• ビジネスマネジメント学群

    ビジネスプログラムエアラインビジネス領域

上原 裕之 教授

Hiroyuki Uehara

上原裕之先生がインタビューに応じている様子
  • 日本初の中長距離LCC「ZIPAIR」を立ち上げた
  • 貨物から経営企画、地域航空まで
  • アメリカとイギリス、計10年以上の海外勤務経験
上原裕之先生がインタビューに応じている様子

日本初の中長距離LCC「ZIPAIR」を立ち上げた

航空サービスの常識を見つめ直す

2017年6月、日本航空(JAL)に在籍していたビジネスマネジメント学群の上原裕之教授は、経営陣から呼び出しを受けた。JAL入社から30年以上。運航現場から経営戦略まで幅広い経験を積み、航空事業全体を俯瞰できる人材として評価されていた上原教授に、新たなミッションが託されたのだ。

「新しい航空会社をつくるので担当してほしいと言われました。『誰と、どこでやるのですか』と尋ねたら、『お前一人だ』と。そのプロジェクトとは、中長距離路線に特化したLCC(格安航空会社)の構想でした」

当時、LCCといえば短距離路線が主流であり、中長距離路線での事業化は世界的にも成功事例が限られていた。しかも計画は極秘扱い。上原教授は経営企画部門の一角で、たった一人、事業モデルの構築に取り組むことになった。

「まずは本当に商売として成立するのかを徹底的に検証しました。販売方法はどうするのか。乗員はどう確保するのか。整備体制はどう構築するのか。一つひとつ積み上げながら、事業の骨格をつくっていきました」

約3か月後。構想をまとめ上げた上原教授は、全役員を前に初めて事業計画を提示した。その根底にあったのは、「航空サービスの常識を見直す」という発想だった。従来の航空会社は、多くのサービスを運賃に含めることで付加価値を提供してきた。しかし上原教授は、利用者が本当に必要としているサービスだけを選べる仕組みのほうが、時代に合っていると考えた。

「必要のないサービスまで含めて高い運賃を払う時代ではないと思ったのです。快適に移動できるという基本品質はしっかり確保しながら、それ以外はお客様自身が選択できるようにする。そのほうが満足度も高くなるはずでした」

もちろん、低価格を実現するためには徹底した効率化も欠かせない。機材には最新鋭のボーイング787を採用し、高い燃費性能を活かす。機内設備も見直し、限られたスペースを最大限活用することで座席数を増やす。一方で、長距離路線に必要な快適性は犠牲にしない。

「飛行機にはできるだけ長く飛んでもらう。回転率を高めることが重要です。そのうえで、長距離でも無理なく過ごせる座席間隔は確保する。機内エンターテインメント専用設備は設けず、自分のスマートフォンやタブレットで楽しんでもらう。Wi-Fiは無料で使えるようにする。機内食も画一的なものではなく、多彩なメニューから選べる形にしたほうが、お客様の満足度は高まると考えました」

さらに上原教授は、日本の地理的優位性にも着目した。アジアと北米を結ぶ航空ネットワークにおいて、日本は極めて有利な位置にある。日本発着需要だけでなく、アジア各国と北米を結ぶ乗り継ぎ需要も取り込める可能性があった。

「役員の前で発表すると、『そんなの無理だ』『成功するわけがない』『やるべきではない』という意見もたくさんありました。しかし一方で、検討そのものに反対する人はいませんでした」

こうして計画は次の段階へ進むことになる。2017年秋からは少人数の専門チームを編成し、本格的な事業化検討を開始。社内の各分野の専門家に加え、外部有識者の知見も取り入れながら、約半年をかけて事業モデルを磨き上げた。そして2018年、構想は正式に承認され、準備会社の設立を経て新しい航空会社が誕生する。その名は、「ZIPAIR Tokyo」。

JALが100%出資する中長距離LCCとして設立されたZIPAIRは、従来のLCCともフルサービスキャリアとも異なる、新しい航空会社の姿を追究する存在となった。上原教授がゼロから描いた構想は、やがて実際の航空会社として形になり、世界へ羽ばたいていくことになる。

貨物から経営企画、地域航空まで
航空業界のさまざまな現場を見てきた

国際的な環境への憧れから航空業界へ進んだ経緯について語る上原裕之先生

国際的な環境への憧れが航空業界への道を開いた

上原教授は、学生時代から国際的な環境で働きたいと考えていたという。中学・高校時代は、外国人教員が数多く在籍する学校に通い、英語の授業だけでなく、さまざまな科目を海外出身の教員から学んだ。日常的に異なる文化や価値観に触れる、当時としては非常に珍しい教育環境だった。

