政治社会を構成する人間観の再検討—エマニュエル・レヴィナスの思想に依拠して
近代思想の行き詰まり
「研究テーマを大きな枠組みの中で表現すると、「政治社会を構成する人間観の再検討」と言えます。近代政治思想は自己保存の原理をもとに展開されましたが、これを20世紀の思想家エマニュエル・レヴィナスに依拠して問い直していこう、ということです」
そう語るのは、リベラルアーツ学群の冠木敦子准教授だ。背景には近代思想の行き詰まりがある。
「思想史をたどると17世紀ヨーロッパにおいて、「自然の世界」と「人間の世界」を明確に区別するという大きな転換がみられます。これを象徴するのが「われ思う、ゆえに我あり」と唱えたルネ・デカルトです。彼は自然から区別される人間の能力を吟味し、疑いえない確実性を主観的思惟に見出して、そこから客観的知識を基礎づけようとしました。
この認識図式は、伝統的な宇宙観や秩序観を大きく変容させました。たとえば、それまで国家は土地そのものと不可分の存在として理解され、神話や慣習が共同体を支えていた。しかし、科学的な自然観とその認識そのものを成り立たせるような人間がそれぞれ自律すると、国家や社会は「自然」のように最初からそこにある「与えられたもの」ではなく、「人間が構築するもの」と認識されるようになるわけです。ここに近代社会契約論が成立し、同時に、「自己保存の権利」に依拠した人間の「自由の原理」が確立され、人権や民主主義理念が発達しました。
しかし現代において、自由の原理をはじめとする近代の理念は大きな問題に直面しています。人間の欲望に立脚した近代市民社会は格差社会を招来し、また自由主義思想が前提とする人間観はフェミニズム思想からの批判にさらされています。「自由で平等、自立した個人」が政治参加の主体だというが、そのような個人は衣食その他をケアする人に依存している事実を忘れているのではないか、というわけです」
近代思想が前提としてきた「人間」「個人」というものをもう一度鍛え直す必要があるのではないか。このような問題意識を背景に冠木准教授は、レヴィナスの思想に着目する。しかしこれを理解するためには、まずレヴィナスが、現象学という手法をとることに注意が必要だ。
現象学 —主体/客体という近代的な認識の図式を乗り越える
「現象学とは、先入見を排し、意識に現れる「現象」そのものを記述する試みであり、エドムント・フッサールが創始しました。19世紀に自然科学が飛躍的に発展すると、数学を基盤として理念化された科学的世界像こそが真理であり、私たちが日常的に経験している世界は「見かけ」に過ぎないのではないか、という理解が広まっていきます。この感覚は現代も同様にあり、たとえば、私たちは幼い頃、素朴には太陽が動いているように感じていますが、学校などで地動説を学ぶと、感覚的経験よりも科学的説明の方が真理であると理解するようになります。しかし実は、自然科学が述べるような「客観的な世界」が最初から存在するのではなく、科学者が具体的な経験を観察し実験によって確認した事柄から、最終的に世界は構成されるはず。それにもかかわらず私たちはこの経験の基盤を忘却しているのではないか。フッサールはそう問いかけ、主体/客体の図式を超えて、客観的世界が依って立つ次元に立ち戻り、事象そのものを記述しようとする。この現象学の問題意識をレヴィナスはさらに推し進めます。フッサール現象学がその「外部」に出会ってしまうような地点を探り当て、この「他なるもの」「他者」との出会いと応答(責任)について語りだすのです。」
レヴィナスの手法が現象学であることから、彼の言葉を、私たちが素朴に理解している日本語そのままに受け取らないよう気をつけなければならない。その言葉でもってどのような事態が明らかにされようとしているのかに精神を研ぎ澄ませることが必要だ。冠木准教授はレヴィナスの「享受」「傷つきやすさ」という概念に着目する。
享受と傷つきやすさ
「他なるもの」を味わうこと
「レヴィナスは、人間の自存性の根源的な在り方を「享受(jouissance)」という言葉で捉えようとしました。『私たちは“おいしいスープ”、大気、光、風景……等々によって生きている』と語られています。スープを飲むとは、単に栄養を補給する行為ではなく、トロトロとした感触や香り、味わいを感じることでもある。視覚や嗅覚、触覚を通して「他なるもの」を味わうこと、そこに享受の本質があります」
