• リベラルアーツ学群

    統合領域博物館学

浜田 弘明 教授

Hiroaki Hamada

浜田弘明先生がインタビューに応じている様子
  • 67年ぶりの博物館法改正を主導
  • 高校時代の石仏調査から50年
  • 20年の現場経験を経て、「日本型学芸員制度」の再構築を提唱
浜田弘明先生がインタビューに応じている様子

67年ぶりの博物館法改正を主導した「現場を知る」研究者

博物館を研究する学問——博物館学とは何か

博物館の役割とは何か? と聞かれたとき、リベラルアーツ学群の浜田弘明教授は「博物館は『現代の正倉院』なんです」と表現するようにしているという。博物館には、資料収集・整理保管・調査研究・教育普及の4つの基本機能があり、その最大の使命は、人類の財産を後世に残し、伝えることなのである。

日本には現在、5,700を超える博物館がある。それらは社会教育法のもと、社会教育機関として位置づけられ、国民が等しく学べる生涯学習の場となっている。しかし、資料は保管するだけでは社会的意義を果たせない。展示や教育を通じて国民に知ってもらい、活用してもらうことが求められる。

「博物館学とは、博物館の理論と実践の両面を研究し、正しい社会的あり方を考える学問です。戦時中、博物館は戦争に向けた宣伝や植民地政策に利用されました。その反省から、戦後の博物館学は人類の平和と幸福への貢献を目指す学問として位置づけられています」

海外ではミュゼオロジー(Museology)と呼ばれ、歴史学、社会学、教育学、経営学などと関わる総合的な分野だが、日本で博物館学を専任で教える研究者は驚くほど少ない。「おそらく全国で20人程度でしょう」と浜田教授は言う。多くの大学では、歴史学や美術史などの専門家が兼任で博物館学を教えており、博物館学の「生え抜き」の研究者は少ないのが現状だ。

国立博物館は「正式な博物館」ではなかった!? 博物館法のねじれ

2022年4月、博物館法が67年ぶりに単独改正された。そもそもこの法律は「社会教育法(昭和二十四年法律第二百七号)」の精神に基づき、博物館の設置及び運営に関して必要な事項を定め、その健全な発達を図り、もつて国民の教育、学術及び文化の発展に寄与することを目的として、昭和26年(1951年)に制定されたものだ。今回の法改正では、「文化芸術基本法(平成十三年法律第百四十八号)」の精神が追加された。

この長い歴史を持つ法律の改正を実質的に主導したのが、文化審議会博物館部会の部会長代理、そして法制度の在り方に関するワーキンググループの座長を務めた浜田教授だった。

「審議期間3年という制約の中で、学芸員制度の改革については『中長期的な課題』とするにとどまりましたが、博物館登録制度の見直しを中心に博物館を取り巻く法的なねじれの解消を前進させることに努めました」

ここでいう「ねじれ」とは、戦後から長らく法改正が行われなかったことで生じていた矛盾だ。たとえば、東京の上野にある東京国立博物館。多くの国民が国を代表する博物館だと認識している施設が、実は法律上「正式な博物館」ではない状態にあるのだという。

「東京国立博物館も、隣接する国立科学博物館も、実は登録博物館ではない状態が続いてきました。法律上は文化財保護法の枠の中にある文化財保護機関であって、博物館法に基づく社会教育施設ではない。公立博物館や私立博物館は社会教育法のもとにある社会教育施設なのに、国立博物館は違う。同様のねじれ状態にある博物館、美術館は多く、『人類の財産を後世に残し、伝える』という目的を支える共通した認識を持つ必要があったのです」

旧博物館法を見ると、国立博物館は第5章「雑則」の中で「博物館に相当する施設」として扱われていた。1955年の改正以来、約70年間、この状態が続いてきたのだ。

「雑則に国立博物館があるなんて、ひどいと思いませんか。博物館らしきものとして認定しましょう、という扱いで70年間運営されてきた。この問題を何とかしたかったのです」

今回の改正では「指定施設」という新しい名称を与え、国立博物館は改めて日本の博物館のナショナルセンターとして位置づけることができた。これによって、ねじれが多少は改善されたのではないかと浜田教授は語る。

高校時代の石仏調査から始まった研究者人生

中学3年の春休みに始まった石仏との出会い

博物館法の改正を主導した浜田教授。研究者としての原点は、中高校時代の石仏調査にあるという。中学を卒業する春休み、担任の社会科教師から「教育委員会に頼まれた石仏調査を代わりにやってくれ」と依頼されたのがきっかけだった。「ひどい先生ですけど」と笑う浜田教授だが、これが後の研究人生を決定づけることになる。その後、高校では郷土研究部に入部した。すると、その年から部の主たる活動として地域の石仏調査が始まったのだ。