「サッカー部に所属していましたが、監督はスペイン人でした。学校生活そのものが国際色豊かで、自然と海外や異文化への関心が高まっていったのです。将来は、海外出張や海外赴任もしてみたいという、漠然とした憧れも抱いていました」

大学進学後もその思いは変わらず、就職活動では「英語を使いながら国際的な仕事がしたい」という軸を持って企業を探していた。その中で、単なるビジネスというよりも、社会的な意義や公共性のある仕事に携わりたいとも考えた。

「そうした条件を考えたときに、航空会社という選択肢が自然と浮かんできたのです。海外と日本を結ぶ仕事がしたい。その思いからJALを志望し、ご縁があって入社することになりました」

入社後、最初に配属されたのは大阪・伊丹空港の貨物部門だった。便ごとの貨物搭載計画を立案し、重量バランスを確認しながら、限られたスペースを最大限に活用することが求められた。

「どの貨物をどこに積むのかを計画し、現場へ指示を出す仕事でした。重量管理や各種書類の確認も含め、飛行機を定刻通りに出発させるための責任を担っていました」

その後、貨物部門の別の現場や支店の総務部門などを経験し、入社から約5年後、念願だった海外勤務の機会が訪れる。赴任先は、アメリカ・ワシントン州のモーゼスレイク。広大な土地を活用したパイロット訓練所が置かれていた場所だった。

「総務担当として働きながら、パイロットがどのような訓練を受けているのか、整備士がどのような仕事をしているのかを間近で学ぶことができました。施設を利用する訓練を行う乗員や出張者の多くは日本人でしたが、現地スタッフの大半はアメリカ人。整備部門も半数近くが現地採用のスタッフで構成されていて、日常的に英語を使って仕事ができました」

国内線ネットワークの拡充に挑む

約2年間のアメリカ勤務を終え、上原教授は1993年に帰国した。その後は運航本部に配属され、パイロットに関わるさまざまな業務を担当することになる。最初は運航乗務員の管理業務に携わり、その後は約1000人規模のパイロットの勤務スケジュールを作成する業務を経験。さらに、パイロットの労働組合との交渉窓口を務めたほか、人員計画を担う企画部門では、採用・育成から配置までを含めた運航乗務員の中長期的な計画づくりにも携わった。

その後、本社の経営企画部門へ異動。ここでは事業計画の策定に携わり、とりわけ国内線ネットワークの拡充に力を注ぐことになった。

「当時は、まだ日本エアシステム(JAS)と経営統合する前。JALは国際線に強みを持つ一方、国内線については主要都市間の路線が中心でした。そこで、地方路線の拡充や新たな需要の開拓が重要な課題となっていたのです」

実際に、国内の地方3空港への同時就航や、地方航空を新たな拠点として整備するプロジェクトにも参画。また、地方航空ネットワークの充実を目指し、リージョナルジェットの導入にも携わった。

「当時、広島を拠点に19人乗りのプロペラ機を運航していたジェイエア(J-AIR)を名古屋へ移転し、50人乗りのジェット機を導入しました。大都市と地方だけでなく、地方都市同士を結ぶ新たな航空ネットワークの構築に取り組んだのです」

もっとも、新たな拠点や路線を開設する際には、機材配置や乗員計画、整備体制などを総合的に設計しなければならない。上原教授も現地へ赴き、空港設備や地域の状況を確認しながら、自治体や関係者との調整を重ねて計画を進めていった。一方で、すべての路線が期待通りの成果を上げるわけではない。需要や採算性を見極めたうえで、時には路線の縮小や撤退について地域と協議することもあったという。

欧州貨物支店へ——ロンドンで欧州全域の物流戦略を担う

2002年から2004年にかけてのJALとJASの経営統合に伴い、社内体制も大きく変化していった。経営企画部門も組織改編の対象となり、上原教授は貨物部門へ戻ることになった。当時は、貨物事業を独立した会社として運営する構想も検討されており、上原教授もそのプロジェクトに携わった。しかし、事業を取り巻くさまざまな権利関係や制度上の課題を精査した結果、独立によるメリットよりもデメリットの方が大きいと判断され、計画は見送られることに。その後は、JALとJASの統合に関する事務局業務などを担当していたが、ちょうどその頃、再び海外赴任の辞令が下る。赴任先はイギリス・ロンドンだった。

