附属高校の国語科教育で
映像を用いた授業を実践してきた
『君の名は。』と村上春樹?
リベラルアーツ学群の柴田希准教授は、長年にわたり附属高校で国語科教員として教壇に立ってきた。その教育実践の中でも特徴的なのが、映像作品を積極的に取り入れた授業を行ってきたことだ。映像作品を単なる鑑賞教材として扱うのではなく、文学作品や評論の読解を通して培う知識や考える力と結びつけ、言語運用能力を涵養するための教材化を模索してきた。
「私がこれまで勤めた附属高校では、生徒の多くが大学受験を経験せずにそのまま進学していく環境なので、大学1〜2年次で扱うような内容を授業に取り入れることも可能でした。大学に進学し卒業した後にも必要となるであろう知識や考え方、ものの見方を身に付けてほしいという思いで授業をしていました」
授業の軸となったのは、物語分析や表現分析である。従来、文学作品を対象に行われてきた読解を映像作品へ広げ、評論や批評理論、現代思想なども参照しながら、「映像をどう分析できるのか」を探究してきた。
たとえば、映画『グッバイ、レーニン!』を扱った授業では、教科書に掲載されている岩井克人『広告の形而上学』を精読し、「資本主義」や「広告」というキーワードを手がかりに作品を読み解いた。社会主義体制崩壊後の東ベルリンに資本主義的価値観が浸透していく様子が、劇中では広告を通してさまざまに描かれている。しかし、社会的・文化的背景への理解がなければ、画面の中の広告は単なる風景として通り過ぎてしまう。
そこで授業では、作品を二度鑑賞する形式を採用した。一度目は物語全体を把握することを目的とし、二度目は映像の細部へ目を向ける。あらかじめ注目箇所を示したワークシートを配布し、映像を一時停止しながら考察を促した。正解を示すのではなく、生徒同士の解釈を共有し、整理するファシリテーターとして授業を進行したという。
一方、『君の名は。』を扱った授業では、批評理論を手がかりに映像作品を読み解くアプローチを試みた。村上春樹のエッセイ「自己とは何か(あるいはおいしい牡蠣フライの食べ方)」を用いて、フィクションの役割や批評の考え方を学び、その上で物語論(ナラトロジー)や間テクスト性といった理論を踏まえながら作品を分析した。
さらに、村上春樹の短編「四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」を取り上げ、『君の名は。』とのつながりを考察。文学作品と映像作品を往還しながら、作品を読み解く視点を育んでいった。
「授業では、まず文学作品や評論などを読んで、その後に映像を見る流れにしていました。国語科教育ですから、基本は何らかの文章を中心に授業内容を設計しています。ただ、附属高校では映像を扱う授業自体も国語科の選択科目として立ち上げていたので、映像を中心に据えた授業も実践していました」
海外ミステリーからライトノベルまで
小学生の頃に『古事記』も読んでいた
子どもの頃から読書は日常の一部だった
柴田准教授は、幼い頃から読書好きだった。文字を覚える前には母親に絵本を読み聞かせてもらい、幼稚園の頃には「世界の童話」や図鑑などを夢中になって読んでいたという。読書は、物心がつく以前から日常の一部だった。
小学生になると、その興味はさらに広がっていく。小説や伝記、児童書など、ジャンルを問わず手当たり次第に読み漁った。図書館では作家ごとに並ぶ本棚を「あ行」から順に眺め、気になったものを手に取っていったという。
「学年が上がるにつれて、海外ミステリーやライトノベルなども読み、本当に何でも読んでいました。小学生の頃には、石ノ森章太郎の漫画版『古事記』を読んで面白いと思い、今度は活字の『古事記』にも挑戦したことがあります。もちろん当時は専門知識もないので、漫画の内容を手がかりにしながら何とか読み進めていました」
中学生になると、長野まゆみ、よしもとばなな、荻原規子、小野不由美など女性作家の作品に惹かれ、さらに高校時代には、国語の教科書で出会った芥川龍之介の『枯野抄』をきっかけに、日本近代文学にも関心を広げた。海外作品では、ミステリーやSFを好んで読んでいたという。
一方で、小学生の頃に英会話スクールに通っていたこともあり、漠然と「将来は英語を使う仕事ができたら」という思いを抱いていた。そのため大学進学を考える頃には、日本文学と英文学の間で進路を迷っていたという。転機となったのは、高校時代に経験したアメリカでの短期ホームステイだった。