「1973年頃のことですが、私が通っていた高校のある相模原市は、都市化が激しく進んでいて、石仏もほとんど信仰されない時代に入っていました。登下校中の道端にもあるのですが、みんな倒されたりして荒廃していました。調べるたびに悲しい思いになって、石仏は文化財として残す意味があるのではないかと高校生ながら思ったのです」

石仏との出会いと研究の原点について語る浜田弘明先生

浜田教授ら部員たちは相模原市内の石仏1067体すべてを調査。そのデータを教育委員会に持ち込み、「歴史を伝える文化財が放置され、失われようとしている」と訴えた。運よく担当者がその高校の郷土研究部のOBだったことも幸いし、3年後、相模原市は石仏の保存を目的に報告書を作成することになる。

古文書に書かれていない「庶民の歴史」が見えてくる

浜田教授は、中高の頃から現在まで、ライフワークとして石仏研究を継続しているという。その魅力はどんなところにあるのだろうか。

「地理学的方法、つまり空間分析によって、古文書では見えない日本史が見えてくるのが魅力です。従来の石仏研究は、信仰対象として民俗学で研究されるか、銘文を読んで歴史学の資料にするかが中心でした。しかし、どんな種類の石仏がどこに分布しているかを調べていくことで、これまでとは違う日本の歴史が見えてきたのです」

たとえば、江戸時代の農民は年貢の取り立てが厳しく、貧しい生活をしていたというイメージが強い。しかし、石仏一体を建てるには現在の貨幣価値で何百万円もかかる。それが全国各地の村に何十、何百とある。

「もちろん、1年、2年で石仏が建てられたのではなく、200年ぐらいの時間をかけてのことですが、裏を返すと、村々にそれだけの資力があったということ。江戸時代の農民は決して貧乏なだけではなかったのだと思います」

また、最近の発見は江戸時代の農村の女性たちが、女性だけで団体旅行をしていたこと。これも石塔を調べていての発見だった。秩父三十四ヶ所や西国三十三ヶ所といった巡礼を終えた記念に、村に石塔を建てる。そこには参加者の名前が刻まれており、女性だけのグループがあったことが確認できたのだ。

「古文書には、農村の女性の暮らしについての記載はあまりありません。しかし、石仏や石塔の研究からは、江戸時代後半、女性だけで連れ立って自由に旅行していたことが見て取れる。旦那さんを放置して1か月も2か月も留守にして、家事は旦那さんがやっていたのでしょう。そういうことがわかってくるところも、研究のおもしろさですよね」

権力者側から見た歴史ではなく、庶民の暮らしの歴史。古文書に書かれていない、もう一つの日本史と言ってもいい史実。それを明らかにできるのが石仏研究の醍醐味だという。

集大成として『日本石造文化事典』を出版

2024年、浜田教授は長年の研究成果を国内初の『日本石造文化事典』(朝倉書店)の編集代表者としてまとめた。これは時代区分を軸に、地理的分布や文化的意味を重視しつつ日本の石の文化と歴史を総観した事典だ。

「私は文化を地理学的方法(地域的な分布や比較を軸とする方法)によって、諸文化事象の研究をしています。現在の主軸は博物館(美術館・科学館・動物園・水族館等を含む)ですが、石仏・水車・農具・軍事施設・生活空間・都市化など幅広く研究対象としてきました。ただし、石仏研究は今もアマチュアの愛好家が中心で、『学問にならない』と言われることも多い。しかし、私はそうした意識を覆したいという意識もあり、『石造文化』という名前をつけ、多くの研究者と協働し、石仏を含めた石の文化全体をまとめていきました」

桜美林大学では「文化地理学」の授業で2コマだけ石仏の話をし、博物館実習のフィールドワークでも石仏調査の方法を学生に教えているという。「半分趣味みたいなものですけどね」と笑いながらも、地道に次世代に研究の魅力を伝えている。

キャンパス内で佇む浜田弘明先生

学芸員として20年、そして大学教員へ。研究者としての転機

「身売り」されて博物館学の道へ

浜田教授が博物館学の道に入ったのは、学芸員として働きながら大学院に進学したタイミングだった。地理学を専攻し、石仏研究も続けていくつもりでいたところ、冗談っぽく「身売りされたんですよ」と言いながら、当時の出来事をこう振り返る。

「博物館学の教授が定年退官を間近に控えていて、『君には新しい学問として博物館学をやって欲しい』と言われたのです。博物館学の論文を書けば認めるから、と。地理学の指導教員も賛同して、私としては強い意志があったというよりも、流れに乗るように博物館学の道に入った感じでした」