「2003年1月に家族とともにロンドンへ渡りました。欧州貨物支店に配属され、ヨーロッパ貨物営業の企画を担当することになったのです。旅客便とは異なり、貨物輸送には特有の課題があります。それは、お客様は往復で利用してくれますが、貨物はそうではないということです。日本からヨーロッパへ荷物を運んでも、帰りの便に積む貨物を確保できなければ、空っぽのまま飛ぶことになります。そのため、いかに帰路の貨物スペースを埋めるかが重要になります」

ノルウェー産のサーモン、オランダ・アムステルダムに集まる世界中の花、ドイツの自動車関連部品、医薬品など、輸送対象は多岐にわたる。既存顧客との長期契約も維持しながら、新たな貨物需要を開拓し、航空機の搭載率を高めていくことが重要なミッションだった。

「長年取引のあるお客様向けに一定のスペースを確保する一方で、新たな貨物需要も常に探していました。また、『今回だけ何とか載せてほしい』という相談を受けることもあり、限られたスペースをどう調整するかも重要な仕事でした。なかでも印象に残っているのが、地中海で養殖されたマグロの輸送プロジェクト。チュニジア沖で養殖されたマグロを、パリ経由で日本へ輸送する取り組みに関わりました。そのために現地の養殖場まで出張したこともあります」

上原教授が営業の最前線に立つこともあったが、主な役割は欧州全域の戦略立案とマネジメントだった。市場動向を分析しながら、中長期的な貨物戦略を描いていく。ロンドンでは約4年間、その責任を担った。

一方で、ヨーロッパ駐在生活では、仕事だけでなく趣味のサッカーも存分に楽しんだ。当時のイングランド・プレミアリーグには、ボルトン・ワンダラーズでプレーする中田英寿や、フラムFCで活躍する稲本潤一が在籍しており、スタジアムにも足を運んだという。アーセナルファンだった上原教授にとって、ロンドンはまさに理想的な環境だった。さらに、ドイツで開催された2006 FIFAワールドカップも現地で観戦した。

「日本対ブラジル戦もスタジアムで見ていました。日本が先制点を取って会場の日本人サポーターは大盛り上がりでしたが、周りのブラジル人たちはまったく慌てていなかった。その空気感が印象的でしたね。そして、その後はあっという間に逆転されてしまいました」

JALの経営破綻と再建の最前線に立つ

ロンドン駐在中から、JALを取り巻く経営環境は徐々に厳しさを増していた。2005年頃から業績不振や不安全事象が相次ぎ、経営状況は悪化。貨物事業についても、「このままでは収益を確保できないのではないか」という議論が社内で高まっていた。

2007年5月に帰国した上原教授は、貨物業務部に配属され、JALグループの貨物事業を今後どうしていくべきかを検討する戦略プロジェクトを担当することになった。

「貨物事業の将来像をどう描くのか。他社との提携を進めるべきなのか、それとも事業そのものを見直すべきなのか。さまざまな選択肢を検討していました」

経営企画部門に異動した後も継続して、貨物事業のリスクや収益構造を分析し、抜本的な改革案を模索していた。しかし、その議論の最中に世界経済を揺るがす出来事が起こる。2008年9月のリーマン・ショックだ。すでに経営基盤が揺らいでいたJALにとって、この出来事は決定的な打撃となった。

その後、上原教授は経営企画部門の一員として、経営破綻を回避するための検討チームに加わることになる。しかし状況は好転せず、2010年1月19日、日本航空は約2兆3,000億円の負債を抱え、会社更生法の適用を申請した。戦後最大規模ともいわれる経営破綻だった。

再建プロセスでは、上原教授は戦略部門の責任者の一人として、JAL再生に向けたさまざまな施策に携わった。当時、再建を主導したのが、京セラ創業者の稲盛和夫氏だった。

「稲盛さんが掲げた『JALフィロソフィ』の浸透は再建の柱の一つとなり、私はその策定メンバーの一人として活動していました。また、再建期は、これまでの常識にとらわれない発想が求められました。どうすればJALが再び成長できるのか。提携戦略の検討やブランド戦略の再構築など、さまざまなテーマについて議論し、その方向性をまとめていく役割を担っていました」

もっとも、再建が進むにつれ組織体制の見直しも進められた。経営企画部門に権限が集中しすぎているとの指摘もあり、2010年12月には組織再編が実施され、上原教授が所属していた経営企画室も解散となった。

