過度なストレスや複雑化する対人関係を背景に、うつ病や適応障害などのメンタルヘルス不調による休職者が増加の一途をたどっている。一度休職した従業員が職場に復帰した後、短期間で再び休職に至ってしまうケースも少なくない。鈴木准教授は労働者自身の内発的な「自己効力感(セルフエフィカシー)」に着目し、継続的に就労できる状態にするための心理学的アプローチを探った。
「職場復帰が難しい要因には、個人の課題と職場環境の課題が存在します。個人の課題としては、一時的に状態を回復させて職場復帰を目指してしまうことが挙げられます。しかし、メンタルヘルスの不調にはさまざまな背景が存在しています。そして、その根本的な要因と向き合わなければ、継続的な就労を実現することは非常に難しい。なぜうまく働くことができなかったのか、なぜ対人関係に悩んでしまったのかなど、自分が休職に至った理由やその対処法を振り返ることが重要なのです。一方、職場環境の課題として、継続的なサポートを提供することの難しさがあります。休職者が復帰するためには、企業側による負荷調整や定期的な面談などを実施する仕組みづくりが求められます。近年はこの課題に取り組む企業が増加しており、社内や医療機関における職場復帰支援プログラムの整備が進められているという実感があります」
職場に戻るだけではなく、継続的に就労できる状態を目指す
従来の職場復帰支援の現場においては、主治医による「抑うつ症状の回復」が復職可能の主要な判断基準とされることが多くあった。しかし、日常生活が送れるレベルまで症状が回復することと、実際に職場で要求される業務上のプレッシャーや対人関係のストレスに耐え、継続的に就労できる状態であることとの間には大きな乖離が存在する。鈴木准教授はこの乖離を埋めるため、セルフエフィカシーに基づく尺度を開発。この尺度は、「職場に戻っても業務上の困難や人間関係の摩擦に適切に対処することができる」という労働者自身の確信度合いを定量的に測定するためのものだった。休職者の心理的な状態を可視化し、復職時期の適切な見極めや、復職後の再休職リスクを予測するための基盤を提供することが目的だったという。
「もちろん、医学的なアプローチが必要です。しかし、状態が回復したとしても、職場の要請に応えて実践的に働けるレベルに達するとは限りません。継続的なリハビリテーションによって個人の機能レベルを高く保つことが、心理学的なアプローチに求められる役割だと考えています。『治療』というよりも、再休職を防ぐための長期的な支援が求められるのです」
個別のケースを意識しつつ、全体に適応できるパッケージをつくる
鈴木准教授の研究活動は、評価尺度の開発という理論的な研究に留まらない。実際に休職者の自己効力感を高め、持続可能な職場復帰を実現するための「実践的な介入プログラムの構築」についても展開している。復帰支援において、認知行動療法にセルフエフィカシーの視点を組み合わせた介入プログラムを導入し、その効果を実証的に検証した。
「精神疾患やメンタルヘルスの不調には、過去の経験が影響していることも少なくありません。なぜ現在の病状に至り、支援を行ったことでどのように改善したのか。実践的に当事者に介入することで、より個別の事例に合った提案ができるのではないかと考えました。職場復帰という大きな社会課題を解決するためには、支援プログラムの開発といった大きな取り組みと、当事者の背景に寄り添った個別の対応の両方が重要だと思っています。課題全体に適応できるパッケージをつくるとともに、個別のケースごとに対応策を考える。そのバランスを意識しながら、セルフエフィカシー・プログラムの導入を検討してきました」
ジュニアアスリートのメンタルヘルスケアと精神的健康度の向上を目指す
さまざまな要因でメンタルを削られる子どもたち
現在、鈴木准教授はアスリートのメンタルヘルスに着目して研究を進めている。特に注力しているのは、ジュニアアスリートのメンタルヘルスケアと精神的健康度の向上。スポーツにおける心理学の実践と聞けば、パフォーマンスを高めたり、緊張を軽減して試合に臨んだりすることを目的とした研究をイメージする人も少なくないだろう。しかし鈴木准教授の研究では、スポーツに取り組む子どもたちの精神的な不調や不適応に対する予防的なアプローチ方法を検討しているのだという。
「数年前からジュニアスポーツチームに関わる機会があり、小さいながらに子どもたちのメンタルが削られている様子を目にしていました。試合で失敗して挫折してしまった、保護者や指導者から想像以上のプレッシャーをかけられてしまった、チーム内の人間関係が悪くなってしまった……。このように、心理的な要因によってスポーツを辞めてしまう子どもたちも少なくありません。これまで職場復帰の研究に取り組んできた経験を活かし、子どもたちが健全な心理状態でスポーツを続けるための基盤をつくりたいと考えたことが、現在のテーマに着手したきっかけでした」