学部卒業後に相模原市の学芸員として採用され、相模原市立博物館の立ち上げに参加。以来、20年間学芸員として勤務した。

「博物館学と人文地理学、2足のわらじをずっと履いてきた感じですが、学芸員としての経験は私の研究のベースにあります。また、桜美林大学に入ってから改めて博物館を取り巻く法制度や海外の事例を調べていく中で、日本独自の博物館運営や学芸員のあり方を発展的に変えていきたいという思いを持つようにもなりました」

現場を知る強み、「日本型学芸員制度」を提唱

日本の学芸員制度は世界的に見ても独特だという。博物館法に基づき、大学で専門知識を修得し、国家資格「学芸員」を取得後、博物館(美術館、動物園、水族館含む)に専門職員として任用される仕組み。日本の学芸員は、資料の収集、整理、保管、展示企画、調査研究、教育普及活動、広報など、博物館運営に関わる非常に幅広い業務を一人で担当する。浜田教授はこうした「日本型学芸員制度」は、欧米型の細分化された専門職制度とは異なり、日本の実情に合った制度だと評価しつつ、その改善も提唱している。

「たとえば、東京国立博物館の職員は100人あまりしかいません。しかし、ルーヴル美術館には2,000人あまりの職員がいます。もう規模が全然違う。これは欧米では学芸員が、主に展示の企画や研究を担当するキュレーター、資料や作品情報の管理や法的手続きを担うレジストラー、作品の物理的な取り扱いを行うハンドラーなど、専門職として細分化されているからです」

しかし、日本の多くの博物館では、学芸員が1人か2人しかいない。そこに多数の専門家を置く方向での制度改革は非現実的だ。

「もし欧米式の学芸員制度を制度化してしまったら、日本の博物館のほとんどが潰れてしまいます。そんなに人員が置けませんから。だからこそ、日本にはあらゆることができる学芸員を養成しながら、その待遇を改善していく必要があると考えています」

2022年4月、67年ぶりの博物館法改正では、日本型の学芸員制度の改革は「中長期的な課題」として先送りされた。しかし、学芸員経験も豊富で、現場の事情をよく知る浜田教授は日本の実情に合った学芸員制度の構築を今後も訴え続けていくという。

資料を動かすのは人間関係。コミュニケーション能力の重要性

「学芸員は研究対象となる『モノ』を相手とする仕事だと思っている人が多い」と浜田教授は語る。あまり人と接しない仕事だから、内向的な自分でもできると思って学芸員を目指す学生もいるという。

「しかし、20年学芸員をやってみて、それは全然違うと気づきました。たとえば、資料を寄贈してもらうとき、持ち主との信頼関係がないと物事は動き出しません。また、特別展のときに他の博物館や個人コレクターから資料を借りることもありますが、これも信頼関係があってこそ実現できること。『あなたは知識を持って、しっかりと対応してくれるから貸しても安心』と思ってもらえるかどうかが重要です」

つまり、資料が動くには、人間関係が構築されて初めて可能になる。浜田教授は学芸員を目指す学生たちに、人との関わりがないと成り立たないという博物館の仕事の現場観を伝え、コミュニケーション能力の重要性を教えている。

「学内実習では技術を教えますが、最終的には教育実習のように現場に出て、現場の学芸員や利用者である市民と出会い、授業で聞いたことを確認してもらう。すぐに成果が出なくてもいい。時間をかけて資料と向き合うこと。そして、博物館の仕事は人との関わりが何より大事だということを、学生には伝えています」

高校時代の石仏調査から50年。学芸員として20年、大学教員として20年以上。浜田教授の研究者人生は、常に「現場」を大切にし、「社会」に目を向けてきた。67年ぶりの博物館法改正を主導し、日本の博物館の未来を切り開こうとする姿勢は、まさに「現代の正倉院」を守り続ける使命感から生まれている。

教員紹介

Profile

キャンパス内で佇む浜田弘明先生

浜田 弘明教授

Hiroaki Hamada

1957年生まれ。法政大学大学院人文科学研究科修士課程修了。相模原市立博物館学芸員として20年勤務した後、2002年より桜美林大学。専門は博物館学、人文地理学。日本の博物館制度、特に学芸員制度に関する研究の第一人者。2019年から2022年にかけて文化審議会博物館部会部会長代理、法制度の在り方に関するワーキンググループ座長を務め、67年ぶりの博物館法改正を主導した。2017年から2021年まで全日本博物館学会副会長。2016年、日本博物館協会棚橋賞受賞。主な著書に『日本石造文化事典』(共編著、2024年)、『博物館学の原理』(共編著、2025年)、『博物館の理論と教育』(編著、2014年)など。

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