時代を先取りしていたJALエクスプレス

JALの経営再建が進む中、上原教授に新たなミッションが託された。それが、グループ会社であるJALエクスプレス(JEX)の改革と成長を牽引することだった。

JEXは、ボーイング737を主力機材とし、主に大阪・伊丹空港を拠点に運航していた航空会社である。若手のパイロットや客室乗務員を積極的に採用・育成し、サービスを効率化しながらも親しみやすい航空会社を目指していた。

「現在のLCCとは異なりますが、機材の効率的な運用や若手人材の積極登用、サービスの簡素化など、LCCにつながる発想を早い段階から取り入れていた会社だったと思います」

経営破綻後のJALは、大型機中心の運航体制を見直し、より効率的な機材構成へと転換を進めていた。その流れの中で、JEXが培ってきた運営ノウハウはグループ全体にとって重要なモデルとなった。

「もともとJEXは、地方路線を効率的に運航することを目的として大阪を拠点に展開していました。しかし、その後の環境変化によって、羽田空港の発着枠拡大に伴い、ボーイング737を首都圏路線へ投入する機会が増加していきました」

運航の中心は徐々に羽田へ移りつつあるが、本社機能は依然として大阪に置かれている。このままでは効率が悪い。そこで浮上したのが、本社機能を東京へ移転するという大規模なプロジェクトだった。

「私がJEXに異動してきたタイミングが、まさにこのプロジェクトでした。社員は約1000人いました。皆、大阪で働くことを前提に入社し、会社への愛着や誇りも持っていましたから、東京移転には当然ながら大きな反発もありました」

住居や家族の問題、生活環境の変化など、移転に伴う課題は数多くあった。東京勤務を受け入れられず退職を選ぶ社員もいたため、新たな採用活動も並行して進めなければならなかった。

「社員に向き合いながら、約2年かけて会社を東京へ移転させました。しかし、苦労の末に東京移転を実現した後も、さらに大きな決断が待っていました。JEXが、JAL本体へ統合されることになったからです。せっかく大阪から東京へ移転してきたのに、今度は『会社そのものがなくなります』と伝えなければなりませんでした」

2014年9月末、JEXはその歴史に幕を下ろした。統合にあたっては、パイロットや客室乗務員、地上スタッフを含むすべての社員について、新たな配属先を決める必要があった。上原教授は最後までその調整役を担い、自らも統合を見届けた。

「全員の行き先を決めて送り出した後、自分はどうなるのだろうと思っていました。本社に戻るのかなとも考えていたのですが、次の赴任先は、北海道を拠点とするコミューター航空会社、北海道エアシステム(HAC)でした」

地域インフラとしての航空の価値

HACは札幌の丘珠空港を拠点に、36人乗りのプロペラ機3機で北海道内の路線を運航する地域航空会社だ。もともとはJASの子会社だったが、JALとJASの統合に伴いJALグループの一員となった。しかし、JALが経営破綻した際、採算性の観点からグループから離され、北海道内の企業や自治体などが出資する形で独立。厳しい経営環境の中で事業を続けていた。その後、JALの経営再建が進んだことで再びグループへ迎え入れられることとなり、その再グループ化のタイミングで上原教授が着任した。

「HACの皆さんからすれば、一度切り離された後に『やはり戻ります』と言われたわけですから、少なからず複雑な思いもあったと思います。だからこそ、JALが責任を持って支援し、雇用を守りながら会社をより良くしていくということを、丁寧に説明していきました。HACが独自に築いてきた強みを大切にしながら、そこへJALのノウハウを加えていく。そんな姿勢で向き合っていました」

北海道での勤務は初めてだったが、奥尻島や利尻島をはじめ道内各地を頻繁に訪れた。そこで実感したのは、航空が単なる移動手段ではなく、地域社会を支える重要なインフラであるという事実だった。

「北海道は広大な土地を持っていますが、人や機能は札幌に集中しています。物流であればトラックで数時間かけて運ぶこともできますが、人の移動はそうはいきません。たとえば、離島から札幌の病院へ定期的に通院している高齢者の方もいますし、医師が離島や地方都市へ赴くケースもあります。そうした移動を数十分で結ぶ航空の役割は非常に大きいのです」

HACが運航する路線の多くは、地域住民の生活や医療を支える重要な交通手段である。一方で、利用者数だけを見れば、必ずしも高い収益性が見込める路線ばかりではない。離島割引制度なども整備しながら、公的支援も活用することで運航を維持していった。