近代的認識の図式では、たとえば空を見るとき、「青い」「雲がない」等といった仕方で対象としての空を把握する。しかし、私たちの日常的な経験は必ずしもそのような構図には還元できない。外に出て、ただぼんやりと空を眺め、その青さの中に身を置くとき、私たちは対象を分析しているのではなく、その只中にいる。世界は利用や認識の対象としてではなく、「味わわれるもの」としてまず現れるのだ。
「重要なのは、享受が単なる自己保存ではないという点です。近代思想とは異なり、レヴィナスは自己保存の原理から議論を始めません。パンを食べること、スープを飲むこと、空の青さを感じること。そうした「味わうこと」そのものが“生きる”ということなのです。もちろん、生きるために食べるという側面も人間にはあります。しかし、享受は自己保存を目的とする行為ではなく、世界の豊かさに浸る在り方を指しているのです」
「享受すること」は同時に「傷つくこと」でもある
享受とは、世界を味わい、それによって生きることである。しかし、そこには常にある種の危うさ、傷つきやすさが潜んでいる。
「パンを食べるとき、身体に取り込まれて消化されるのであれば、そこで「他なるもの」としての隔たりは消失します。しかし食べて消化不良を起こすかもしれないし、身体に合わずアレルギー反応を示すこともある。享受とは、他なるものを自己の内に迎え入れることですが、そのことは同時に、他なるものに身を開き、傷つけられる可能性に曝されていることでもあるのです」
この傷つきやすさは、「老い」という現象によっても理解することができる。ただしそれは、単に生物学的に年齢を重ねることを意味しない。時間が経過する存在としての人間、その身体のうちに、思い通りにならないものが現れるという経験だ。
「苦痛、疲労、病……。自らの意志では統御できないものが自らに降りかかる。老いとは、時間の経過が刻まれることにほかならないのです。人間は時間的に存在するがゆえに、傷つきやすい存在でもあるといえます。私たちは他なるものに曝され、自らの思い通りにならないものとともに生きている。その事実に目覚め、応答することが『私』というものを構成するのです」
自己の中にある、ままならない他者性に気づくことは容易ではない。しかしその目覚めが主体に変容をもたらし、ひいては社会の在り方にも問いを投げかけることになる。
「たとえば、現代社会における労働は効率化を極限まで追求してきました。競争と生産性を前提とする社会の構造は、健康で自立し、常に機能し続けられる主体を暗黙の標準としてはいないでしょうか。老いも病気も存在しないかのような振る舞いを強いられる社会、あるいは介護されること・すること、障害を負う可能性、妊娠・出産でさえイレギュラーなこととして、生産性を落とす欠損として捉える社会になっていませんか。私たちは人間の『傷つきやすさ』という観点からもう一度社会を考え直してみるべきではないでしょうか。近年、政治学でも盛んに論じられるようになってきた『ケアの倫理』はフェミニズム思想から発展したものですが、人間の脆弱性や関係性を重視しており、レヴィナス思想と大いに響き合うところがあるでしょう」
身体を通して考えていくことを大切にしたい
激動の時代でも揺るぎないもの
冠木准教授が大学生になった1980年代末から1990年代初頭にかけて、日本と世界は大きく揺れ動いていた。1989年には中国で天安門事件が起こり、ドイツでベルリンの壁が崩壊する。冠木准教授がアメリカ留学中だった1991年には、ソ連でクーデター未遂事件が発生し、その後、ミハイル・ゴルバチョフが大統領を辞任、ソ連邦は解体へと向かった。帰国後の日本でも、1993年にいわゆる55年体制が崩壊し、長期にわたる政治構造が大きく転換した。
「留学中にソ連のクーデター未遂事件のニュースに触れたとき、そんなことが起こり得るのかと強い衝撃を受けました。当時は、こうした政治の現実を捉えたいという思いがあり、計量政治学の方法で政治を分析する方向に進もうと考えていました。しかしその時とある先生から、『政治の現実を知ることも大切だが、その背後にある哲学や歴史、理論を学ばなければ、現実に流されてしまう』という助言を受けたのです」