「英語が話せても、自分の中に語る内容や知識がなければ駄目だと痛感したんです。海外では日本のことを聞かれる機会が多いのですが、自分自身が日本のことを知らないと気づきました。そして、文学を通して、日本というものをもっと知ってみたいと思うようになったんです。それで大学では日本文学を選びました」
文学研究の専門は、谷崎潤一郎
大学では上代文学から近現代文学・漢文学・日本語学まで、国語教育に関わる幅広い領域を学んでいったが、そのなかで次第に惹かれていったのが、明治から昭和の間に生み出された近代文学だった。
「学部3年生の演習授業を決める際、卒業論文でどの時代の作品を扱うか考えるようになりました。授業を受ける中で、明治や大正期の文学が面白いと感じるようになり、その流れで卒業論文のゼミを選びました」
その後、指導教官となった千葉俊二先生の専門が、谷崎潤一郎だったこともあり、研究テーマとして谷崎文学を深く掘り下げていくことになる。柴田准教授が谷崎に惹かれた理由の一つは、「文章から想起されるイメージと美学」だった。
「まず、谷崎の文章はとても読みやすく感じました。というのも、文章を読むだけで頭のなかで勝手にイメージが展開していったからです。映画を観るような感覚で、言葉が生み出すイメージを捉えることができました。そして作品のモチーフについても、私がもともとホラーなどグロテスクなものが好きで、幼少期には百科事典に載っている九相図をよく眺めていたので、谷崎の『秘密』や『少将滋幹の母』に親近感を覚え、谷崎の美に対する考え方に興味を抱きました」
卒業論文を進める中で着目したのが、『春琴抄』だった。この作品は繰り返し映画化されており、原作と映像作品の関係性に関心を抱いたという。また、谷崎自身も「映画」という新しいメディアに強い関心を寄せている作家でもあった。大正期に登場した映画は、当時としては最先端の表現媒体。谷崎は早くからその可能性に注目し、自ら映画制作に関わるほど熱中していた。
「谷崎の作品には、美しい女性と、その存在に魅了される男性というモチーフが生涯を通して繰り返し登場します。ある意味では一貫した作家性ですが、それだけならマンネリ化してしまう可能性もあります。しかし谷崎は、その時代ごとの新しい文化や価値観を柔軟に取り込みながら、自分の作品に反映していった作家だったと思っています」
近代化以降、日本だけでなく欧米でも既存の価値観が大きく揺らぎ始めた時代だった。芸術観そのものが変化していく中で、谷崎は固定観念にとらわれず、新しい表現や技術を積極的に吸収しながら、自身の創作へと結びつけていった。
「谷崎だけではなく、芥川龍之介や幸田露伴、室生犀星など、作家たちは何らかのかたちで新しいメディアやテクノロジーの影響を受けています。その中で、谷崎にとって特別な存在だったのが映画などの映像メディアだったと思います」
こうした研究テーマは、その後の柴田准教授の教育実践にもつながっていく。附属高校の現場では、実写映画やアニメーション、漫画などの映像作品を国語科教育へ取り入れ、文学と映像を往還しながら作品を読み解く授業を展開してきた。
作品を通して他者とつながること
今日において、「読む」「書く」「見る」はどうあるのか
生成AIの普及、ショート動画の定着、SNSによる情報消費の変化——。文章を読み、映像を見て、言葉を使う環境は、この数年で大きく変わりつつある。附属高校や大学で教壇に立ってきた柴田准教授も、その変化を日々実感しているという。特に文章を書く場面では、生成AIの存在が急速に身近なものになった。
「今の生徒や学生たちは、文章を書く際に生成AIを使うことが当たり前になってきています。うまく使いこなせればよいのですが、逆に使われてしまっていたり、思考すること自体を委ねてしまっているように感じることも度々あります」
国語科教員として考えるのは、その時代において「言語を使う力」をどう育てるかだという。言葉を組み立て、自分の考えを整理し、相手へ伝える力を、これからどのように養っていくのか。教育のあり方そのものが問われ始めている。一方、映像をめぐる環境も大きく変化している。
「ショート動画だけを見る層も一定数います。アニメーションだとしても長時間集中して見続けること自体が難しいという生徒・学生もいます。それを単に関心の程度や好き嫌い、学力の問題として片付けてよいのか疑問に思います」
映像を「分析的に見る」という経験を持たない学生も少なくない。なぜその場面でその構図なのか。なぜそのカメラワークなのか。画面のどこに意味が置かれているのか。そうした視点は、日本の学校教育では体系的に学ぶ機会が多くない。