その後は、新型機材の導入など将来を見据えた検討にも携わった。しかし、HACでの取り組みが続く中、2017年6月、JAL本社から一本の呼び出しを受ける。

「新しいプロジェクトを任せたい」

そのプロジェクトこそ、後に日本初の中長距離LCCとして誕生するZIPAIRの立ち上げだった。

航空業界の未来を考えられる人材を育てる

キャンパス内で佇む上原裕之先生

2度目のロンドン勤務へ

ZIPAIRの立ち上げプロジェクトを軌道に乗せた後、上原教授は運航開始を見届ける前にプロジェクトを離れることになった。長年にわたり第一線で働いてきたこともあり、「そろそろ引退してもいいかもしれない」と考えていたという。そんなとき、ロンドン赴任を打診された。

「返事は少し考えさせてくださいと言って持ち帰り、家族に相談しました。すると妻から『どうせ行きたいんでしょう』と言われました。まさにその通りだったので、引き受けることにしました。2019年4月から、欧州・中東地区支配人兼ロンドン支店長として、地域全体を統括する立場を担うことになりました。2回目のロンドン勤務でしたし、それまでにさまざまな経験を積んできたこともあって、現地には旧知の関係者もいました。最初のうちは会食や出張もあり、順調なスタートだったと思います」

しかし、2019年末頃から新型コロナウイルスの話題が広がり始め、2020年には世界的なパンデミックへと発展する。旅客需要は急激に落ち込んだが、貨物需要は残っていたので便そのものは運航していた。ただ、出張や会食はすべてなくなり、単身赴任だったこともあって、かなり厳しい時期だったと上原教授は語る。

一方で、赴任当初から力を注いでいた案件もあった。ロシア・ウラジオストク線の新規開設である。当時、ウラジオストクは欧州地区の管轄に含まれており、上原教授は何度も現地へ足を運びながら路線開設の準備を進めていた。

「商業的には決して簡単な路線ではありませんでしたが、ようやく就航にこぎ着けたところでコロナ禍になってしまいました。そして、コロナ禍が落ち着き始めたと思ったら、今度はロシアによるウクライナ侵攻が起こった。2度目のロンドン勤務は、まさに激動の時代と重なっていました」

2023年に帰国後は、株式会社JALスカイの監査役に就任。経営陣の意思決定や事業運営を客観的な立場から見守り、助言を行う役割を担った。

大切なのは、自分で考え、行動すること

2026年4月に桜美林大学へ着任した上原教授は、学生たちに航空業界やビジネスの知識を身につけてもらうだけでなく、自ら未来を切り拓く力を養ってほしいと考えている。

「細かな知識や技術ももちろん大切ですが、私が一番伝えたいのは『考える力』と『行動する力』です。この2つがあれば、多くのことは乗り越えられると思っています。考えるだけで行動しなければ何も始まりませんし、逆に考えずに行動すれば遠回りになってしまうこともある。その両方をバランスよく持つことが大切なのです」

航空業界は今、大きな転換期を迎えている。人口減少や働き手不足、デジタル技術の進展、価値観の多様化などによって、人々の移動のあり方そのものが変わりつつある。だからこそ、航空業界の未来を考えるうえでは、従来の常識にとらわれない視点が必要だと上原教授は語る。

「これから人の移動はどんな意味を持つのか。そうした問いを考え続けることが重要です。『難しいから考えたくない』では、新しい航空会社も、新しいサービスも生まれません。今では、一日あれば地球の反対側まで行くことができます。世界を知り、異なる文化や価値観と出会い、人と人がつながる。その機会を支えているのが航空です。航空会社は、人を安全に運ぶという一つの目的のために、多様な専門性が結びついて成り立っています。そこには考える余地も、工夫できる余地もたくさんあります。自分の頭で考え、行動できる人材を桜美林大学から送り出していきたいと思っています」

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Profile

キャンパス内で佇む上原裕之先生

上原 裕之教授

Hiroyuki Uehara

1963年生まれ、神奈川県出身。日本航空(JAL)で40年、航空貨物、運航乗務員関連、経営企画等に携わり、米国と英国に3度、欧州地区の支配人を含め計10年以上の海外勤務経験がある。グループ航空会社3社で経営に従事。新規LCCの立ち上げ等のプロジェクト、種々のリスクイベント対応、経営企画や監査役業務での全体を俯瞰する視点等の広い経験を活かし、航空の過去・現在・未来をさまざまな角度から掘り下げ、学生の興味関心を引き出していく。

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