この言葉が転機となり、冠木准教授は政治思想史のゼミナールを選択する。そこでは、いわゆる政策論や制度論といった狭義の政治からいったん距離を取り、「政治とは何か」をより根源的に問い直す営みが重視されていた。そのゼミで研究されていたのは、宗教改革者のジャン・カルヴァンや、神学者であり哲学者でもあったウィリアム・オッカムといった思想家たちだった。そこではまず、世界とはどのようなものであるか、人間とは何かが問われ、その上で政治や国家が問題にされていった。
「それまで私は、制度や政策といった狭い意味での政治しか見ていなかったのだと気づきました。しかし人間の営みである政治は、人間観や世界観と切り離せない。むしろそこから出発しなければならないのだと思うようになったのです」
さまざまな思想家の著作を読むなかで、冠木准教授は次第に、近代・現代の政治思想そのものを直接の対象にするのではなく、より根源的な哲学的・宗教的次元から思索を深めたいと考えるようになった。政治の枠内にとどまらない地点から、人間と社会の在り方を問い直す道を模索した。その探究のなかで出会ったのが、レヴィナスだった。レヴィナスは哲学者であると同時に、ユダヤ思想家として、タルムード(ユダヤ教のテクスト)読解も多く残し、その上で政治社会に対する考察を行っている。
身近なテーマから考えてみる
研究を始めた頃から20年以上を経て、冠木准教授はあらためて「思想と言葉の力」の大きさを実感しているという。
「政治というと、税金の使い道や政策論争を思い浮かべがちですが、授業では、民主主義とは何か、自由とは何か、といった根源的な問いまでさかのぼって考えています。すると、政治が単なる制度や手続きの問題ではなく、人間観や社会観に深く関わる営みであることに気づく学生も少なくありません」
もっとも、思想家の理論を情報として与えるだけでは、真の理解には至りにくい。理論を知識として受け取るだけでは、自分の問題にはならないからだ。
「たとえばあるテーマを扱うとき、まず身近な経験に引き寄せ、自分の意見や感想を言葉にしてもらうようにしています。そのうえで、思想家の議論と照らし合わせ、自分はどこに共感するのか、どこに違和感を覚えるのかを考えていく。そうすることで、学生自身の感覚や思考の輪郭が見えてくるのです。そのため、学生には身体を通して考えることを大切にしてほしいと思っています」
身体を通すとは、抽象的な理論を、自己の経験や感受性を通して考えることだ。それは単なる理解を超えて、自己を問い返す作業でもある。
「人間を自己保存する存在から一歩抜け出した、享受する様態から捉えるレヴィナスの考え方に、私は大きな魅力を感じています。生きることを、単なる生存ではなく、世界を味わい感受することとして考える。彼が描き出す人間の生の豊かさは、非常に示唆的です」
レヴィナス的視点に立てば、各人が自らの身体に引き受けて考えることが出発点となる。享受し、傷つき、揺らぎながら思索する。その動的な営みのなかでこそ、「私」は形づくられ、他者への応答責任を担う主体となる。
「偉大な哲学者の言葉がそのまま答えになるわけではありません。何より大切なのは、自分がどう感じ、それをどう深めていくかです。そこを起点にしなければ、思想は生きたものにならない。だからこそ、学生にも、自分の身体を通して考えることを大切にしてほしいし、私自身もそうありたいと思っています」
教員紹介
Profile
冠木 敦子准教授
Atsuko Kabuki
1969年福島県出身。慶應義塾大学大学院 法学研究科 政治学専攻 博士課程単位取得満期退学。嘉悦大学 経営経済学部 非常勤講師、國學院大学 法学部 非常勤講師を経て、2003年に桜美林大学に着任。2010年より現職。共著に『差異のエチカ(叢書「倫理学のフロンティア15」)』(ナカニシヤ出版)、『岩波講座 哲学〈6〉モラル/行為の哲学』(岩波書店)、『現代哲学の名著—20世紀の20冊』(中公新書)、『レヴィナス読本』(法政大学出版局)など。
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