「海外では、たとえばフランスでは映画について学ぶ授業もあります。しかし日本では、映像を読み解く力を育てる教育は、まだ十分に教育課程の中に位置づけられていません。映像リテラシーをどう育てるかは、重要なテーマだと思っています」
文学であれ映像であれ、大切なのは、作品に描かれている内容や用いられている表現を根拠にしながら、「読む」「考える」「書く」を往復すること。その基礎的な力を育むことこそが、国語科教育の役割だと柴田准教授は考えている。実際、高校や大学で映像分析の授業を行うと、学生たちの反応は大きく変わるという。
「リアクションペーパーなどを読んでいると、これまで何となく見ていた作品でも、『こういう視点で見ればいいのか』と新鮮に捉えてくれる生徒・学生が想像以上に多く存在しましたし、『考え方が変わった』『同じ作品を繰り返し見たくなった』という声がありがたいことに毎年届きます」
たった数ページでも、思いがけない世界につながっていく
現在、映像を扱う授業、近現代文学を読み解く授業、そして国語科教員を目指す学生向けの授業などを桜美林大学で行っている柴田准教授。
現代文学の授業では、村上春樹や村田沙耶香、朝井リョウらの作品を取り上げている。小説にあまり馴染みのない学生でも入りやすい作品を意識して選んでいるという。授業では、文学作品を読み解くための基礎となる「語り(誰が語っているのか)」や「焦点化(誰の立場を通して世界が描かれているのか)」といった概念を学ぶ。そうした文学理論や近現代思想、社会的・文化的・歴史的なコンテクストを手がかりに、作品を多面的に読み解いていき、文学がどのような環境で生まれ読まれてきたかを考え、思索を深める。
「村上春樹の作品を扱う授業では、1960年代以降の日本社会の変化や現代思想とも重ねながら作品を読んでいます。文学作品そのものだけではなく、その背景にある社会や時代とのつながりも含めて考えていくようにしています」
一方、近代文学の授業では、志賀直哉、芥川龍之介、太宰治など、日本近代文学のなかでも著名な作家たちを取り上げる予定だ。また、文学と映像の関係も重要なテーマの一つになっている。谷崎潤一郎や芥川龍之介が、大正期に台頭した映画という新しいメディアとどう向き合い、それを小説表現へ取り込んでいったのか。柴田准教授の研究テーマでもある文学と映像の関係を、学生たちとともに探究していく。
「高校の現場にいたからこそ感じるのですが、生徒とじっくり対話する時間は以前より取りづらくなっていると思います」
授業で提出された課題には、一人ひとりコメントを書いて返していた。しかし、その作業には多くの時間がかかる。それでも続けていたのは、言葉を介したやり取りそのものに意味があると感じていたからだという。
「自分が書いたものに何か反応が返ってくると、生徒たちのモチベーションに何らかの変化が見られます。以前勤めていた高校では『読書の記録』というものがあって、生徒の感想にコメントをつけていたら、交換日記みたいだという返信があり、なるほどなとこちらも楽しくなりました」
柴田准教授は、国語科教育の現場において、人と言葉が結びつく時間がこれからも失われてほしくないと願っている。映像でも文学でも構わない。一つの作品を見たり読んだりすることを通して、自分以外の誰かとつながっている感覚を持つこと。その実感が、いまの時代だからこそ大切なのではないか。
「一つの作品を読むと、その作家自身にも興味が湧いてきます。すると、その人が何を読んできたのか、どんな映画や作品に影響を受けたのか、さらに作家の生きた時代や社会へとつながっていくんです。数ページしかない短い作品であっても、その先に無数の広がりを持っています。文学は決して他者や社会を拒絶する閉じた世界ではありません。自分が関心を持てば持つほど、どんどん新しいものにつながっていく。そういう広がりを大学の授業で感じてもらえたら嬉しいですね」
教員紹介
Profile
柴田 希准教授
Nozomi Shibata
早稲田大学大学院教育学研究科教科教育学専攻博士課程修了、博士(学術)。早稲田大学本庄高等学院 非常勤講師、慶應義塾高等学校教諭、早稲田大学教育学部非常勤講師などを経て、2026年4月より現職。日本文学協会委員。
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