生涯にわたってスポーツを楽しみ続けるために
ジュニアアスリートが抱える心理的な問題は、チームの規模や目標、雰囲気によって異なっている。現在は個別のインタビューを通じて彼らの成長プロセスを追うことに主眼を置いているが、今後はさらに多角的な調査も実施し、その実態をより広く明らかにしていく予定だという。同時に、子どもたちの精神的な健康状態と、スポーツの継続やスポーツによる幸福感の享受との関連性についても検討を進める。運動部活動や地域スポーツクラブでの指導や育成において、メンタルヘルス向上への取り組みが広がることを期待している。
「障壁さえなければ、生涯にわたってスポーツを楽しむこともできるはずです。しかし、競技としては楽しんでいるのに、心理的な要因によって辞めざるをえない子どもたちがいる。つまり、子ども時代に健康なメンタルヘルスで競技に取り組めたかどうかが、将来を大きく変えてしまうのです。そのため、長期的な視点を持ってアスリートの課題に向き合うことを大切にしたいと考えています」
医学による治療に限界を感じたことが心理学を志すきっかけに
メンタルクリニックでリワークプログラムを立ち上げ
医学の力では改善が見込めない難病に対して、心理学的なケアが有効かもしれない。そう考えたことが、心理学に関心を持ったきっかけだったと鈴木准教授は語る。身近に難病を抱えた患者がおり、医学的なアプローチにも限界があることを痛感していたのだという。やがて桜美林大学文学部の健康心理学科に入学し、大学院に進むと生活習慣病患者に対する心理学的な実践について研究。その後、大きな転機が訪れる。
「大学院生だった当時、メンタルクリニックの仕事を紹介されて勤務することにしました。まだ心理師としても駆け出しだったのですが、そこで新しく始まるリワークプログラムを担当することに。ストレスマネジメントや認知行動療法のプログラムを整えるため、職場における心理学の活用について必死で勉強を重ねました」
現場での経験から社会実装を見据えた研究に取り組む
約8年間にわたってメンタルクリニックでの職場復帰支援に携わった鈴木准教授。自ら整備したプログラムによって、対象者の行動や心理状態の変化を実感できる瞬間にやりがいを感じていたのだという。その中で、うつ病などのメンタルヘルス不調になった人々が、職場復帰への自信を高めていくための研究を始めた。一方、スクールカウンセラーの活動や就労支援企業での勤務など、社会と密着した実践にも取り組んできた。
「研究者として意識しているのは、社会に還元しやすいプログラムやマニュアルを開発するということです。現場で実践を続けている際には、個別の事例に対して使いやすい支援のパッケージがないということも多く、その度に歯痒さを感じていました。現場の課題に応じてすぐに使用できる仕組みをつくる。そして、その実践に基づいて研究を進めていく。この循環を繰り返すことによって、心理学的なアプローチを社会で役立てたいと考えています」
あらゆる人々の心理的な健康度が上昇する未来へ
今後はジュニアアスリートに関して、部活動や地域クラブといった個々の環境に適したメンタルヘルス支援の確立を目指している。最終的には、挫折した場合のリカバリー能力を育む支援から、さらに踏み込んでメンタル不調そのものを未然に防ぐ予防的な介入へと繋げ、より幅広い子どもたちを対象に展開していくことが鈴木准教授の目標だ。
「まずは子どもたちが心理的な健康を保ちながらスポーツに参加できる環境を整えることが重要だと考えています。そのうえで、スポーツの技術指導のみならず、メンタルヘルスも扱える指導者を増やしていきたいです。もちろん指導者にとって、目の前で悩んでいる子どもを助けたいという思いは強いはずです。しかし、専門知識がない中で子どもの心に向き合うことは、指導者自身にとっても大きな負担や不安になります。だからこそ、専門家である私が開発したパッケージを活用して指導者の心のゆとりや困りごとをサポートし、多くの指導者、そしてジュニアアスリートの課題を一緒に解決したいと思っています。その先に、すべての人々の心理的な健康度が上昇する未来が待っていれば嬉しいですね」
教員紹介
Profile
鈴木 文子准教授
Ayako Suzuki
1983年静岡県生まれ。2005年に桜美林大学 文学部 健康心理学科を卒業。2008年に桜美林大学大学院 国際学研究科 国際人文社会科学専攻 博士前期課程、2014年に同博士後期課程を修了。大学院と並行し、医療法人社団青木末次郎記念会 あつぎ診療クリニック、ヘルスサイコロジー研究所、横浜創英短期大学などで勤務。その後、複数の大学、高校、専門学校で非常勤講師、スクールカウンセラーとして勤務。2020年からは就労支援カレッジ株式会社で生活支援員を務め、2026年より現職。
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